うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

M&Aと日本的経営

2007-08-28 14:44:15 | 経済
2007/2/23(金) 午後 10:17

M&Aが頻繁に行われるようになった。会社の売り買いである。その理由は、資本市場の効率性の確保にあるという。会社資産の非効率な利用しかしていない経営を効率的なものに替え、資本の収益性を増すのである。

表面的には、きれいな説明です。しかし、その実態はどうか。株価が資産以下の会社を買い、資産を切り売りして会社を解体する。PBR一倍以下の会社は、確実に儲かる格好のターゲットです。さらに、何らかの理由によりM&Aにより不都合が生じる会社に高額転売をもくろむグリーンメーラーも暗躍する。資本市場を利用した公然脅迫に近い。

日本型資本主義では、会社は従業員のものという感覚が強く、M&Aはこれまで稀であった。会社の名前に○○組とあるのにもわかるように、人間の集合が会社であった。しかし、この前提が急速にくずれ、それに日本人は適応できていないようだ。

日本では、終身雇用の慣行がいまなお根強い。これは現時点における会社への貢献で賃金をきめるのではなく、生涯にわたる貢献で昇進と生涯賃金を決定する仕組みです。新規雇用者は、人生をその会社に投資するといってもいい。当然、将来の地位を確立するために、身を粉にして働く。これが世界の珍現象たるホワイトカラーの長時間労働の原因です。長時間労働に適応してしまったため、人生を楽しむ方法もわからなくなっている。労働には喜びの側面がありますが、1日14時間労働が喜びとなるのは、マゾヒストという他はない。

終身雇用がくずれたのにあいも変わらず長時間労働が続いているのはなぜなのか。従来の惰性があるが、外部労働市場の未整備も原因でしょう。小生、たまたま多国籍外資に買収された会社に奉職しましたが、外人さんは世界でこんな労働をしているのは日本だけと絶句してました。チャイナでさえ超勤は原則ないという。経団連はホワイトカラーイグゼンプションを導入したいらしいが、超勤代ゼロ制度というのはあながち見当はずれではないだろう。

外部労働市場が未整備なのは、学校教育にも原因があります。日本では、文科系大学で学んだことで仕事で直接役立つものはゼロに近い。米国の大学が専門化した高度な職業教育をしているのと大変な差です。未熟練労働者を大量に供給する日本の文科系学部は、日本の事務労働者の低生産性の元凶ともいえるでしょう。労働時間意識をかえるのは、相当時間がかかるのかもしれない。

M&Aが起きると、会社内での支配・被支配関係が変わります。外資であれば、当然外国にある本社の経営方針が貫徹します。外国本社の意向を反映できる人間が指揮命令することになります。内資であっても、買収企業の企業文化を体現した人間が指揮します。終身雇用を前提に人生を投資してきたのに、突如はしごをはずされることになった日本型職員は反乱するのが普通だと思いますが、なぜか唯々諾々。そのうえ従来どうり長時間労働。あわれをさそいます。買収された管理・共通層も無傷ではありません。単純にいえば、管理・共通層は2社が1社になっても総数は一定でいいですから、普通リストラされることになります。M&Aが日本型経営と相容れない所以でしょう。

経営層にとっても、M&Aは困難をもたらします。レバレッジド・バイアウトという手法があります。買収先の会社の資産を担保に借り入れを起こし、そのお金で買収します。無借金企業がある日突然買収され、借り入れを起こした買収企業と合併する。一夜にして、無借金企業が、過剰債務の重荷を背負うことになります。合併せずにSPC(特定目的会社)を使うこともありますが、SPCの利払いが被買収企業の経営圧力になることは変わりません。むかし、商法の時間に「見せ金」という違法概念を習いました。会社の資本金の借り入れによる偽装でしたが、借り入れ利用がここまで進んだ現在から見ると隔世の感があります。

高度金融資本主義下では、構想力と借金力と決断力がありさえすれば、お金がなくても、会社が簡単に買え、かつその従業員を支配できる、ということです。従業員が健全な労働者意識をもっていればいいですが、日本のような身分意識の残滓があれば、悲惨な事態がおきるのでしょう。M&Aをお膳立てするコンサルタント、弁護士、会計士、金融機関は,わんさといます。村上ファンドやホリエモンは、そのテクニックにおぼれてしまった。もっとも、違法手段に訴えさえしていなければ、時代の寵児としての評価はいまも変わらなかったでしょう。

M&Aの問題は何か。端的に、資本の論理と日本型労働との相克です。グローバル化の滔々とした流れは止められないでしょう。とすれば、日本の労働者の意識を変える必要があります。化石化したマルクス経済学者は地質学科に移籍してほしい。ファイナンス理論と資本市場論、またそれがもたらす社会変動についての研究・教育すべきです。そして、そのなかで、職業人生をどう生きるかを考える必要があるでしょう。また、教育制度や労働制度などの整備も欠かせません。外国株式交換による3角合併の導入に制約をもとめる経団連の主張は妥当と思われます。


年金改革私案

2007-08-28 14:42:34 | 政治・行政
2007/1/29(月) 午後 7:53

安部総理の政策表明で、もっともお粗末とされるのが、年金政策です。なにせ、従来の政府見解そのままの踏襲ですから。厚生労働省のパンフレットを読んだほうがましでしょう。

少子高齢化が進むなかで、従来の年金制度が維持できない可能性は、極めて高い。これに加え、現行制度は、増築を繰り返した温泉旅館のように、迷路と言っていい。三号保険者、遺族年金、障害者年金、年金分割など、一体自分の受給資格・受給金額がどうなっているのか、さっぱりわからない。新聞紙面を社会保険労務士の年金クイズが飾るようでは、到底、国民の立場に立った制度とはいえないでしょう。国民の不信に輪をかけたのが、労組を含む年金組織の腐敗でした。

政府は、年金の一元化など、当面の小手先対応でお茶を濁そうとしています。これは、年金制度自体が、危機に瀕しているのにも拘わらず、一元化による財政調整で危機を先延ばそうとしています。すでに、基礎年金の通算制度で、国民年金の破綻を厚生年金で尻拭いして糊塗してますが、これをさらに大々的にしようとするものです。年金の迷路はさらに深くなるでしょう。年金一元化は、破綻年金の救済に利用されてきた議論であり、官僚のおもちゃです。これに、官民格差という絶好のお題目が加わり、メディアは、政府のお手伝いをしている図式ですね。

問題は、現在の年金制度が賦課方式に基づいていることに、起因しています。「年金は世代間の助け合い」というのが賦課方式の理念ですが、この制度は、世代間バランスが安定していることが前提です。将来を見通して、世代間バランスが安定的に推移するという想定はもはや成り立たないという前提に立つ必要があるでしょう。

そういう認識にたてば、年金を維持可能とするためにとるべき方向は、一つ。賦課方式から、自分の年金は自分が積み立てる積み立て方式に転換することです。さらに、最低生活の補償は国の役割ですから、その部分である基礎年金は、全額税負担でああるべきでしょう。世代間助け合いは、基礎年金だけにとどめ、積み立て部分は、自己責任の民営確定拠出型年金とするのです。

さらに、この基礎年金相当の給付は、失業保険、生活保護制度と統合し、無収入者全体をカバーする制度とすることが適当でしょう。現在の制度では、生活保護の実施責任は自治体にあり、年金不払い者が、国民年金より高額な生活保護を受ける(さらに医療費無料)という驚くべき不公平がまかり通っているのが実態です。そのため、生活保護者数はどんどん増え、いまや100万人以上。逆に、働く能力があると認定され生活保護も受けられずに困窮する若年者もいます。失業保険も2年までで、非正規労働しかしたことがない人は対象外です。

シームレスで漏れのないセーフティー・ネットとしての基礎的社会保障制度を実施しているのが、オーストラリアです。オーストラリアでは、新着移民を含めて所得がない人間はすべからく政府の給付金支給対象となります。そのレベルは、住居費を除いて生活がまかなえる程度でした(筆者の在豪時代)。

所得移転である社会保障は、そもそも自治体事務とすることに無理があります。いわゆる革新首長(そして、ある程度保守首長も)は、選挙での人気とりのため、ばら撒き福祉を連発しました。しかし、所得税を財源としない地方で、所得再分配を実施するのは自殺行為でしょう(インフラとしての福祉施設整備は別)。地方ではなく国が、社会福祉について直接責任を持つべきです。

オーストラリア類似の失業保険、生活保護を統合した基礎給付制度により、現在の年金徴収組織や計算組織はまったく不要になります。支給管理組織は必要ですが、これはすでに提案されているように国税庁で行えばいいでしょう。不正受給を見抜く情報も国税には既に集積されてます。

基礎給付の財源は、必要額連動消費税とする。あらかじめ、税率を定めるのではなくその年に必要な額に相当する消費税を課し、財務省の裁量の余地のないものとする。これにより、消費税の使途が厳しく限定され、国民に対する説得力が増すことになる。

なお、基礎給付レベルを住居費を除いたレベルとすると、まったく生活力に欠けた人は、路上生活者になるほかはない。これを避けるために、住居の現物給付を限定された形で提供する。具体的には、過疎地域においてシェルターとなる公的住宅を提供し、国土維持を兼ね農林業関連分野で付加的所得が得られる体制を整える。(併せて、現行の都市部における公営住宅制度を廃止し、全借家を対象とした公平な家賃補助制度に転換する。青山や広尾の都営住宅は、補助金投入の上、固定資産税支払いもなく2重に不公平。議員による入居利権配分も門題。なお、過疎地におけるシェルターの整備とあわせ、路上生活を犯罪として取締まるべきでしょう。)

所得比例部分は、現行確定拠出年金類似の制度とします。制度は国が定め税制優遇をしますが、個人責任です。自営業、主婦も現行個人年金と同様の制度とします。現在の厚生年金は、全体を一元的に国が運用してますが、膨大な資金の運用を官僚に任せるのは非効率かつ腐敗の温床となるでしょう。報酬比例年金の分割が離婚率を左右するにいたっては、もはや、お笑い種といってもいい。分割態様は、当事者の協議と判例に待つべきでしょう。どうして、年金制度が国民の結婚生活に介入するのか。改革後の運営主体は統合ではなく多様化であり、運用成績もばらつきがでてくることになります。この観点からも、年金の統合が無意味な試みであることが明らかでしょう。

税金による基礎年金と報酬比例の民営化の支持者は、学者にも多い。しかし、政府がこの抜本的改革に二の足を踏むのは、実は、700兆から800兆円ともいわれる年金の積み立て不足の処理が問題となるためである。現在の制度の適用を受ける人の徴収額は前世代に支払うので、自身には積み立てがない。これを埋め合わせる額が、前記の額である。この額におののき、誰も改革を言い出せないでいるのが現実です。

トヨタでは、いま「見える化」による経営改革が進んでいます。年金は、見えない問題です。しかし、現実の匂いは、隠すことはできません。年金問題は、ひとり社会保障の枠を超え、将来不安から生じる低消費性向を通じて、経済全体の問題となっています。単なる当面の支払い対策を講じても、将来不安は、見渡せる限り、消え去ることはないでしょう。日本経済に対する重しとなり、経済の足を今後数十年の長期にわたり引っ張るに相違ないでしょう。いまこそ、年金問題を勇気をもって「見える」化し、抜本改革に乗り出す時でしょう。

具体的には、年金改革基金を創設し、現行の約100兆積み立て額を編入するとともに、旧制度権利者の新制度への移行計画を策定する。加入期間に応じ移行一時金を支払うことになる。また、既存受給者に対しては、所得水準に応じ理解の得られるレベルでの給付減額を実施する。もともと、現在の受給者は、貰い過ぎであり、子孫のために生活レベルに応じ割戻しすべきでしょう。その制度の前提として、数十年にわたる移行期間全体に対して、財務シミュレーションを実施する。収支ギャップを現在価格で計算すれば、800兆円ですが、毎年の収支計画にすれば、いくらづつ必要になるか、計画上確定する。毎年の必要額は、増税でまかなう他はない。

増税というと、新たに取られる感があるかも知れない。しかし、実は、この相当額は、現行制度でも年金額切り下げなどの形で将来発生するはずのものである。上記提案は、これを「見える」化したものに過ぎない。漠然とした不安は、対処のしようがない。しかし、見える危機は対処は簡単です。

現在、国の財政は危機的状況で、やっとプライマリーバランスの回復が目標となっている段階である。この事態をさらに複雑化するすると怒る人もいるでしょう。しかし、社会保障改革なくして日本経済の復活はないでしょう。少なくとも、政府は、年金改革案の検討に際しては、積み立て制度への移行シミュレーションを選択肢の一つとして公表してほしい。そして、政治家には、選挙の争点にしてもらいたい。


地域経済活性化

2007-08-28 14:41:11 | 経済
2007/1/31(水) 午後 3:01

地域とは国に対する概念ですが、世界的な観点からは、日本国全体が世界の中の一地域です。理屈の上からは、国内の地域発展政策に対する考え方は、日本経済全体の発展政策と同様の枠組みが適用できる筈です。

国の経済発展戦略の中心にイノベーションをすえるのであれば、地域経済発展戦略の中心もイノベーションであるべきでしょう。

イノベーションに限らず、日本経済全般に対する政策提言はすべて、地方にひきなおしたときに、どういうことを意味するか、と言う観点から考えることができます。

また、時代認識としての、グローバル競争と地域、ワークライフバランスと地域といった観点も見逃せません。

経済の活性化または発展の目的は何か?これは、その国、地域の人々の生活水準(一人当たり消費)の向上です。それを支えるのが一人当たり所得=生産額(付加価値)の向上であり、これは、生産性の向上により達成される。生産性は、また、経済の国際的競争力の源泉でもあります。

本来、政策や経済活動の目的は、人々の幸福の最大化です。しかし、幸福は、個人の価値観に依存するものであり、政策目標として使い勝手が悪い。そこで、人生における不幸の原因は多くは収入に起因してことに着目し、一人当たり所得=生産の向上が通常代替目的となります。

国、地域を問わず、経済の発展とは、一人当たり所得=生産の向上を意味するもの捉えるべきで、それを達成する唯一の手段は、生産性の向上です。

シュンペータが明らかにしたように、生産性の向上は広義のイノベーション=新結合により達成される。そう言う意味では、イノベーション政策は、生産性向上運動と同義になります。

問題は、イノベーションというと、イノベーションを起こすこと自体が自己目的化して、生産性向上という究極の目的と乖離するおそれがあることです。イノベーションはあくまでも手段であり、その意味では、生産性向上が本来目的であることに注意が必要と考えます。

例えば、地域にヒト・モノ・カネ・情報を集めるために地域では、イベント企画が多く実施されますが、果たして生産性向上に資するものか、疑問があります。

イベントが生産性向上に資するのは、イベントを通じて地域に何らかのイノベーションが生
み出され、それを核として更なるイノベーションを誘発する場合に限られます。一過性のイベントは、地方を疲弊させるだけにおわるでしょう。

イベント実施の判断基準を生産性向上視点にするべきでしょう。イベントだけで日本経済の長期的発展を図るという考え方の愚は明確ですが、地域開発となると眼が曇ってしま
すのは残念なことです。

(アートやイベントを利用した地域振興は、小生は全面否定するものではありません。意見にも述べましたが、本来は、幸福の最大化が経済の究極の目的でその重要なエレメントの一つがアートです。京都ブランドは、日本最高の地域ブランドの一つでしょうが、過去の京都人のアート生活の伝統が地域経済のインフラとしても残存していることによるブランド形成の例でしょう。また、女性のファッシ
ョンブランドはアートと不可分ですね。

工業社会においても、日本の電気製品のデザインには、日本文化の簡潔性の伝統があり、それが世界にアピールした側面があります。むしろ、今後は、高付加価値生産活動には、アートやそこに表現する価値観を明示化する方向が不可欠と考えます。生産性は、アウトプットをインプットでわったものですが、インプットは(材料の質と)効率性が課題、アウトプットの方は、高付加価値化が課題です。高付加価値化に手段に一つとして、アートは大きな役割を果たすものではないか、と考えます。なぜなら、今後の需要は、物ではなく生活になるという大きな流れの中で、アートは、生活の質を考えさせる一つの契機だからです。(もっとも、これもアートを功利的に捉える考えで、アーティストの反感を買うかも知れませんが)。アートなどの文化的伝統も都市計画と同等の産業インフラとして積極的に発展させ活用することが必要でしょう。)

長期的に経済の生産性を向上させる源泉は、国も地方も、イノベーションの基盤となるインフラと人材です。従って、地域経済の発展の王道は、法制度などを含む広義のインフラ整備と人材確保です。

以上の考えからすれば、地域ですべきことは、まず、地域の生産性の現状理解、さらに、インフラ・人材における自己診断と評価でしょう。また、生産性向上のためのイノベーション促進システムの構築ということになります。

生産性競争において重要なのは、まずポーターのいうポジショニングでしょう。

いかなる分野において、その企業、地域、国が競争力を持つか、これを探ることです。地域が、あらゆる分野で競争力を持つのは不可能です。競争優位可能な分野を選択し、集中的の資源を投入し、生産性向上をはかる必要があるでしょう。

地域では、昔ながらの産業をそのまま維持しようとする強い慣性がありますが、大胆に社会の需要構造の変化を見通し、需要を先取りする決断が求められます。

一つの考え方は、日本社会が直面する様々な課題は、経済的に見れば、需要の塊とみなすことができるということです。課題解決に地域をあげて取り組むことは、地域開発のみならず日本経済のボトルネックの解消にも資することになります 。

地域イノベーション促進システムとして重要なものの一つは、地域間の競争と協調です。これは、企業の場合も同様ですが、競争圧力がイノベーションを生み出し、それを育てるのが協調でしょでしょう。例えば、都市と農村は相互補完関係にあり、各地域は独立しては存続しえないという認識が必要でしょう。

また、競争システムの前提として、評価システムの構築があります。日本では、あらゆる分野で評価システムが貧弱で、評価そのもに対する強い抵抗があります。

競争には、価格競争と品質競争がありますが、品質は、一見、目に見えないため、品質が明示されないと、価格競争と品質劣化のスパイラルに陥る恐れがあり、そうなると、中国製に対抗することは不可能になるでしょう。きちんとした付加価値を確保するためには、品質を眼に見える形にすることが必須です。

一部に試行されている地域ブランド政策は、ブランド・プレミアアム確保という側面もありますが品質保証の意味が大きいと思われます。

実は、大部分の財にかんしては、品質保証があればフェアな競争ができるのではないか、と推測します。また、ブランドも乱立するに従い、単なる品質保証になるものでしょう。それならば、品質保証による競争力の問題として考えた
ほうが適切と思われます。

品質保証をこえた真のブランド確立に資すると思われる方策の一つが、ネイションワイドでの品評会とその権威付けでしょう。コンテストに優勝するためには、必然として地域企業の努力が求められ、これがイノベーションをもたらすでしょう。このためには、世界にも認められるようなコンテストにおける公正な評価システムが必要でしょう。

インフラに関しては、ICTインフラの重要性に目おむけるべきでしょう。米国経済の最近の生産性向上には、ICTが大きく寄与してとの分析がされています。日本のICT活用レベルは、依然として世界とは格差があり、ICTによる生産性向上余地が大きいことは間違いない。問題は、企業、特に中小企業のトップにこの認識が薄いことでしょう。

需要を確定すれば、必要な人材も明らかになります。問題は、いかに確保するかです。基本は、人を引き付ける条件を整備するということですが、人口流出地域には、この条件がないということです。つまり、生産性低→所得低→人材流出のサイクルがあり、これを逆転する必要があります。

方策の一つは、限られた資源を特定分野へ集中投入することにより、イノベーションを体化した高生産性部門を創造し、そこを核に上記プロセスの逆流を起こしていくことです。

また、実は人材を引き付けるのは、実質生活水準であり、必ずしも所得金額ではないことも考慮すべきでしょう。地方には、金額に換算できない環境や生活スタイルがあり、これを考慮した人材誘致戦略が考えられるべきでしょう。

ワークライフバランスの実現は、中央より地方において実現が容易であり、地域社会とし てこれに率先して取り組み、実績を強調することが考えられます。国もこれを後押しすべきでしょう。

さらに、ICT技術は、距離をこえて労務等のサービスを提供する手段であり、この点でも有用でしょう。地域の人が、高生活水準を維持し、自ら生活楽しんでいる姿を見せる、これが地域に人材を引き付ける要件でしょう。

この地域の人が生活を楽しんで知ること自体が、実は、観光産業の振興にも必須の要件と考えられます。

むかし、旅行が贅沢品だった時代には、名所見学が観光目的でした。しかし、いまは、地域の人の楽しんでいる世界に参加し、それを垣間見ることが、目的となっているのではないか。

例えば、豪州に行って日本の旅館に泊まりたいと思う人はいないでしょう。豪州人がつくりあげた豪州ならではの生活スタイルが魅力的なのです。

基本的なインフラとしての宿泊施設は必要としても、ホテルに泊まること自体は観光目的になりえません。

観光のための観光開発ではなく、地域の生活そのものを見せることが重要でしょう。そのためには、他人があこがれるほど、地域の人自身が地域での生活を楽しんでいることが必要です。今後の地域インフラの整備もこの点を重視すべきでしょう。

最後ですが、自治体が地域振興に果たす役割は大きなものがあります。自治体のビジネス環境整備のあり方についても提言すべきしょう。

また、地方の経済団体に対し、地域イノベーション創出運動などの指針を提示することも有用ではないかと思われます。


日本の道路改革

2007-08-28 14:38:38 | 政治・行政
2007/3/19(月) 午後 10:07

リッターあたり50円近いガソリン税などが原資となっている6兆円近い規模の、道路特定財源のありかたが問われている。本四連絡橋に対する赤字補填がなくなり、毎年5000億円ほどが余る想定という。財務省は、一般財政赤字補填、国土交通省は、使途を交通インフラ全般に拡大、環境省は、環境関連経費への充当、地方は地方配分の増額、自動車業界は減税、と意見が対立した。結局、昨年末、道路整備利用を拡大すると同時に余剰資金は一般財源に繰り入れることで決着した。

道路特定財源は、日本の総道路予算の約半分を占めている。そのうち、国は30%地方が20%使っている。他の半分は、財投と地方債等でまかなわれている。実は、国民負担はそれだけに留まらない。小泉道路公団改革で平成17年10月に発足した日本高速道路保有・債務返済機構(純資産約5兆円)は、約38兆円の負債があり、それを45年で返済していくという。

道路はインフラのインフラと言うべき際重要インフラです。電気、ガス、水道、通信、建物もすべて道路インフラに依存しています。道路が悪ければ、他のインフラも発展しようがない。日本の一般道は、舗装はほぼ100%に達したが、地方では道路と呼べない細い道が多く、とても整備が終了したとはいえない。一方、「こんなところに」と思うような場所に立派な農道が走っていたりする。また、東京の高速道路は慢性的に渋滞しているのに建設が滞り、車が少ない田舎の高速道路の建設が進められている。米国のフリーウエイと比較してもっとも実感として問題なのは、日本の高速は地域社会と分断されていることだ。米国では、数百M高速に乗ってすぐ一般道に下りることが普通にできる。一般道の補完、地域の足としての高速となっている。日本でこういうことができないのは、有料だからですが、さらにインターチェンジ間の距離が焼く10KMと長いのも原因です。米国ではニーズによりインターチェンジが自由にでき、当然パーキングエリアの業者による囲い込みもない。市場原理にもとづき、給油所と休憩施設が民間で供給されている。

日本の道路行政の問題の根幹は、国と地方の責任分担が時代遅れとなっていることです。地方に能力のなかった時代、国は国道整備により国土開発をはかりました。しかし、いま、従来の国道の整備を国が行う理由を見つけるのは困難となりました。一般国道整備は道路特定財源(プラス国土交通省省職員)ごと全面的に地方に移管すべきです。一般道整備が地方に移管されれば、農道との重複と言った事態は、地方の自主性により自動的に解決されるでしょう。また、市町村内の道路の整備は、これも全面的に市町村に移管されるべきでしょう。自分たちのことは自分たちでやる。これが、無駄を制御する究極の仕組みです。さらに、これは、用地取得にありがちな「ごね得」抑制にもつながります。

さて、国に役割は、一般国道から高速道に移るべきです。国土形成全体に影響するからです。現状、これが特殊法人化されています。そして、法人化されているがゆえに、地域社会との分断を引き起こしています。特殊法人を解散し、国土交通省自身が、国道としてただで国民に提供すべきでしょう(前々回の総選挙での民主党の考えに近い)。

道路が利用者にただで提供されるべきという考えは、経済学的根拠があります。初期投資が膨大となるインフラ事業については、建設固定費は税金でまかない維持管理費のみ利用者に課すのが、経済的厚生を最大にするとされています。道路特定財源は利用料見合いとされ、これを維持管理に充当すれば、利用者料金はただでいい。ただ、その場合、建設計画が議会で合理的に決定される必要があります。そうでないと、無駄な道路ができます。これを防ぐため、建設費を含めて道路特定財源でまかなうというのは、一定の合理性があるでしょう。(なお、経済学的厚生が最大となるのは、利用効率の向上を通じてなので、混雑が発生する場合、混雑料を課して需要抑制することは必要。この場合、混雑料収入は、混雑解消のための道路投資にあてるべきです。)

思えば、小泉・猪瀬道路公団改革は、ボタンを掛け違えました。本来、国のやっていることを地方に、特殊法人の仕事を国に移管すべきでした。やったことは、特殊法人を4分割して焼け太りさせ、必要性の疑われる道路の建設は継続し、道路建設計画の非効率を温存し、既存高速道路の効率的利用を阻害し、高速道路による地域の分断を放置しました。民営化という言葉のみに幻惑され、本来公共財の果たす効果と提供システムに配慮が不足していたいえるでしょう。公団の債務処理は、国家直轄という原理のもとで考慮すべきでした。そうすれば、高速料金の無料化実現のため道路特定財源の一部利用という考も出てきたでしょう。揮発油税等の税率は、あらかじめ決定するのではなく、毎年の必要額に応じて税率を毎年決定すべきでしょう。小手先の帳尻あわせでなく、経済の発展を考えた道路政策が望まれます。


NHKの改革

2007-08-28 14:36:02 | 政治・行政
2007/3/7(水) 午後 4:29

受信料制度の見直しが提案されている。受信料の不払い運動は下火になったようであるが、不払い者数は依然として多く、放置すれば、不平等感はたかまるばかりであろう。NHKの受信料を義務付けると同時に2割引き下げ、チャンネル数も削減するという。

放送は経済活動ですが、通常の市場原則が働かない分野とされています。放送の消費者は特定できず通常の取引態様ではサービスの提供ができない。経済学では、消費(番組視聴)に対し排除可能性(ただ見可能)がなく、公共財だとされました。このため、放送では、二つの提供システムが考案されました。一つは、公共放送。税金類似の方法で料金を徴収し準政府機関がサービスを行う。2つ目は、民放。広告料で、番組経費をまかなう方式です。

通常の財であれば、基本的には、消費者は自分の好みの価格・品質組み合わせを選択できます。しかし、公共放送では、選択が単純化され、(消費者の代理人たるべき)NHKが判断した財が提供されます。また、民放では、消費者は、広告主であり、視聴者は放送事業者が広告主に売却する対象物です。売却物たる視聴者はタダで番組を視聴できますが、タダという条件下での番組供給は、有料での視聴とは異なるパターンとなるでしょう。センセーショナルが、民放の行動原理となるのは、このためです。捏造もこの一環でしょう。

税金類似といいながら、戦後の日本では、前提となる料金の強制徴収が尻抜けという制度的不備のまま運営されてきました。戦前は、受信機設置は政府の許可であり、NHKとの契約がなければ設置許可がされませんでした。しかし、戦後この担保が外れたのに、受信料支払いが順調だったのは、世界的にみて稀有の事態でしょう。

この背景の説明には2つ考えられます。一つは、NHKの運営がすばらしく誰にも不満をいだかせなかった。もう一つは、国民が権威に弱くお上を無条件に信頼していた、また、反抗しようとすると村社会の圧力がかかった。

公共放送の問題は、政府はいかにあるべきか、という問題と同じです。料金(税)の水準はどうか、料金の負担態様は合理的か、運営は効率的合理的か、番組は国民の要望を反映しているか。今次の騒動の発端となたのは運営に関する不祥事でした。しかし、底流には、公共放送そのもののあり方に対する疑問があったのではないでしょうか。

いま、グローバル化の進展とともに、伝統的価値観が大きく崩れています。また、崩れるだけでなく、代わるべき価値観の多様化が進んでいます。この事態は、特定の一者が、公共を名乗り、国民を代表して価値判断することをほぼ不可能にしています。NHKと違う判断をもつ人は、当然受信料に違和感をもつでしょう。放送は、他の公共財と異なり誰もが等しく需要するものでないので、この違和感は重要です。特に、公共の名のもとに特定の思想・立場を刷り込むことを目的としているジャーナリストがいれば、なお問題です。政治からの独立性が問題となってますが、ジャーナリスト自身の判断の公共性をいかに担保するかのほうが、はるかに重要でしょう。残念ながら、この課題に対する解はありません。ジャーナリストは、個人としての価値判断から逃れることは原理的に不可能です。

アメリカにも、公共放送があります。地域レベルで地域の寄付金で運営され、これに連邦の補助があります。運営は、日本型の公共ではなく、民放で供給されない情報の補完がその精神です。つまり、「市場の失敗」を補うことが役割で、この場合は、価値観の多様化という現象と整合性があります。センセーショナリズムに流れる民放に対し、地味であるが有意義な情報や物事に対する別の見方を提供するものです。公共性を持った見解を提供することではなく、見解を多様化することが公共性という考えです。まさに、表現の自由が目的とする「思想の自由市場」を実現しようとする試みといえるでしょう。

価値観の多様化と並び、もう一つの大変化が、放送業界におきています。それは、地上波ディジタル化です。ディジタル放送では、アナログの特性である「消費の被排除性」がなくなります。つまり、スクランブル化により、契約者のみにサービスを提供することが可能となりました。アナログでもスクランブルはありましたが、簡単に解除できました。これが、ディジタルではほぼ完璧になります。衛星では、既にスカパーなどで実現しています。つまり、公共放送ではなく民間有料放送としての地上波NHKが可能となるということです。

以上の変化を踏まえたでのNHKの改革案は、いかにあるべきでしょうか。

まず、視聴率競争に参加する総合チャンネルは、公共放送として運営する必要はないでしょう。好きな人だけが契約する通常の市場原理に従う有料放送として自由に展開すべきでしょう。公共という非現実的な編成方針の束縛はない。政府の管理そのものから外れるわけですから、料金問題も運営問題も生じない。

つぎに、教育チャンネルはどうでしょうか。この視聴率は1・2%前後。明らかに視聴率競争からおちこぼれた番組の提供を目的としている。これは、アメリカ型の公共放送として生かしたらいいでしょう。寄付金と地域と国との助成金による県域局を単位として運営する。また、これらの局が、全国番組の共同制作母体たる中央連合組織を組成する。もともと多様な見解を提供することが目的ですから、特に異常な番組を除いて番組に対する違和感も薄いはずです。

と、ここまでが従来の仕組みの合理的展開として考えました。しかし、実は、さらなる大変化が放送界を襲っていることを考慮してませんでした。それは、いうまでもなくインターネット。ユーチューブのようなインターネット経由の動画配信が爆発的な人気を博しましたが、さらにIPTVという高品質の動画配信が実現しようとしてます。これらは、さらに番組多様化に寄与するでしょう。その場合、教育チャンネルは不要かもしれませんね。総務省では、通信と放送の本格的な融合法制を検討するとのこと、少なくともそれまでは、NHKの抜本的改革はお預けでしょうか。


日本の官僚制度

2007-08-28 14:32:30 | 政治・行政
2007/3/16(金) 午後 5:51

総務省の放送政策課長が更迭された。NHKに対する政策をめぐり大臣と相違があったという。日本の官僚制度からは異例の事態です。もっとも、小泉政権では、郵政民営化にからみ、次官・局長級が更迭されましたが、課長レベルでは聞いたことがない。

日本の官僚制度は、キャリア官僚制と呼ばれ、身分を保証された公務員が政治信条に拘わらず政治家に使える仕組みです。終身雇用の枠組みのなかで人事は、公務員自身の自律にまかされた。特定の政権に偏った人事が行われれば、政権変更の場合に報復人事が行われることになり、制度は混乱するでしょう。実際には、政治家の意向にそった人事は行われてきたが、それは、定期人事異動の中で目立たない形で行われ手きた。今回の事例は、政治効果をねらい、見せしめ的に行われたという点が注目点です。

アメリカでは、大統領が交代する度、2、3千人程度の官僚が交代します。新たな大統領の政策を実施するため、それにふさわしい人材を任命するのです。政治任用制と呼ばれます。大統領自身は、直属の長官(Secretary)など要職公務員しか選びませんが、その専任された公務員がまた自らの意を体する部下を人選します。数ヶ月かかる大作業です。

行政組織は、職階制と呼ばれる組織原則により運営されます。これは、職務毎に責任と資格要件を明示し、それに相応する俸給を支払うというものです。また、行政組織の構成は大統領の専権で、新大統領が最初に発する行政命令は、新政権の組織改正です。政策目標があり、それを達成するための組織がある。そして、その後に、ふさわしい専門能力を持った人物が任命されるという訳です。

ちなみに、職階制は公務員に特有の制度ではなく、米国等では民間でも普通に見られる制度です。職務内容を明確に記述(job description)し、職責に応じた処遇をする制度は、経済のグローバル化により、日本でも広まりつつあります。もっとも、アメリカでも、企業トップは就任直前には、さまざまな職種を経験し、全体的視野を養う。また、職階制は、専門職をめぐる外部労働市場の成立にも関係します。アメリカでは、官僚、学者、民間企業間の転職が可能な労働市場が成立しています。

実は、この職階制は、占領下、米国により日本に持ち込まれた。公務員は、資格試験に合格しなければ課長等に昇進できず、試験勉強でパニックに陥ったという。現在も、国家公務員法には、職階制が規定されている。しかし、人事院規則により、実施が凍結されている。終身雇用制のなかで、さまざまな業務を経験する( job rotation )なかで人材育成をはかる制度とは、相容れないというのが理由です。

今回の更迭劇で、明らかになりつつあるのは、日本の政治による政策主導の方向が明確になりつつあり、官僚のあり方にも構造変化が起きていることでしょう。

明治以来、官吏は天皇の官吏とされ、議会に対し超然たる権力を行使してきた。戦後、国民全体への奉仕者へと、位置づけはコペルニクス的転換をしたが、国民意識は、従来の考えを引きずっていた。日本の官僚の中枢機能は、行政ではなく、実は政府提案という形で立法をすることでした。これには、西欧に類似する国家をつくる上で指導者としての役割をになった明治以来の伝統があったことは、想像に難くない。

日本の政治がイデオロギー闘争にあけくれていた時代、官僚は政策を主導し、政治家はコメンテーターでした。官僚の能力の判断基準は、政策を実現するために、いかに政界工作に長けているかでした。こうして、戦後の自由民主党の長期政権のなかで、官僚と自民党とは癒着していきました。

いま、戦後60年かかって国民側にも官僚側にも憲法が目指した本来の意識が生まれつつあるのではないか。政策は政治家が主導し、官僚はそれを誠実に実行する。政治と行政との分離です。

アメリカの方式は、大統領制のもとでの解答ですが、議員内閣制をとる豪州の制度も今後の官僚制を考える上で参考になります。

豪州では、省の組織とは別に、大臣は大臣室という組織があり、政治判断はそこで行います。例えば、議会での質疑、省は、毎日、行政関連情報を book という形式でまとめ大臣室に届けます。大臣は、その情報をもとに議会答弁を行いますが、これは、大臣の全責任のもとに行います。日本のように想定問答を、官僚がつくることはありません。省には、キャリア官僚の省長(department head )がおり、省の人事を含む管理権を行使します。これにより、政治と行政執行の中立性のバランスを確保しようとするものです。

職階制の精神もゆるやかな形で導入すべきでしょう。この点、すでに導入している先進的な民間企業の例を参考にすべきでしょう。科学技術の発展と社会の複雑化により、行政に求められる専門性が増大しています。少数の人間がすべてをカバーできる時代は終わりました。行政の質的な高度化が求められています。

最後に官僚への人材供給システムにも配慮が必要でしょう。社会の発展維持のために、優秀な人材を公務員に引き付けることは重要です。官僚を希望する人材の劣化の結果、損失を蒙るのは結局国民となるのでしょう。


日本の地方制度

2007-08-28 14:30:44 | 政治・行政
2007/2/3(土) 午後 4:56  

地方の腐敗がとまらない。夕張に代表される放漫経営も、多かれ少なかれ他の自治体にもみられます。伊勢崎市の二台目の観覧車計画はその最たるものでしょう。

なぜ、このような問題が続発するのか。最大の原因は、地方の経営を合理的にするインセンティブの体系が存在しないことに求められよう。

言い換えれば、意思決定権者とその決定の結果受ける者とが不一致であることが問題です。自分につけが回らないのであれば、誰でも放漫なり、自分に結果責任があるのであれば慎重になる、というのは当たり前のこと。自分に結果がかぶさるのであれば、予算の策定にも首長の選出にも、少しは真剣さがでるのでしょう。

日本の地方は3割自治という言葉に象徴されるように、地方の業務経費の3割しか自主財源がない。言い換えれば、7割が国からの財源ということである。しかも、地方債の相当部分は国が補填ことになっており、借金も補助金と同等視する風潮がある。伊勢崎市の観覧車も、合併特例債で、国が大部分を補填するという。まさに、借金しなければ損という制度です。

どこから、改革したらいいのか。現在の主張は、国からの税源移譲により使途自由な金をもっと配分し3割自治の解消する、というものである。しかし、その前に、考えるべきことがあるのではないか。

実は、日本のような地方公共団体は、アングロサクソンの国には存在しない、ということである。

日本の地方公共団体は、あらゆる地方行政事務の実施する万能行政組織です。米国では、自治体の事務は、治安と地域の土地計画関連事務に基本的に限定されている。福祉に関しては、施設設置関連事務は行うものの、基本的に所得移転自体は行わない。また、行おうとしても、財源上、不可能です。

米国の財源は、固定資産税であり、税率は、毎年、支出に連動して決定されています。固定資産は、市場価格で評価され、公正さを保つために税査定人は選挙で選ばれます。

(もう一つ、米国での基本的な自治事務として基礎教育がある。これは、同じ、固定資産税を財源とするが、運営自治体は、school district という。municipality 同様、首長は選挙で選ばれます。同じ固定資産税を財源とするが、school government は独自課税権を有しており、教育レベル(支出)に応じたものとなる。)

このように、米国では、固定資産の税率が、支出に連動するため、住民は支出監視に大変厳格になります。

かつて、カリフォルニアでは、1978年、Proposition 13 と呼ばれる「納税者の反乱」が起きました。この立法は、自治体が課税する税率の上限を設けるとの州憲法の改正でした。結果、固定資産税率は、50%以上削減され、自動的に自治体支出は、強制的に同率引き下げとなった筈です。

米国でなぜ「納税者の反乱」が起きたのか。まさに、自治体の経営の合理化を図るインセンティブが機能したわけですが、これは支出者と負担者が一致するという、当たり前のことが、システム上保障されていることによります。

米国では、おおまかには、自治体の財源は固定資産税、州の財源は売上税、連邦の財源は所得税(所得税は地域により税率が違うと、引越しで課税逃れが可能。もっとも、最近のボーダーレス化で、国境も所得税逃れの制約ではなくなってきている)、ときれいに分かれています。

これに応じて、任務も分かれており、自治体は、地域計画と基礎教育、残余は州、連邦は、国防など州際事務となっていますが、所得移転も連邦事務となっています。各地に食料切符や医療援助を行う連邦事務所があり、受給権者に直接支援を行っています。

以上、米国の制度を概観しました。まさに、「自治」が貫徹していることがわかります。では、日本に対するレッスンはなんでしょうか。

明治維新後、政府は欧米にキャッチアップするために、強力な中央政府をつくりました。これは、欧米による植民地化の脅威に対する合理的な反応といえるでしょう。

廃藩置県以降、国家行政機構の一部として、地方組織は機能しました。自治の完全否定といってもいい時代でした。さらに、社会の近代化をはかるため、政府は社会のあるゆる側面で関与を強める家父長的保護政策をとりました。内務省を頂点とする地方組織は、警察をふくめ、住民のあらゆる生活に関与することになりました。自治ではなく官治の手段が地方組織だったのです。

戦後、米国は日本国憲法をつくり、これで地方自治を導入したつもりでした。しかし、実態は、地方税法と地方交付税により、自治体業務は自治省によりコントロールされました。

税率は、一部例外はあるものの基本的には全国一律です。交付税は、ことこまかな使途を積み上げたものであり、自由からは程遠い。さらに、各省の補助・交付金事業が、自治体の自由度をうばいます。

これに輪をかけたのが、選挙で選ばれた首長の、家父長的伝統の継承です。保守革新をとわずの福祉バラマキは、この文脈で理解する必要があるでしょう。しかも、最悪なことに、メディアや地域住民が、自治体の本来事務が、(家父長的)福祉であると誤解していることです。

我々がすべきことは、まず第一に、地方自治体の業務の整理です。所得移転を伴う福祉は、国にまかせ、主要任務を、地域のインフラ整備とすべきでしょう。(日本では、医療保険や介護保険も地方の制度とされているため、これらの保険料の地域格差が何倍にもなっている。通信の分野では、過疎地の住民の電話料の下げるためユニバーサル基金制度が運営されているが、本来のセーフティーネットの部分でこんなざるがゆるされているのは、噴飯ものでしょう。また、誰も文句を言わないのが不思議。)

日本でも、かつての集落では、どぶさらいや入会地の管理には、住民の「寄り合い」で住民の負担のもとに実施されてました。米国の自治体はいまでも、かつての「寄り合い」の精神で行われています。

カリフォルニアのマウンテン・ビューという自治体があります。人口は10万、スタンフォード大学があり、シリコンバレーの中心です。ここの自治体の見学をしたことがあります。立派な市庁舎、しかし、議員10名程度?はすべて非常勤、議会は夜間開会、報酬なし。議題は、地域の道路伝略通信等のインフラ一般。事務局は、専任の雇用したマネージャーがいますが、市長は、議会議長の兼任だと思いました。まさに、寄り合いが大きくなり、管理人を雇ったというイメージです。

課税自主権は、業務の整理とセットとして、初めて成り立ちます。米国型の支出との連動型税制は、無駄使い排除のシステムとして非常に優れています。もし、住民は本当に高度な行政のレベルを望むならそれにふさわしい税率負担を引き受けなければなりません。また、財源を固定資産税にするのも合理的です。土地インフラの高度化により、産業が発展し地価があがれば、それを税に還元することは、極めて合理的です。

国と地方の業務は、行政責任としては完全分離すべきでしょう。例えば選挙人の確定・通知など、業務における協力関係は必要です。しかし、業務の委託とか委任は、不必要です。

国は、税務署のように、全国に国の福祉等の直轄事務所を置き、国の事務を直接遂行すべきです。インフラ構築の責任に関しても、国と地方の責任を明快に分離すべきです。

例えば、現在の国道は、すべて地方に移管し、国は高速道路のみに権限を限定すべきでしょう。河川管理も、地方に全面的に移管可能でしょう(大河川は2・3の県の共同体管理とする)。国の公共投資の無駄が指摘されてますが、地方移管によりこれも改善できそうです。

市町村と県の財源・機能の双方における2重行政は排除する必要があるでしょう。基礎的自治体を主とし、県は廃止すべきです。道州制が提案されていますが、基本は賛成ですが、道州の権限が問題です。基礎的自治体を指揮監督することは無駄でしょう。国と同様、事務と財政の完全分離の原則が貫くべきです。道路でいえば、基礎的自治体内道路と基礎的自治体間の道路という具合です。

地域間の財源調整の仕組みは、人口集中地域から人口の少ない地域に対し、面積・人口のみによる基準により行う必要があるでしょう。

都市は都市のみにて存在しているのではありません。田舎の水源や空気や自然があって初めて都市生活が維持できてます。その補償として調整するのです。受ける側の使途もインフラと環境保全にげんていすべきでしょう。

自治体の監視体制ですが、自治がしっかり機能すれば夕張のようなことは少なくなると思います。しかし、事務の複雑化に住民の知識が追いつかないということは、可能性として常にあるでしょう。情報の完全開示とオンバズマンの制度は、当然取り入れるべきです。

それに加え、最近導入された早期是正制度をさらに充実させ、住民の監視の参考とするとともに、破綻した場合の最後の砦としての、国家管理制度も必要でしょう。

不祥事がおきると、日本では、制度の欠陥よりは、特殊事情の追求に重点がおかれます。なにより、メディアはそのほうが面白い。しかし、繰り返し起きることには、必ず構造的な欠陥があります。構造的な欠陥は、立法によってしか直りません。しかし、わが国では、議員に立法者という意識が薄いのが現状です。英語では、議員のことをlawmakerといいます。日本の議員さんも、すこしは、英語の勉強をしてほしいものです。


国会改革

2007-08-28 14:28:38 | 政治・行政
2007/2/7(水) 午後 6:38

参議院選挙を意識した与野党の鞘あてが激しさを増している。

郵政解散選挙で、衆議院では、自民・公明の与党が圧倒的多数を確保した。しかし、参議院では与野党拮抗している。今年の参議院選挙で野党が勝利すれば、野党支配の参議院で、衆議院から送付される法案を次々と葬り、安部政権を退陣に追い込めるという。民主党の小沢代表は、自らの主義主張をかなぐりすて、野党連携に邁進している。

こういう事態に、国民は何の疑問もいだいていないようだ。メディアも、高みの見物の態度です。

しかし、これでいいのだろうか。

衆参のねじれによって国会が機能不全に陥る、つまり、国の意思決定が不能になるということです。小沢代表は、これを目指すという。しかし、これと同じことは、政権与党となった民主党に対しても生じうることです。同じことをされれば、民主党の政策も実施できない状況が現出することになります。

もともと、国会の機能は、国の意思(政策)を一義的に決定し、行政に対して実行を命じることです。身体であれば、頭脳が国会、筋肉が行政です。変化する環境に対し、国は的確に対処していかなければなりません。これは、企業も個人も同じです。先を見据えた国家経営ができなければ、結局国民が災厄をこうむります。衆参のねじれは、意思決定機能を破壊するもので、身体でいえば脳梗塞にかかった状態でしょう。人間なら、ICUにはいって絶対安静事態です。

問題は、衆参のねじれ事態を引き起こす国会制度にあります。二院制自体は、意思決定に慎重さを確保するための設計ですが、程度が過ぎ機能不全を引き起こすのであれば、欠陥商品として、再設計が必要でしょう。

では、どのように再設計すればいいでしょうか。

かつて、政治改革が熱く議論された時代がありました。政権交代可能な選挙制度改革をめぐり、小沢氏は自民党を脱退し、新制度による選挙を経て、自民党は野にくだり、細川政権が誕生しました。当時の議論をおさらいしましょう。

1選挙区区から5名前後の議員を選出する中選挙区制では、有効票の5分の1の得票で当選可能です。これは、少数の利益団体の支持があれば当選できる制度です。仮に投票率が50%とすれば、5%の組織票があれば、あと5%の上乗せでらくらく当選です。また、同一政党から、複数の候補が出馬することから、政策を選択する政党選挙ではなく個人選挙となりました。選挙区で対立する同一政党個人候補は、政党内で派閥を結成し、政策選択をさらに不透明にしました。派閥の領袖が、派閥を維持するための資金集めをし、腐敗の温床ともなりました。

この、反省にたち政策本位の選挙をするための小選挙区制に移行しようとしたのが、「政治改革」でした。現在の、自民、民主の2大政党は、こうして生まれました。社会は、これで欧米型の2大政党が現出し、政権交代がスムーズに行われると考え、政治改革の熱意はさめました。

しかし、この改革は、2つの点で大きな欠陥がありました。その1は、衆議院で、比例代表並立という妥協制度を採用したことです。その2は、改革が衆議院にとまり、参議院が改革を間苦れたことです。

その結果、何が起きたか。2大政党が拮抗するも完全多数がどちらもとれず、公明党という国民の5%以下の支持しかない政党が支配することになりました。安部政権いやどんな自民党党首が独自性を発揮しようとしてもできない仕組みです(民主に言い換えても同じ)。また、参議院は、もともと都道府県選挙区と比例が混在し、これに定数調整を重ねたため選出原理がまったく不明の代物となっている。

選挙制度と政党数には、明快な対応関係がある。米国で、テレビジョン経済学という本を読んだことがあります。地域のTVのチャンネル数と番組編成方針との関係を考察した論です。地域住民の選好が均等に分布しているとすれば、番組編成は、チャンネル数で割った視聴率を確保する番組編成方針が合理的というものです。チャンネル数は、政党数、番組編成は政策セットとすれば、この分析は、そのまま選挙分析に適用可能です。

2TV局の場合、それぞれが50%以上の視聴率をめざし、2局の番組編成は中道よりとなります。小選挙区制は、選択肢を2つに絞ることにより、政権交代可能な中道寄り2大政党を形成する原理です。(逆に、中選挙区制の下では、5つの派閥ができました)

さらに、小選挙区制は、選挙民にイエスかノーかいう形で争点を明確化してしめしし、選択を容易にする効果がありあます。マニフェストも、小選挙区制がなければ意味がないでしょう。あらゆる意思決定は、一義的な行動を指定する必要があります。妥協した一つの行動はとれても、相反する2つの行動をとることは、原理上不可能です。政治過程とは、無限に多様な個人の見解を単純化し、一義的なの社会的意思決定に収斂する過程です。小選挙区制は、もっとも効率的な収斂制度でしょう。

これに対し、比例代表は多様性が多様なまま選挙結果に反映され、政策決定は議員間の妥協にまかされます。妥協結果は誰にも予測できず、妥協の継続期間も不明です。つまり、政治過程における意思収斂機能がまったくない。当然、マニフェストも無意味となります。

現在の小選挙区比例並立制のもとにおける衆議院の少数第3党の支配は、現行制度の必然として生み出されているということです。これは、はたして、これは政治改革で望んだことだったのだろうか。

国会改革は、まず、民主と自民が共同で衆議院の完全小選挙区制を実現することです。そうすれば、政権交代可能な2大政党が出現する。

参議院は、どう改革すればいいでしょうか。まず、国会の機能不全を回避するため、ねじれが生じない制度にするか、ねじれが生じても実害が生まれない制度にすることが、最小限必要です。参議院廃止論もありますが、日本の民主主義の熟度を考慮すれば、衆議院の意思決定に慎重さを促す牽制作用に期待するのも一理あるかもしれません。さらに、切り捨てられた少数意見の主張を考慮する場としての機能も必要かもしれません。そういう観点からは、梶山静六氏が唱えた衆議院完全小選挙区とセットのした参議院完全比例代表制もいいでしょう。ただし、国会の機能不全を避けるため、憲法改正により、参議院否決案の衆議院再議決要件を過半数に緩めること等が考慮されるべきでしょう。

今回の参議院選挙を機に、自民・民主両党の政治家に、根本に戻って、あらためて日本の行く末を考えてもらいたい。小沢党首には、当面の選挙戦の勝利者ではなく、元の志にそって政治改革の勝利者になり歴史に名を残してもらいたい。


日本の民主主義

2007-08-28 14:27:13 | 政治・行政
2007/2/4(日) 午後 3:33

昔、政治学の授業で、「政治とは利益の権威的分配」?であると習った覚え(うろ覚え)があります。いま、考えれば、権威ではなく、権力または暴力であり、利益よりは、価値と言い換えたほうがいいろ思う。(政治に対するのが経済で、これは価値の自発的交換を通じた分配である。そのメカニズムが市場ということになる。)

人間とは、生まれながらに原理上自由であり、その自由意思に反して強制的に価値分配を行おう(支配)とすれば、当然抵抗にあうことになる。もし、社会にとって望ましい価値配分が自由意思(市場)による分配で達成できるなら、それが最も好ましい。「小さな政府」の最も基礎的な理論的根拠は、この摩擦・抵抗がないことによる低コスト性にある。(もう一つ根拠は、政府という他者が、配分過程を管理することの非効率性です。どんな他者も、本人が考えるようには行動できない。この原理的非効率に加え、御役人仕事という言葉に象徴される官僚制過程に内在する非効率が加わります。)

残念ながら、世に中には、国防や裁判といった「公共財」という市場で供給できない財・価値がある。これらは、政府により供給せざるを得ず、その財源は租税という形で、暴力的に徴収されることとなる。

むき出しの暴力で人間を支配しようとすれば、可能ではあるとしても、そのコスト・抵抗は無限大になる可能性がある。このコストを低減させるための仕組みが、「支配の正統性」です。

近代以前の国家では、正当性は「神」に求められました。原初形態は、祭政一致です。支配者は、被支配者に利益をもたらすために祈る存在で、特殊な宗教的資質をもっているとされました。

天皇は、大嘗祭により穀霊(rice god)と合体することにより、日本国の支配の正統性を得ました。まさに、現人神による統治です。ヨーロッパでも、皇帝は、法王による戴冠をえて即位しました。これは、神の代理人である法王が、君主に神に意思として皇帝位を認めるものです。中国では、天命思想があり、これが皇帝の支配を正当化しました。天の命令が尽きたときが、帝国が滅ぶときだったのです。

(ちなみに、神から直接正当性を得た者は、皇帝(enperor)です。王は、皇帝から地域の支配権を授権されたものです。アジアでは、冊封体制と呼ばれ、China周辺国は、Chinaの皇帝から王に冊封されました。奴国王、卑弥呼、倭の5王は、皇帝ではなく、China皇帝に服する王でした。

日本では聖徳太子が、冊封体制からの離脱に成功し、皇帝位を確保しました。しかし、朝鮮は、歴史時代のほとんどを通じ冊封下にあり、王の地位から逃れられませんでした。朝鮮ではこれがコンプレックスとみえ、今でも、天皇を倭王と蔑称しています。

日本の幸運は、日本が海という防波堤により、支那大陸から遮断されていた僥倖によるもので、日本も朝鮮に位置していたとすれば、朝鮮と同じことになっていたでしょう。日清戦争は、この体制に対する挑戦でした。

皇帝と王の区別はヨーロッパでも厳然とあり、神から直接認められた地位が皇帝、王は諸侯として皇帝から認められるものでした。ただ、例外は、英国で、国教会で神から認証を受ける皇帝の地位ですが、Kingと称しています。もっとも、これは大英帝国の皇帝は、EnglandのKingでもあるからかもしれません。国自体は、正しく、British Empireとしています。)

さて、近代に入り、神の権威が衰えるとともに、君主支配の正統性がゆらぎはじめます。かわって出現したのが、民主主義です。民主主義は、人間が人間を暴力で支配する仕組みですが、これはいかなる考えにより正当化されるか。それは、自治の原理でしょう。

つまり、統治者と被統治者との一体化です。人民による人民のための、人民の統治ということです。実際には、一部の人間が、大多数の人間を統治するわけですが、自治というフィクションにより、統治の摩擦を最小限にする仕組みが、民主主義というわけです。

民主主義の成熟度は、この自治のフィクションをどれだけ現実化できるか、ということだと思います。自治の現実化には、じつは大変な努力が必要です。民主主義は最高の贅沢品という考えがあったと思います。民主主義をうまく運営するためには、法治の確立と選挙インフラが必須ですが、最も重要な要素は、教育が行き届き正義をもとめる叡智ある informed public の存在です。

この条件がそろう社会はそうそうあるものではありません。米国でさえ、民主主義を機能させるために涙ぐましい努力を傾けています。世界で初めて民主主義を実現した米国では、最初の憲法修正で、言論の自由を明記しました。この、理念は、思想の自由市場を形成し、思想競争に打ち勝った正しい主張が社会の意思決定となることを支援するためのものでした。表現の自由は、ジャーナリストの権利を守るものではなく、思想の自由市場をまもるものです。米国では、メディアを含め社会のあらゆる局面で、民主主義を機能させるために、不断の努力がなされています。

実は、人間統治の変異体に、一部エリート人民による支配という類型がある。何らか特徴により、一部人間が他の人間を支配する正当性があるという主張である。共産主義では、社会から選ばれたプロレタリアートが、前衛として社会を理想に向け先導すべきである、そのため、革命を起こすべきと唱導している。ドイツのナチズムも、ドイツ民族の使命として他民族をしはいする優越性を主張した。エリート(優秀性)性による支配の正統化です。

この手の支配が、自由な個人との摩擦を避けるためには、思想統制が必須です。被支配層が、特定の思想に染められ一糸乱れぬ行動をとる場合にのみ、効率的な支配が可能です。

北朝鮮がこの極端な例ですが、Chinaも程度の差はあれ、同罪です。Chinaは、既に世界で最も進んだインターネット監視網を完成させています。思想の自由市場ではなく、国家統制がChinaの現実です。日本のメディアの操作もChina当局の思いのままで、日本の大部分のジャーナリストは、China当局のご機嫌伺いのレポートしか書かない。

世界には、イスラム教国のように、いまでも、人治の理念でなく、神治の理念がはばをきかせている社会もあります。イラクに民主主義を移植しようとする米国の試みは、極めて困難な作業でしょう。また、途上国のように、インフラ整備が未熟で、開発独裁の形態を余儀なくされている例もあります。このような国では、民主主義の前に、インフラ整備を優先させねばなりません。

さて、問題は日本です。果たして、日本の民主主義の成熟度はいかなるものか。小生の見立てでは、マッカーサーと同じ12歳です。

日本では、統治・被統治の一体化度が、先進民主主義国に比べて弱い。一般人の政治イメージは、「日本の政治決定は、官僚主導であり、政治家は官僚の監督者に過ぎず、意思決定には国民の意向が反映しにいし、政治屋と官僚の利益に従い決定される。選挙にはあまり期待できず、国民は無力である」というものではないか。国民は政治に参加せず、政府からの利益配分のみを求める意識も、前提には政府は自分と無関係の金のなる木であるという想定がある。

さらに、日本では、意図的に、統治者・被統治者の一体化を妨げようとする動きが顕著です。

憲法には、高らかに主権在民がうたわれていますが、日本の主流メディアは、明らかに、権力と人民を対峙させています。自ら、反権力を売り物にしているお粗末なジャーナリストも多い。

日本のジャーナリズムは、「人民とはまったく別のところに権力があり、その権力は、人民のあずかり知らぬ密室で、人民を搾取し権力者の利益を図っている、」というイメージを垂れ流しています。つまり、民主主義を機能化に貢献するのではなく、民主主義を機能不全にするように努力しているように観察されます。主権在民原則のもとでは、一体化が成熟すれば、政府への非難は人民自体への非難と同義です。まさに、権力非難は、天に唾をすることで、自分の行動を改める契機となるはずです。

日本の主流メディアはなぜ、非一体イメージを流し、民主主義をを機能不全に陥らせたいのか。これは、日本の主流メディアが、社会主義が破綻した現在でも社会主義に影響され、社会の機能不全を増幅することによる革命遂行を潜在意識で望んでいるからではないか。

また、正真正銘の左翼の勢力もインテリ層を中心に相当強い。左翼でなければインテリではないという風潮がかつては支配的でした。もっとも、最近は、多少変化が感じられますが。

かつて社会党が全盛期だったころ、たまたま、豪州で、同党幹部と懇談する機会がありました。労働時間が短いお陰で豪州人がいかに豊かな生活を送っているかということに話が及び、せめて有給休暇くらい完全消化させるように労働法制を改善しては、水を向けたことがありました。驚いたことに、この幹部は、労働者の生活改善ということ自体にまったく興味がなく、平和、平和と叫ぶばかりでした。アングロサクソンの政治家と比較して、日本の左翼政治家に幻滅を感じた第一歩でした。

日本の民主主義の課題は、政治プロセスを国民と一体化することです。国民が国家をコントロールしているという実感を形成することが重要です。

まず、政治プロセスをガラス張りにし、国民の意向が明確に具体的意思決定に反映させるメカニズムを整備すべきでしょう。選挙では、首相公選制にしたい。マニフェストも重要です。完全小選挙区制にして、弱小の第3党が、政策支配するのを排除すべきでしょう。行政手続の整備により、空港・道路建設には、国民全体の意見を的確に反映すべきでしょう。地方自治を充実し、身近な事項の決定への住民関与をたかめるべきでしょう。

国民の意識改革がもう一方の手段です。あらゆる教育機会を捉えて、賢明な政治選択が可能な公民の育成が必要です。主要メディアは、イデオロギーの宣伝に手を貸すのではなく、思想の自由市場の充実に努力すべきです。

豪州滞在時、ある通信会社のrostrum clubに所属していました。これは、課題に関し模擬討論を行うことにより プレゼン能力を培うクラブでした。豪州では、多くの支部を持つポピュラーなクラブです。驚いたことに、その議事規則は国会の議事規則をそのまま採用していました。例えば、提案は即座に少なくともの一名の支持(second)が表明されなければ、討議対象とならない、といった規則です。

クラブは単なる討議技術のみならず、民主主義の訓練の場所でした。日本では、このような場はほとんど存在していません。 ヒアリングという言葉があります。これは、裁判類似の対審構造の公聴会で主張を述べることですが、日本では、聞き取り調査のことにされてしまっています。議会の討論も座談と同じ程度のものという認識しかないのが、日本ではないでしょうか。

アングロサクソンにも、いやみはあります。映画で、弁護士が手続き上の手練手管座により、真犯人なのに無罪を勝ち取る場面があります。彼らも、おかしいと思うから映画の題材になりますが、実は、実生活でマイナーな事柄で、類似の事案は山ほどあります。しかも、ルールの運用に慣れていないため不利益を蒙ったものに対しては、極めて冷淡です。「(馬鹿)正直」を暗黙の価値観とする日本人には、ついていくことがむつかしい。

大英帝国は世界に覇をとなえましたが、自己に有利なルールの形成とルール運用の狡猾がそれを支えたことも事実でしょう。

国民が議論を通じて自己決定する能力をあらゆる局面で涵養すること、このことこそが日本の民主主義の改革に資するとともに、日本が国際社会のなかで生存していくためにも必要でしょう。


日本の安全保障

2007-08-28 14:21:23 | 政治・行政
2007/2/28(水) 午後 0:45

北朝鮮が日本人を拉致している。核も保有宣言をした。国際社会は、6カ国協議という枠組みで北朝鮮と協議してきたが、拉致問題を棚上げしたまま、核施設の一部凍結と引き換えに経済援助をすることで合意した。西部 邁は、これを「日本の宗主国米国の裏切り」、と表現するが賛成です。

国家の提供する基本的サービスは国民に対する安全です。何の罪もない国民が他国政府により海を越えて拉致される。こんな非道を行う国家が存在すること自体、日本人の常識を超えていますが、これに対して何の手も打たず北朝鮮の増長を許してきた過去の政府やメディアの責任は大です。しかも、やっと国として問題に取り組もうとする段になって唯一の頼りというべき米国の裏切りにあった。それに対して、政府はなすすべがない。

戦後、日本は安全保障に直面することをタブーとしてきた。保守主流は、米国依存一辺倒、革新は議論そのものを否定する言霊呪縛。いまでも、日本が侵略された場合、無抵抗で降伏する決議をしている自治体がある。そこの議員は全員、北朝鮮に拉致されてもらいたいものだ。日本人は、いま本当に安全保障を真剣に考える必要があるでしょう。

安全保障とは、国民の生命・財産を含む国の生存をまもることである。しかし、ただ、安全だけではない。国の自由な意思決定すなわち独立を守ることでなければならない。安全な奴隷になる安全保障は意味がない。国の自由な意思に基づく未来の形成、これが安全保障で守るべきものだ。

残念ながら、国際社会の現実はこの理想とは程遠い。国家の外縁を拡大しようとする政治的経済的誘因は避け難い。国内でそうであるように、国際社会での利権の獲得ゲームに参加していない国はない。

また、安全をより確保するための、国家の生活圏という考えも実践されている。かつてのチャイナの冊封体制、満州事変の指導理念であった国家の生命線という考え方や大東亜共栄圏がそれである。周辺地域を自国の影響下に置く行動は、覇権主義である。Chilling Effectという言葉がある。覇権国の影響下にある国は、覇権国の機嫌を損ねない行動を自主規制してしまう。

日本は敗戦後、完全な独立国家たることを放棄させられ、米国に安全保障を依存することになった。戦後世界は、戦後自由主義国家群の覇権国家として米国、社会主義国家郡の覇権国家としてのソ連、の2局構造でした。米国の覇権は、ヨーロッパ社会の培ってきた普遍的な自由・人権と民主主義に基いており、歴史的に見て、他民族にとっては、もっとも寛容なものと評価できるでしょう。ソ連の覇権下にあった東欧諸国と比較すれば明らかです。いまの言葉で言えば、ソフトパワー(文化力)に基づく覇権といってもいい。

2局化構造は、科学技術の発展にもよって支えられた。交通・通信および核ミサイル等関連軍事技術の発展により、軍事におけるグローバル世界が成立しました。

このため、小規模の地域ごとの覇権分立は困難となりました。世界の国は、グローバル覇権国になるか、いずれかの覇権国に属さざるを得ません。グローバル覇権国がたまたま2カ国の時代が、2局化世界というわけです。グローバル軍事覇権国数は、増加してます。EUに続き、チャイナが加わりました。将来的には、インドやブラジルがその一角を占めることになるかも知れません。

日米関係の根本的構造は、米国による日本の覇権的支配でしたが、独立が保たれているかのような外観が成立しました。日本が弱体国に留まるかぎり、米国は日本の自由意志を尊重します。しかし、日本経済が復活し、米国経済を脅かすようになるとこれを徹底的に徹底的にたたきます。

80年代末から90年代にかけて、日米経済摩擦が発生しました。米国は、これを日米経済戦争と位置づけ、CIAは経済諜報をい強化しました。米国は、自由競争経済原則に反する技術情報開示義務と貿易数値目標を日本に課しました。まさに覇権国の本質が現れた瞬間です。日本は、この条件をのみ、結果、当時世界を席巻していた日本の半導体産業はほぼ壊滅しました。半導体は、ディジタル機器の心臓部で、これを支配するものが電子のみならず将来の産業全体を支配すると言ってもいい。現在の日本の電子産業の苦境は、このトラウマによるところが大です。

グローバル覇権の必要要件は、領土、人口、軍事、経済での超大国であることです。いま、このバランスが、急速に変化しています。チャイナは、2050年、日本の7倍のGNPとなり米国とほぼ同等となるとの予測があります。日本は、いまでこそ、まだ世界第2の経済力がありますが、その相対的経済力は急速に落ちていくでしょう。ソ連崩壊後、米国の一極覇権の時代がありましたが、今後、米国の相対的は権力は衰えていくでしょう。パックス・アメリカーナの終焉です。

チャイナの国家目標は、平和的勃興(peaceful rise)です。この意味するところは、抵抗されないなら自己の領土、勢力圏を拡大するというものです。中華ナショナリズムが原動力で、当面はかつての最大版図を回復することです。

チベットは、かつては唐と対等関係を築いていた独立国でいたが、チャイナ史上最強の満州族国家清とは冊封関係にあった。歴史的に独立性は朝鮮より強固と言える国です。1932年清滅亡後ダライラマは、清国勢力を放逐し事実上独立していましたが、1950年武力侵略により支配下に置きました。史上初めての漢族支配です。南シナ海では、1995年、米軍がフィリピン撤退すると、その間隙をついて忽ちフィリピンが領有権を主張する南沙諸島に占拠しました。台湾支配の原則は決して譲らず、独立運動の妨害は徹底しています。

かつて一度でも冊封下にあった地域はチャイナの領土として回復対象であり、物理的抵抗がなければ支配行動にでるでしょう。つまり、日本・韓国・北朝鮮も対象ということです。尖閣諸島は、日米安保解消という事態になれば、瞬時に武力占拠されるとみて間違いない。

問題は、このような東亜のパワーシフトのなかで、いかに日本の安全保障を確保するか、ということです。

これを考えるには、個人の場合と同じく、自己認識から始める必要があります。まず、日本は、領土、人口からしてグローバル覇権国にはなりえません。戦前、グローバル覇権国になりかけましたが、あえなく敗退しました。今後、戦前の地位が回復する見込みは皆無でしょう。経済大国の地位も危うく、長期的には経済の世界シェアは、人口比程度に収斂していくでしょう。つまり、日本はいずれかのグローバル覇権国下で生存を図る以外の道はない。その覇権下で、可能な限り国民の自由と繁栄を保つ方策を考えざるをえない。

次は、どの宗主国を選ぶかですが、選択肢はアメリカかチャイナ(ロシアはないでしょう!)かの2者択一です。一方は衰退期、他方は勃興期。韓国はアメリカからチャイナに軸足を移しつつあるようにも見えます。しかし、日本は日米関係を維持するのが得策でしょう。それは、なによりも米国がソフトパワー覇権国であり、影響下の国に対し相対的には最も自由を保障する度合いが高いことに求められる。また、豊かな(人当たりGNP)国の覇権下にあれば、支配は寛容でしょう。貧乏国で文化後進国の覇権下にあった国がいかに悲惨かは、東欧で実証されてます。

更に考えるべきことは、覇権下でいかに覇権支配を弱めるかです。覇権下で安全を享受しながら覇権国の支配力を弱めるかという難題ですが、日本の政治家はそれを行うために養われてるのでしょう。

一つの方向は、国連に代表されるような多国間枠組みを強化することによる覇権力の抑制です。国連は、いざというときには役立たない代物ですが、ソフトパワー覇権国の制御に対しては、とくに有効です。

もう一つは、覇権国に対するバーゲニング・パワーを強化する方向です。戦後のフランスのように、自由陣営のなかにありながら独自性を発揮するための軍事等の諸基盤を整備してしていくものです。単なる従属国であれば、その意向は、今回の6カ国協議のように無視されるでしょう。無視すれば、なんらかの不都合が起きるとの認識があれば、「裏切られる」確率は少なくなるでしょう。米国に限らずどんな国も、他国のために自国民の血を流すことはない。他国を守るのは、それが自国に利益になる時だけです。この点、戦後政治はあまりに無邪気に米国依存を続けてきたのではないでしょうか。

最後に、安全保障上の敵対勢力となるチャイナに対する対応です。安全保障上の関心からいえば、チャイナが膨張主義をやめ、日本に対して覇権を求めなければいい。これは、チャイナが国家の目標を国家威信の強化から人民の幸福の拡大に変更することで促される。

日本にとっての悪夢は、チャイナが専制体制のまま軍事経済を強大化することです。それを避けるため、日本は、チャイナが自由と民主主義そして少数民族の独立を尊重する国家への変化を促すためのあらゆる工作を行うべきです。チャイナの政体変更を求めるのです。

理想は、アジアがEUのような相互互恵の安全保障共同体ができれば最高でしょう。アメリカのみならず、ベトナム、インド、アセアンなどともチャイナの変化を促す活動で協調すべきです。

思えば、大東亜戦争で日本を敗戦に導いたのは、日本を英米との戦争に追い込み勝利する、という蒋介石の大戦略でした。この戦略を遂行するため、蒋介石は、日本を挑発し続けました。挑発に乗った日本軍は、チャイナでの戦闘で百戦百勝でしたが、国民党の大戦略の前に敗れました。国民党のプロパガンダとして捏造された南京事件は、いまでも日本の国際的影響力をそぐために効果的に利用されてます。(北村稔著「南京事件の探求」は。中立文献の検証によりこの結論を導いた労作です。)日本は、蒋介石にならい、チャイナの覇権主義を封じ込める大戦略を実践すべきでしょう。