うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本の宗教

2007-05-31 16:15:46 | 文化
日本に固有な宗教と言えば神道です。仏教も日本化しましたが、あくまでもルーツは、インドということになります。

神道の始まりは、アニミズムとシャーマニズム。アニミズムとは、森羅万象あらゆる物に神性が宿るという信仰、また、シャーマニズムとは、神が人間に憑依し託宣するという信仰です。シャーマニズムとアニミズムは対となって存在することが多い。憑依現象は、日本語では斎く(いつく)といい、東北ではイタコ、沖縄では、ユタと変化した。実は、シャーマニズムは、日本特有の信仰ではない。古代東アジア全土に広がっていた習俗であり、アフリカにも見られるものです。

チャイナでは、殷が託宣政治に依拠していたことが知られている。殷および周は、貨幣として子安貝を使用していました。実は、この子安貝(キイロタカラ)は、チャイナ沿岸では取れず、最も近い生息地は、沖縄とベトナムです。地理を考えれば、殷、周で使用されたのは、沖縄産の子安貝でしょう。つまり、沖縄は殷,周との交流があり、沖縄は殷。周文化の影響を受けていた。

また、本土の弥生遺跡からは、腕輪に使用された貝釧(カイクシロ)が出土しており、弥生時代の本土と沖縄の交流が示されています。(ちなみに、魏志倭人伝には、ヤマト国は、帯方郡から1万2千余里、会稽東冶(福建省)の東にあるとされています。たうまり、魏志の著者は、ヤマトは、沖縄,台湾あたりにあると想定していました。この想定も、太古以来、沖縄とチャイナ本土との交流がその基盤となったことでしょう。)つまり、倭全体が、殷文化の影響下にあったとも考えられる。

朝鮮でも、シャーマニズムの伝統は極めて強い。ムーダンといい、踊りながら憑依する。沖縄と同じく、かつては民衆の日常生活の一部となっていたが、社会の近代化と共に廃れつつある。しかし、シャーマニズムの伝統は、社会の奥深く潜行し、朝鮮で普及したキリスト教と結びつき、統一教会や摂理といった奇怪な宗教を生むこととなった。

シャーマニズムは、アジアの生活習慣に密着した主要信仰であったが、教義を持つ組織的宗教として発達することなく、近代化とともに衰退していった。唯一の例外が、日本神道です。なぜ、日本だけが、神道を成立せしめ得たのか。

解答は、崇神天皇が実施した、神人分離にあると考える。崇神は、それまで、宮中で日常に実施されていた託宣施設を宮殿から分離し、専用施設に移した。皇祖神を祀る伊勢神宮と国つ神を祀る大倭神社です。それ以前の祭祀では、聖地と祭祀のみがあったのでしょう。特定の時期にだけ聖地で祭祀が行われ、日常的には、住居で託宣が行われた。これを、改革したのが、崇神ということになります。

崇神の神人分離は、皇室のみならず、全氏族の託宣組織に波及したことでしょう。各氏族がそれぞれの神社を設立することとなったのではないか。神社組織の成立は、それを支える専門集団の成立を意味することとなります。禊、魂振り、祓いなどの神道儀式が洗練されてゆき、やがて度会氏など神官家により理論化もされることとなった。そして、律令の成立とともに全国的に神社の組織化が行われることとなった。国民的宗教としての神道の成立です。

神道で重視されたのが、清浄の実践です。神の託宣を受けるため、穢れを払い、心身を清め、素直な心で神に対峙する。基本的に、ごちゃごちゃした飾りは邪魔となる。清潔、簡素、明晰が指導理念となりました。神や世界の成り立ちに関わる理論も生み出されましたが、それよりは、神道を特徴付けるのは、明らかで清い心身状態を達成するための実践自体でしょう。神道専門集団は、その担い手として、それを可視化しました。神社の場所、神社の建物・インテリア、神官・巫女の衣装、神道儀式などです。ここに、神道は原始的なシャーマニズムと一線を画すこととなった。

諸外国に旅行すると、日本の建物景観の混乱と醜悪さに気付かされる。西欧人が偉大と称した江戸の町並みは、消え去ってしまった。しかし、他方、日本の都市の清潔さにも気付く。走っている車も綺麗だ。日本の清潔さに勝るのはスイスくらいなものです。スイスでは、道端にチリ一つないほど清潔だ。しかも古い建物もぴかぴかに磨いて生活している。スイス人が外国人嫌いなのはよくわかる。外国人の不潔さには耐えられないからだ。いや、清潔さに無頓着な外国人の意識に耐えられないというのが正確でしょう。清潔さを維持するためのは、非常な努力だ払われている。スイスの清潔好きの理由はわかりませんが、日本の清潔好きの理由は想像できる。それは、清浄を最大の価値をする神道によるではないか。

神道の影響は、清潔さのみにとどまらない。フェロノサは、桂離宮に日本美の真髄を見た。自然との一体化、簡素、素朴、極限までの無駄の殺ぎ落としです。英語では、Japanese minimalism という。自然のエッセンスのみを単純に表現しようとする思想です。桂離宮の美は、伊勢神宮の美と同じです。美を作ろうとしたのだはない。自然の中に神を見、神を求める。そのなかに、「はっ」とする感動がある。本居宣長のいう「あわれ」です。神道の「道」とは、森羅万象に神をみるアニミズムの下で神を求める情熱でしょう。桂離宮も伊勢神宮も原型はただの民家です。違いは、民家にも神を求める洗練にある。

この自然を探求する美意識は仏教にも及ぶ。仏教の原型は、ごてごてのキンキンキラキラです。古代のお寺は、極彩色であった。しかし、日本では、極彩色が色あせるにまかされ、建物も白木の部分が尊重された。仏教の日本化です。理論面では、神仏習合が成立した。日本人は神仏の区別なく、異能を崇拝した。

神道は、当然日本人の死生観にも影響した。人間も生死も自然の営みとして、自然を受け入れるごとく受け入れる。武士「道」の理想とするところです。日本では正邪の概念は発達しなかった。また、個人の名を歴史に名を残そうという意欲も、他国と比べると弱い。これも、人間も自然の小さな一部という神道理念によるのでしょう。正邪の判断基準を延々と論ずる西欧文明、歴史を鏡とし、死者の罪を死後にまで追求するチャイナ文明との違いです。武士道に限らず、柔道、華道など「道」の精神は、自然探求の道=神道ではないか。

残念ながら、グローバル化の世界で、神道精神だけでは生きていけない。西欧風の論理と論争の能力が必要です。しかし、日本人が、世界の中で存在理由を示すことができるのは、神道理念とそれを体現した日本文明でしょう。残念ながら、戦後、洗練を求めること、努力することは悪、というようなお粗末な教育思想がまかり通った。これにより、日本人自身が自分を見失うなかで、日本文明の存続基盤も失われつつある。ただ。形骸化したとはいえ、お正月には誰もが神社に詣でるという風習は残っている。もう一度、日本人として、その意味を考えてみてはどうか。

日本の外交

2007-05-31 15:57:25 | 政治・行政
外交官は、特別の待遇をうける。外交官特権である。接受国の課税はなく、犯罪を犯しても逮捕されることはない。もっとも、国外退去があり、帰国後に外交官でなくなった場合には、外国の被害者からの請求に対し国内法に基づいて責任を取らされることはある。外国で自動車事故をおこした場合などである。また、外交官としての体面をい保つため、給与の他に在外勤務手当てがある。このため、酒を含む各種物品を無税で入手でき、接受国からも日本国からの所得税課税がない。外交官の生活は、現地の在留邦人の生活と比べると優雅です。

外交官が優雅な生活をしていても、それに対応する成果をあげていれば問題はない。しかし、現実はどうか。外務省のやっていることは、国際課題対応では米国追従、途上国にたいしては援助のばら撒きです。その哲学は、どの国とも仲良く、波風をたてない。まさに、日本に教育を支配するいい子の論理を体現してます。さすが、優等生の集団だけのことはある。このため、日本外交の国際評価は散々です。なにしろ、主張をしないのでなにを考えているのかわからない。独自の外交目標がないのだから、外国の要人と握手している写真を取りたがる議員の世話だけをしていればいいのでしょう。

その日本外交が、豹変する問題があります。それは、国際機関でのポスト獲得に絡むときです。国連の安全保障委員会の常任理事国の地位獲得がもっとも顕著な例ですが、それ以外の国連の各種選挙職も同様です。日本は、常任理事国になってなにをしたいのか。国際紛争(例えば中東)の解決にどういう考えをもっているか、まったく明らかでない。それにも拘わらずポストを求めるのです。国内で置き換えれば、マニフェストなしで知事選挙を戦うようなものです。これでは、国際社会の理解を得られる筈がない。また、現行憲法の制約下では、安保理で議論される国際紛争の解決に、日本が貢献しうる余地はほとんどないでしょう。

戦後、米国に政治、経済,軍事のすべてを依存する体制にどっぷり漬かって居る間に、外交意欲と能力は、極端に低下した。米国との連携以外に考える必要がなかったからだ。なんでも、対米追従でよかった。最近の世銀のウォルフォウィッツ総裁の醜聞を巡る対応は、典型的だ。日本だけが、更迭に反対する米国を支持したのだ。誰が考えてもおかしいことまで米国を支持する、こんな国は、本来外交機能を保持している必要はない。

国際社会では、国は独自の考えももっているから、国際交渉が発生する。国際交渉に勝利するためには、影響力を有する関係者の情報が重要だから、情報収集の対象者となる。また、交渉をまとめるには、国の合従連衡が不可欠です。通常、このプロモーターとなる一部の国を中心にインナーサークルが形成される。表面の会議進行とは別に、このインナーサークルが実際の会議シナリオを決定する。サークルから外れれば、単なるお客さんです。何も主張しない国が、サークルに招かれないのは当然です。情報収集の対象国ともならない。日本は何が決まろうと無条件で金を出す、お人好しのぼんぼんといっていいでしょう。なにせ、外交儀礼で口先でさえ誉めておけば、喜ぶのですから(これは、一般日本人も同じ)。

(さらにいえば、サークルに入れる外交人材も不足している。深夜、ホテルの一室で数人で行われるサークルで活躍するには、英語でひそひそ話ができ、ニュアンスまで正確に理解できる高度な語学力が必要です。妥協の草案の意味が瞬時は判断できなければならない。さらに加えて、専門分野で国際的に通用する識見が必要です。日本では、職業外交官でも、お粗末な英語しか話せない人がいます。専門家のほうには、語学力に制約があります。日本にも、少数ですがそういう能力を持った人はいますが、外交分野に活用できない。一般の公務員採用も制度改革が必要ですが、特に外交官の採用制度の改革の必要性は高いでしょう。)

そんなお粗末な国が、ポスト獲得に走るのですから、当然無理が生じます。しかも、普段は、課題達成目標を持たない日本外交が、突如結果が明確に出る目標を持つのですから、現地担当者のプレッシャーは相当なものです。そのため、援助を梃子にすることが行われました。援助は、被援助国の発展を通じて日本の発展に資する、と、公式には宣伝されてます。しかし、実態は、ポスト獲得のために日本外交官が持つ唯一の手段です。援助は、選挙の敗北により外交官が責任をとらされるのを回避するための道具に堕しました。かつて、日本が経済大国として君臨していた頃は、軽蔑されながらも札束で票を買うことができました。しかし、チャイナの援助での台頭により、それも手詰まりと成りつつあります。

考えるべきことは、ポストを求める前に、国際社会で何を達成したのか、明確な目標をもつことです。目標がなければ、情報収集ニーズもありません。企業でも同じですが、一般的な情報収集というのは無意味です。目標があって初めて情報収集活動ができる。そして、情報に基づいて工作が可能となる。従来、外務省は、人員と予算不足を、外交機能不全の原因としてきました。しかし、根本問題は、この日本外交の目標不存在でしょう。

この点、外交官のみを責めるのは,すこし酷な感があります。外交目標は、本来、官僚が設定できるものではなく、政治ひいては国民が設定するものだからです。外交は、契約交渉と同じです。相手の譲歩を引き出し、こちらの利益を守る。しかし、国益の定義がなければ、交渉のしようがない。戦後の自国認識の分裂により、国益の共通認識が困難であった。そして、事なかれ主義が蔓延した。

事なかれ主義は、国内であれば、単に官僚の不作為であり、予算の無駄使いです。しかし、外交では、ちょっと事情が違う。外務官僚が行ったのは、自国の利益を犠牲にして自らの居心地をよくするという、裏切り行為です。外交官の任地は、外国です。外交官は、接受国の応対がよければ、現地で心地よい生活を謳歌できる。逆に、日本の国益を主張し対立すれば途端に居心地が悪くなる。日本の外交官の合理的な行動様式は、接受国の利益を尊重し、自国の利益を棚上げにすることです。チャイナ外交で、東シナ海をチャイナ側の呼称である東海を使っていたのは些細な例ですが、類する事例には事欠かないでしょう。また、外国の利益の代理人の発言を受け売りしたり、問題を起こすと官僚バッシングしかしないメディアの責任も重い。

外交とは、外国との対立がスタート・ポイントだという、国民認識が必要です。和をもって尊しとする日本人が苦手する考えです。対立を解消するのではなく、対立を残したまま現実解を見つける努力が外交でしょう。日本人は、妥協点の発見もへたです。国が違う以上考えが異なるのは当たり前。原理原則は妥協せず、現実の扱いは妥協する。すっきりを求めないこと、これが外交の要諦でしょう。真の友好といった耳障りのいい言葉に惑わされ、国益を放棄しないことです。原則を譲歩するのは、囲碁の緩みと同じ効果になります。一箇所の妥協が他の個所の目に波及し、全体が総崩れになる。「従軍慰安婦」をめぐる河野官房長官談話がいい例です。囲碁で言えば、コウを戦うような粘りが外交に必要です。そのために、外交官は優雅な生活を保障されているのでしょう。

無策の日本外交でしたが、安部政権になってやっと外交目標の萌芽が見え始めたようだ。価値観外交です。自由、人権、民主主義の共通の価値観をもったインド、豪州等の国々と対チャイナ包囲網を構築すると同時に、チャイナとは利益の共通する分野で戦略的互恵関係を築くというものです。成功の前提は、日本自身が、これらの価値の体現者となることにコミットし、かつチャイナとの対立を恐れないということだと考えます。原則で対立し、対処で協調する、これが成功すれば、日本外交では画期的なことではなかろうか。チャイナの民主化、これが日本の21世紀外交の基礎目標であろう。