うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本の民主主義

2007-08-28 14:27:13 | 政治・行政
2007/2/4(日) 午後 3:33

昔、政治学の授業で、「政治とは利益の権威的分配」?であると習った覚え(うろ覚え)があります。いま、考えれば、権威ではなく、権力または暴力であり、利益よりは、価値と言い換えたほうがいいろ思う。(政治に対するのが経済で、これは価値の自発的交換を通じた分配である。そのメカニズムが市場ということになる。)

人間とは、生まれながらに原理上自由であり、その自由意思に反して強制的に価値分配を行おう(支配)とすれば、当然抵抗にあうことになる。もし、社会にとって望ましい価値配分が自由意思(市場)による分配で達成できるなら、それが最も好ましい。「小さな政府」の最も基礎的な理論的根拠は、この摩擦・抵抗がないことによる低コスト性にある。(もう一つ根拠は、政府という他者が、配分過程を管理することの非効率性です。どんな他者も、本人が考えるようには行動できない。この原理的非効率に加え、御役人仕事という言葉に象徴される官僚制過程に内在する非効率が加わります。)

残念ながら、世に中には、国防や裁判といった「公共財」という市場で供給できない財・価値がある。これらは、政府により供給せざるを得ず、その財源は租税という形で、暴力的に徴収されることとなる。

むき出しの暴力で人間を支配しようとすれば、可能ではあるとしても、そのコスト・抵抗は無限大になる可能性がある。このコストを低減させるための仕組みが、「支配の正統性」です。

近代以前の国家では、正当性は「神」に求められました。原初形態は、祭政一致です。支配者は、被支配者に利益をもたらすために祈る存在で、特殊な宗教的資質をもっているとされました。

天皇は、大嘗祭により穀霊(rice god)と合体することにより、日本国の支配の正統性を得ました。まさに、現人神による統治です。ヨーロッパでも、皇帝は、法王による戴冠をえて即位しました。これは、神の代理人である法王が、君主に神に意思として皇帝位を認めるものです。中国では、天命思想があり、これが皇帝の支配を正当化しました。天の命令が尽きたときが、帝国が滅ぶときだったのです。

(ちなみに、神から直接正当性を得た者は、皇帝(enperor)です。王は、皇帝から地域の支配権を授権されたものです。アジアでは、冊封体制と呼ばれ、China周辺国は、Chinaの皇帝から王に冊封されました。奴国王、卑弥呼、倭の5王は、皇帝ではなく、China皇帝に服する王でした。

日本では聖徳太子が、冊封体制からの離脱に成功し、皇帝位を確保しました。しかし、朝鮮は、歴史時代のほとんどを通じ冊封下にあり、王の地位から逃れられませんでした。朝鮮ではこれがコンプレックスとみえ、今でも、天皇を倭王と蔑称しています。

日本の幸運は、日本が海という防波堤により、支那大陸から遮断されていた僥倖によるもので、日本も朝鮮に位置していたとすれば、朝鮮と同じことになっていたでしょう。日清戦争は、この体制に対する挑戦でした。

皇帝と王の区別はヨーロッパでも厳然とあり、神から直接認められた地位が皇帝、王は諸侯として皇帝から認められるものでした。ただ、例外は、英国で、国教会で神から認証を受ける皇帝の地位ですが、Kingと称しています。もっとも、これは大英帝国の皇帝は、EnglandのKingでもあるからかもしれません。国自体は、正しく、British Empireとしています。)

さて、近代に入り、神の権威が衰えるとともに、君主支配の正統性がゆらぎはじめます。かわって出現したのが、民主主義です。民主主義は、人間が人間を暴力で支配する仕組みですが、これはいかなる考えにより正当化されるか。それは、自治の原理でしょう。

つまり、統治者と被統治者との一体化です。人民による人民のための、人民の統治ということです。実際には、一部の人間が、大多数の人間を統治するわけですが、自治というフィクションにより、統治の摩擦を最小限にする仕組みが、民主主義というわけです。

民主主義の成熟度は、この自治のフィクションをどれだけ現実化できるか、ということだと思います。自治の現実化には、じつは大変な努力が必要です。民主主義は最高の贅沢品という考えがあったと思います。民主主義をうまく運営するためには、法治の確立と選挙インフラが必須ですが、最も重要な要素は、教育が行き届き正義をもとめる叡智ある informed public の存在です。

この条件がそろう社会はそうそうあるものではありません。米国でさえ、民主主義を機能させるために涙ぐましい努力を傾けています。世界で初めて民主主義を実現した米国では、最初の憲法修正で、言論の自由を明記しました。この、理念は、思想の自由市場を形成し、思想競争に打ち勝った正しい主張が社会の意思決定となることを支援するためのものでした。表現の自由は、ジャーナリストの権利を守るものではなく、思想の自由市場をまもるものです。米国では、メディアを含め社会のあらゆる局面で、民主主義を機能させるために、不断の努力がなされています。

実は、人間統治の変異体に、一部エリート人民による支配という類型がある。何らか特徴により、一部人間が他の人間を支配する正当性があるという主張である。共産主義では、社会から選ばれたプロレタリアートが、前衛として社会を理想に向け先導すべきである、そのため、革命を起こすべきと唱導している。ドイツのナチズムも、ドイツ民族の使命として他民族をしはいする優越性を主張した。エリート(優秀性)性による支配の正統化です。

この手の支配が、自由な個人との摩擦を避けるためには、思想統制が必須です。被支配層が、特定の思想に染められ一糸乱れぬ行動をとる場合にのみ、効率的な支配が可能です。

北朝鮮がこの極端な例ですが、Chinaも程度の差はあれ、同罪です。Chinaは、既に世界で最も進んだインターネット監視網を完成させています。思想の自由市場ではなく、国家統制がChinaの現実です。日本のメディアの操作もChina当局の思いのままで、日本の大部分のジャーナリストは、China当局のご機嫌伺いのレポートしか書かない。

世界には、イスラム教国のように、いまでも、人治の理念でなく、神治の理念がはばをきかせている社会もあります。イラクに民主主義を移植しようとする米国の試みは、極めて困難な作業でしょう。また、途上国のように、インフラ整備が未熟で、開発独裁の形態を余儀なくされている例もあります。このような国では、民主主義の前に、インフラ整備を優先させねばなりません。

さて、問題は日本です。果たして、日本の民主主義の成熟度はいかなるものか。小生の見立てでは、マッカーサーと同じ12歳です。

日本では、統治・被統治の一体化度が、先進民主主義国に比べて弱い。一般人の政治イメージは、「日本の政治決定は、官僚主導であり、政治家は官僚の監督者に過ぎず、意思決定には国民の意向が反映しにいし、政治屋と官僚の利益に従い決定される。選挙にはあまり期待できず、国民は無力である」というものではないか。国民は政治に参加せず、政府からの利益配分のみを求める意識も、前提には政府は自分と無関係の金のなる木であるという想定がある。

さらに、日本では、意図的に、統治者・被統治者の一体化を妨げようとする動きが顕著です。

憲法には、高らかに主権在民がうたわれていますが、日本の主流メディアは、明らかに、権力と人民を対峙させています。自ら、反権力を売り物にしているお粗末なジャーナリストも多い。

日本のジャーナリズムは、「人民とはまったく別のところに権力があり、その権力は、人民のあずかり知らぬ密室で、人民を搾取し権力者の利益を図っている、」というイメージを垂れ流しています。つまり、民主主義を機能化に貢献するのではなく、民主主義を機能不全にするように努力しているように観察されます。主権在民原則のもとでは、一体化が成熟すれば、政府への非難は人民自体への非難と同義です。まさに、権力非難は、天に唾をすることで、自分の行動を改める契機となるはずです。

日本の主流メディアはなぜ、非一体イメージを流し、民主主義をを機能不全に陥らせたいのか。これは、日本の主流メディアが、社会主義が破綻した現在でも社会主義に影響され、社会の機能不全を増幅することによる革命遂行を潜在意識で望んでいるからではないか。

また、正真正銘の左翼の勢力もインテリ層を中心に相当強い。左翼でなければインテリではないという風潮がかつては支配的でした。もっとも、最近は、多少変化が感じられますが。

かつて社会党が全盛期だったころ、たまたま、豪州で、同党幹部と懇談する機会がありました。労働時間が短いお陰で豪州人がいかに豊かな生活を送っているかということに話が及び、せめて有給休暇くらい完全消化させるように労働法制を改善しては、水を向けたことがありました。驚いたことに、この幹部は、労働者の生活改善ということ自体にまったく興味がなく、平和、平和と叫ぶばかりでした。アングロサクソンの政治家と比較して、日本の左翼政治家に幻滅を感じた第一歩でした。

日本の民主主義の課題は、政治プロセスを国民と一体化することです。国民が国家をコントロールしているという実感を形成することが重要です。

まず、政治プロセスをガラス張りにし、国民の意向が明確に具体的意思決定に反映させるメカニズムを整備すべきでしょう。選挙では、首相公選制にしたい。マニフェストも重要です。完全小選挙区制にして、弱小の第3党が、政策支配するのを排除すべきでしょう。行政手続の整備により、空港・道路建設には、国民全体の意見を的確に反映すべきでしょう。地方自治を充実し、身近な事項の決定への住民関与をたかめるべきでしょう。

国民の意識改革がもう一方の手段です。あらゆる教育機会を捉えて、賢明な政治選択が可能な公民の育成が必要です。主要メディアは、イデオロギーの宣伝に手を貸すのではなく、思想の自由市場の充実に努力すべきです。

豪州滞在時、ある通信会社のrostrum clubに所属していました。これは、課題に関し模擬討論を行うことにより プレゼン能力を培うクラブでした。豪州では、多くの支部を持つポピュラーなクラブです。驚いたことに、その議事規則は国会の議事規則をそのまま採用していました。例えば、提案は即座に少なくともの一名の支持(second)が表明されなければ、討議対象とならない、といった規則です。

クラブは単なる討議技術のみならず、民主主義の訓練の場所でした。日本では、このような場はほとんど存在していません。 ヒアリングという言葉があります。これは、裁判類似の対審構造の公聴会で主張を述べることですが、日本では、聞き取り調査のことにされてしまっています。議会の討論も座談と同じ程度のものという認識しかないのが、日本ではないでしょうか。

アングロサクソンにも、いやみはあります。映画で、弁護士が手続き上の手練手管座により、真犯人なのに無罪を勝ち取る場面があります。彼らも、おかしいと思うから映画の題材になりますが、実は、実生活でマイナーな事柄で、類似の事案は山ほどあります。しかも、ルールの運用に慣れていないため不利益を蒙ったものに対しては、極めて冷淡です。「(馬鹿)正直」を暗黙の価値観とする日本人には、ついていくことがむつかしい。

大英帝国は世界に覇をとなえましたが、自己に有利なルールの形成とルール運用の狡猾がそれを支えたことも事実でしょう。

国民が議論を通じて自己決定する能力をあらゆる局面で涵養すること、このことこそが日本の民主主義の改革に資するとともに、日本が国際社会のなかで生存していくためにも必要でしょう。


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