うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

何も決められない政治と大阪維新の会

2012-04-04 19:26:22 | 政治・行政


大阪市の橋下市長の維新の会が注目を集めている。その背景にあるのは、日本の現状に対する不満だ。しかし、単なる不満ではなく、不満自体を解消する努力自体ができていないことに対する二重の不満だろう。

人間は自由な動物だ。不満があれば、それを解消すべく努力する。個人であれば、それで済む。努力しても解消しないことはあるが、人事を尽くした後は、諦めるしかない。しかし、社会となると別だ。解決法があるのに、その実行について合意が得られない。これは、フラストレーションだ。

端的には、「何も決められない政治」という言葉に象徴される。橋下氏は、この現状に対する処方を提示している。だから、注目に値するのだ。
戦後、民主主義は少数の意見を聞くことだという、誤った理解が、日本の異常なメディア・教育空間の中で増殖してきた。結果、日本は、何も決められないシステムを張り巡らし、かつそれらを強化してきた。

日本が戦前の遺産に乗っかって高度成長した時代には、それでも、金で反対者を黙らせてなんとかやりくりできた。ごね得社会にはなったが、成長力が勝っていた。しかし、ここにきて、やりくりが行き詰まった。なにせ、ばらまく金がなくなったからだ。

ゼロサム・ゲームとなった今、日本人は、トレード・オフという社会の事実に直面しなければならない。みんながハッピーということはあり得ないのだ。ある決定は、人生であれ社会全体であれ、必ずトレード・オフを伴う。もちろん、不利益を蒙る程度を最小限に留める努力をすべきではあるが、切り捨てるべきものが必ず生じる。

民主主義とは、自由な言論の後、多数者の意見を実行することだ。定義上、少数者の意見は切り捨てる。日本では、少数者の意見を尊重することが、民主主義だと、全く違うことが教えられ、宣伝される。結果、少数でも反対があれば、実行されない。かくて、社会は漂流し、自己決定力が発揮できず、緩慢な死に向かって漂うこととなる。

もちろん、マゾヒストを除いて、死にたくないと願っている人が多数だ。しかし、今の制度は、普通の人の当たり前の願望を実現させない。橋下氏は、そういう戦後体制に対するアンチ・テーゼを提起したものだろう。社会全体として、きちんと自己決定したい。そんな普通のひとの当たり前の欲求に答えるものだ。
橋下氏の選挙では、朝日を中心とする支配メディアは、あからさまなネガティヴ・キャンペーンをおこなった。同和問題までキャンペーンに利用したのにはたまげた。戦後民主主義者が偽善者ということをあからさまに示したものだろう。しかし、社会の生存本能を体現する橋下氏に打ち勝つことはできなかった。大阪市民は、メディアの妄言に惑わされず、まともな判断を行なった。

橋下氏の勝利は、戦後体制を一新するための、ささやかな一歩にすぎない。まだ、何も具体的にシステムが変ったわけではない。お粗末な支配メディアもそのままだ。願わくは、この動きが日本全体に広がることを期待したい。そして、当たり前に、自己の将来を自己の意思で決定できる社会にしたい。