うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本のPR

2012-09-24 18:56:21 | 政治・行政

尖閣をめぐる報道が盛んだ。日本では、中年の脂ぎった叔父さんが、意味不明の言葉を羅列している。これに対し、チャイナでは、壮年の外務省報道官が、チャイナの新たな行動を紹介するとともに、チャイナの基本的立場を明確に繰り返し歯切れよく報道発表している。世界の人は、当然尖閣の何たるかをご存知ないので、今回の騒動は、日本の一方的行動に対するチャイナの反撃と解する向きが多いという。日本のメディアが伝えるように、世界世論は、必ずしも日本の味方ではない。

我々日本人が不思議と思わないもので、世界からみると不思議なものが多々あるが、この報道官の活用もその一つだ。毎日、チャイナと日本の政府の発表振りが画像に出るが、我々には、その対比をしようとする意識すらない。実は、世界標準はチャイナで、日本の対応は、世界の非常識だ。

さらに、この非常意識は、政府だけではなく、民間企業にも共通するものだ。アメリカの会社組織を見ると日本と異なる二つの特徴があることに気づく。一つは、法務部長(Genaral Coucel)、もう一つはPR部長だ。この二つの組織が、膨大なラインの業務組織の上に社長に直属でぶら下がっている。CEOは、常にこの二人と社長レベルのラインの経営課題を協議する。トップダウンの要素が強いアメリカ組織では、CEOは自らの判断を法務とPRの観点から精査するということだ。

日本の組織では、両者とも総務のごった混ぜの業務の一部となっている。社長は、ラインのいうことをそのまま承認することを期待されている。これは、日本の社長の多くが、ボトムアップ原理の上に乗っかっているだけで、ラインの長におんぶに抱っこの現実を反映したものだ。社長は組織の中だけをみている。内部調和さえ維持できれば組織が成長していた時代の名残だ。

広報室は、総務の一員で、報道関係者とのロジ対応がメインの仕事だ。また、特に期待されているのが、歩道関係者とねんごろになり、報道内容を事前に入手し、都合の悪い記事は、差し止めるよう働きかけることだ。総会屋対策と同じだ。

日本社会に欠けるもの、それは、PR概念自体だ。PRとは、パブリック・リレーションのアクロニムだ。日本では、正式には、広報と訳すが、一般には、PRというと広告と思われている。しかし、英語では、その言葉どおりの意味、即ち、公共関係だ。世間一般との関係を如何にマネジメントするか、それが、PRということだ。メディアが高度に発達した現代では、世間との関係は、メディアを通じて規定されることが多くなっている。そこから、PR活動全般のなかで、メディアとの関係を如何にマネジメントすりかが、PRの中心的課題となってきた。しかし、本来の意味からすれば、それは副次的な役割だ。

現代では、いかなる組織体も世間の動向とは無関係に活動を行なうことはできない。民主主義と株式会社制度の普及が、その傾向を後押しする。世間との関係全体、これが組織のトップの主要関心事になるのは当たり前だ。アメリカの大学では、PRの講座があり、PRの専門家が組織的に育成されている。日本では、PRの代わりに情報発信という言葉が使われている。これは、情報発信さえすれば世間は判ってくれる、という極めて原始的な思考だ。日本では、世界であたりまえのPR概念自体が存在しない。

アメリカの大統領報道官は、大統領と四六時中接触しており、大統領のすべての考えを理解している分身といってもいい存在だ。そうでなくては、記者会見での容赦にない質問に耐えられないであろう。また、報道官は、政策そのものに関しても、PRの観点から影響を及ぼす。現代では、政策は、公衆に受容されることが必須の要請だ。故に、政策自体をPRの観点から形成する必要がある。魅力のない商品をいくら宣伝しても、時間と労力の無駄だ。いかに、魅力的な商品、施策、政策を展開するか、むしろ、PRの真骨頂は、そのプロセスで発揮される。

このPR概念の欠如が、尖閣をめぐる報道であらわになっているということだ。世界を見渡して見て、広報の専門化でない官房長官が報道対応する体制そのものが異常だ。そして、この非常識を誰も非常識とも気づかないことこそが、日本の非常識だ。内閣の広報官、外務省の報道官にPRの専門家を起用すると共に、その地位を首相、大臣直属の事務次官相当とし、PRの観点から政策調整できる体制の整備が必要だ。

尖閣をめぐる報道に限らず、あらゆる国際紛争において、日本は、PR合戦い負けている。更に都合の悪いことに、それが広報予算ではなく、戦略の不在にあることすら気づいていない。しばしば、日本は国際的情報発信力が弱いと指摘される。そして広報宣伝費の予算が要求される。しかし、広報概念も未熟なまま予算を増やしても、無駄使いに終わるだけだろう。

世界標準のPR組織を形成すること、それは、また、政府部内のセクショナリズムを克服することにも資するだろう。明確な世間に対するメッセージがでれば、各部局で、これに反する行動はとりにくくなる。現状では、首相の方針にも拘わらず、末端では反対の事項を推進していることがまま見られる。

また、広報体制の整備と併せて、メディア対応の慣行を改めることが必要だろう。広く指摘されているように、日本の記者クラブの閉鎖性が、記者の特権意識と政府の緊張感のない報道対応や政府高官の失言の元凶だ。アメリカでは、記者は、一般人に知りうること以外のことを知ることはできないという基本原則が確立している。記者会見は一般にオープンが原則だ。記者をスパイ代わりに使ったり、揉み消しの連絡役に使う癒着体制と決別しなければならない。また、「ぶら下がり」も廃止すべきだ。いやしくも、国家の政策を、ぶら下がりの一言で議論する愚にマスコミは気づくべきだ。

なお、韓国では、国家ブランドを向上させるために2009年、大統領直属の国家ブランド委員会を設置した。この委員会は、ねつ造した朝鮮史を宣伝するとともに、ディスカウント・ジャパン計画に沿い、日本の国際的信用を失墜させるPR計画を戦略的に遂行している。また、韓流ブームを流行らせるため、組織的に日本のメディア工作を積極的に行っている。日本政府は、韓国に学ぶべきだろう。そして、フジTVやNHKは、韓国のブランド委員会に思うまま操作されていることを恥じるべきだろう。

維新の会の船中八策

2012-09-12 21:26:02 | 政治・行政

橋下市長の船中八策の最終案がまとまった。概要をざっと眺めただけだが、エネルギー政策と消費税の地方税化といった細部を除いては、概ね妥当な内容だと思う。これに対して、左右双方の既得権益の代表からは、反論が強力になされている。例えば、教師。バウチャー制度で、いままでのやりたい放題が許されなくなり、国民の学校選択による監視下に置かれる。責任不在のパートタイム教育委員会の廃止も、教育の責任明確化に資するだろう。生活保護も、現物給付の導入で、旭川から札幌までタクシーで治療するといった無法は許されなくなるだろう。年金制度改革も、既存政党が出来なかった抜本改革による積み立て制への移行という真に持続可能な制度を提案している。

しかし、維新の会のすばらしいところは、それらの個別の政策を貫く理念として。「個人、地域、国家の自立」を掲げていることだ。地方主権、首相公選、参議院改革と国家の統治構造改革の提案も、この理念にもとづくもので、この理念には、全面的に賛同する。

実は、この理念は、民主主義の理念そのものとも言える。民主主義とは、言い換えれば自治の精神だ。やっと、日本にも借り物ではない民主主義の動きが出てきたといえよう。逆に、いままでの既存の仕組みが如何に反民主主義であったかということだろう。

維新の会の政策は、従来の日本の常識から見ると一見荒唐無稽に見えるかもしれない。しかし、それぞれの政策は、奇を衒ったものではなく政策科学の王道に準拠している。例えば、バウチャー制度は、ノーベル賞学者のフリードマンにより提唱され、アメリカでは実践もされ、効果の程が確かめられている。年金の積み立制は、いかなる人口変動にも影響されないのは仕組み上あきらかだ。年金官僚の裁量に伴う無駄も原理上排除される。

首相公選制も、日本政治の宿痾とも言える総合調整の欠如に対する当然の制度的対処だろう。維新の会に対する根拠のない政策批判が溢れているが、むしろ、維新の会の政策は、グローバル・スタンダードに近い。

橋下氏のリーダーシップはすばらしい。ただ、解せないのは、みんなの党との関連だ。維新の会の政策は、みんなの党とオーバーラップしている。ブレーンも共通した人が多い。ところが、橋下氏が提携をしたのは、公明党。政策本位といいながら、政策的には極めて遠い公明党と協力する意図は何か。ここは。説明不足だろう。

日本は、いま衰退の危機にある。あかにまみれた明治以降の体制の総点検をしなければならない。まさに、坂本竜馬のような構想力が必要だ。ただ、竜馬の構想も、当時の欧米の制度を実現するための当然といえば当然の提案で、その底流は広く共有されていた。橋下氏の提案も、個々の提案自体は既にあるもので、構想自体は、新規性がそれほどあるわけではない。注目すべきは、それらの提案をまとめ実現にむすびつける変革力だろう。橋下氏は、これまでのところ順調にその動きを進めてきた。ただ、今後の抵抗は、激化が予想される。民主党のように腰砕けにならないことを、切に願う。

(なお、小生は、橋下氏の個別政策では、道州制、地方消費税、エネルギー政策に、賛同できない。道州制は財界も熱心な推進者だが、小生は、県を廃止し、一段階の300の広域自治体への再編を支持する。もっとも大阪都構想はその一環として支持することにやぶさかではない。反対の理由は、道州政府は、地域にとってあらたな国となる可能性が高いからだ。財界の提案もよんでみたが、なぜ、道州制が経済の活性化になるのか皆目理解できなかった。藩規模の自治体が、自主的に道州レベル相当の協議組織を設けるのがいいだろう。地方消費税は、徴税システムの原理上、地方政府にはそぐわない。地方は、あくまでも固定資産税に依拠すべきだろう。そして、地方の業務範囲も固定資産税でまかなえる範囲に限定すべきだろう。ただ、これらの欠点よりは、大きな自立理念の実現が重要だ。個別の欠点をあげつらい大道を見失うべきではないだろう。)

領土問題と日本

2012-09-11 22:36:51 | 政治・行政

尖閣、竹島、北方領土と領土問題がクローズアップしてきた。いずれも、これまで、様子見だった周辺国が、対日強攻策に変化したことが原因だ。尖閣では、チャイナ政府の意向をうけた漁船や監視船が領海を侵犯し、竹島や北方領土には、既成事実化をねらった大統領の訪問があった。
いったい、何故今そういう事態がおきているのか。これは、日本の国力衰退に原因がある。日本の国力が侮れないと感じられていた間、各国は、殊更問題を荒立てようとはしなかった。しかし、日本が国際社会の中で影響力を失うと同時に、その機に乗じようとしているのだろう。
チャイナは、領土問題は、当事国の国力の相対変化で確定されると考える。しかし、これは、国際的な法的強制力を欠く国際社会では当然のことだ。逆に、国際社会で、国内のような秩序が通じる筈と考える人間がお粗末だ。残念だが、国際音痴が集まる島国では、当たり前の考えが認められない。敗戦憲法が、自国の安全を国際社会にゆだねている非常識を、非常識と思わない人間すら相当いる。
国際関係はパワーゲームだ。過去には軍事力が決定的な役割を担ったが、その後は経済力が優位に立った時もあった。最近では、ジョセフ・ナイがソフト・パワーという言葉を発明した。その国の持つ文明力もゲームに影響するということだ。各国は、自らの総力を尽くして、国際社会での覇権を争う。かつてチャイナは覇権国か否かが論争になったことがあった。今となっては、ばかばかしい論争だ。
日本は、おぼれた犬だ。おぼれた犬が棒で叩かれている。残念なことに、その認識が出来ず、いまでも「おとなの対応」を主張する人々がいる。これは、日本が強かった時代、その対応は現状維持に貢献し、領土問題が吹き出ることはなかった。いわば、強者の理論だ。そういう人達は、今でも日本が経済大国だと思っているのだろう。しかし、現実は、ロムニーが言うように、日本は「悲惨な衰退国家」だ。
現在の領土問題の原因を作ったのは、誰か。それは、戦後の歴代自民党政権が、各国との国交交渉において譲歩すべきでない争点を棚上げしてしたことによる。領土問題は、ゼロサムゲームだ。経済問題と異なり、妥協による解決に適さない。竹島は、日韓条約で、国際裁判所付託を明示すべきだったし、尖閣も同様だ。北方領土は、平和条約なしのなし崩しの経済交流をゆるすべきではなかった。
領土で玉虫色の妥協をして経済交流を望んだ財界も同罪だ。領土問題は、国家間交流の基礎だ。基礎が揺らいで、その上に立派な家が建つ筈がない。尖閣侵犯問題では、日本の駐在員が人質になった。ましてや努力して築いた経済的地位などは、一瞬にして破壊される。領土問題が解決しないかぎり経済活動は、永遠に安定しないと肝に銘ずべきだろう。
日本は領土問題を如何に解決すべきか、竹島に関しては、国際裁判所の韓国が応訴するまで、徹底的に経済制裁を加え続けるべきだろう。尖閣は、実効支配を強めるため開発プロジェクトを進めるべきだろう。同時に、チャイナの制裁圧力を削ぐために、国際裁判所への提訴も同時に進める。領土紛争は、尖閣には存在しないなどという政府のフィクションは、外務官僚の自己満足にすぎない。ソ連についても、平和条約の締結までは、経済交流の制限をすべきだ。経済界は、今からでも遅くない、領土問題の決定的解決を政府に迫るのが、自らの利益を守る道と認識すべきだ。抜け駆け企業を懲罰に付す立法も必要だろう。以上の方策も、日本にかつての経済力の残滓が残っている間しか有効ではない。時間は限られている。日本は、いまこそ戦後外交と決別すべきだろう。

反ポピュリズム論と権力

2012-09-05 19:01:34 | 政治・行政

読売新聞の渡辺恒夫が反ポピュリズム論を書いたという。本を買う気も湧かないので、アマゾンの書評を読んでみた。
小選挙区の導入によって信念をもった政治家がいなくなり、橋下大阪市長などの大衆受けする小物政治家が跋扈し、国を破滅に追いやっているという趣旨のようだ。自民党時代、権力ブローカーとして、派閥リーダーの調整に精をだしたことも書いてあるそうな。思うに、大衆ではなく、エリートが大衆の意向と見関係に国を引っ張っていくべきと考えているのだろう。
渡辺は、元共産党だった。転向して、新聞記者になった。
共産党では、共産党員が前衛として権力を握り、大衆を指導するものとされる。大衆は単に権力者の指導に従うべきものだ。現に、チャイナではそれが現実だ。新聞は、チャイナ政府の動きを報じるが、それらは虚構だ。裏ですべて共産党がコントロールしている。政府の役人も、単なる操り人形にすぎない。
この共産党の前衛思想は、渡辺が反ポピュリズム論で主張していることと全く同じだろう。渡辺は、転向したということだが、実はまったく転向していない。国は、エリートが指導し、大衆は従えばいい。エリートは、大衆に迎合してはいけない。そして、渡辺は、エリート間の権力ブローカーとして君臨してきた。
権力とは何か。日本のメディアで普通に使われるのは、民衆とは遠いところにあって民衆を抑圧する装置という考えだ。その概念は、共産党や渡辺の、無知な民衆を導くものというエリート思想と整合する。日本のメディアは、共産党の権力概念を採用しているのだ。
欧米の民主国家では、独裁国家の権力に対する場合を除いてこんな使い方はしない。民主主義国家では、権力は民衆にある。自己で自己を律する、その表れが権力だ。自治の精神を体現する装置が国家権力であり、民衆自身だ。権力を行使する人間は、民衆の権利を代行する道具にすぎない。権力の私物化は、厳しく糾弾される。道具は、道具に留まらなければならない。
共産党をはじめとする左翼の人間には、エリートは権力を思うまま自由に行使すべきものと考える。福島原発事故対処にあたり、民主党は、うその情報を流し続け、国民を騙し続けた。その背景にあるのが、全共闘くずれの仙石や枝野の権力概念だ。権力は万能であり、一旦権力を奪取すればなにをやってもいいと考える。まさに、左翼の反民主義権力概念だ。
残念だが、大新聞社をバックに渡辺の著書のようなものが世に出る事自体、日本が如何に民主主義を理解していないかの証拠だろう。
小生は、ポピュリズム結構だと思う。大衆を信じ運命を共にすべきだと思う。大衆も、エリートと同じく、間違いはするだろう。しかし、間違えることが重要だ。間違えば、自分に火の粉がふりかかる。これを体験することが、民主主義の成熟の不可欠のプロセスだ。何回でも誤り痛い目をすればいい。それが学習というものだ。
日本でこの学習プロセスの障害となっているのが、民意を反映しにくい政治制度だろう。もっともわかりやすい制度は、首相公選制だろう。みんなで、リーダーを直接選ぶ、これなら、間違ったかどうかすぐわかる。次は、間違わないように考える。
しかし、残念ながら日本の現行制度では、自らの国のリーダーを、直接選ぶころができない。菅や鳩山のような人間の屑(両者とも無能だけなら単にお粗末という言葉がふさわしい。しかし、後のいなおりを考えれば屑と評すべきだろう。)を総理に選んだ責任は誰にあるか。国民に全責任を負わせるのは無理がある。しいて言えば、制度という猫があり、その制度に鈴をつける人間がいないという事態が問題だろう。現状では、学習のしようがないのだ。いざ出よ、猫に首をつけるポピュリスト!
渡辺がこの本を著したのは、小選挙区制で、自分の活躍余地がなくなってしまったことへの憤激だろう。渡辺は時代に取り残されて者として退場すべきだ。

日本のエネルギー政策

2012-09-05 18:59:13 | 経済

政府が新たな原発政策をまとめるそうだ。再生エネルギーの促進による脱原発の方向だろう。しかし、これは、僥倖に期待しておろかな大東亜戦争に突入した戦前の指導者の決定に似ている。仙石元官房長官が認めるように、再生エネルギーの技術革新を根拠なく見込んでいるからだ。
エネルギーは、国家の消長を左右する。古代隆盛を極めたギリシャの衰退の原因は、周辺の気候変動と伐採による木材というエネルギー源の枯渇によることが明らかになっている。江戸時代までの日本の世界史上稀にみる自然な歴史進歩も、豊富な木材に支えられたエネルギー供給が前提としてこそ可能だった。そして、近代には、石炭により産業基盤を整備した。石油が資源の大部分を占めるようになったのは、戦後30年代以降のことにすぎない。
戦後、パックス・アメリカーナの下、石油は無限に輸入できる資源として認識され、脱石炭が進んだ。いま、パックス・アメリカーナは終わりつつある。石油は、世界的に偏在し、世界が不安定化するなかで、安全保障上のリスクがある。さらに、資源国によるレント獲得リスクも無視できない。アメリカ自身、自国のエネルギー供給を優先し、輸出を規制している。エネルギーの安定供給は、日本の将来に不可欠だ。
しかし、いままでのこの恵まれたエネルギー環境を、残念ながら日本人は認識していないようだ。それは、まるで、何もしなければ日本と世界は平和になると根拠なく信じている一部の極楽トンボの認識を同じだろう。エネルギーも平和も努力なしに獲得できるものではない。
エネルギーは、単なる生活の便利性だけにかかわるものではない。国民の将来に関わるものだ。エネルギーの供給不安は、生活のさまざまな側面に影響を与えるが、とりわけ深刻なのは、経済への悪影響だろう。現在、日本は、20年にわたる日銀のデフレ政策のおかげで、産業崩壊の淵にある。組み立て型電気産業が破綻しつつあるが、今はまだ命脈を保っている部品や素材産業への波及は不可避だろう。その趨勢に拍車をかけるのが、高価で不安定なエネルギー供給だろう。安定したエネルギー供給とデフレ脱却は、日本経済復活のための二つの必要条件だ。逆に、その条件が満たされなければ、遠からず、我が列島は、失業者で溢れかえることになろう。
脱原発論者は、再生可能エネルギーで、原発に代替できるとする。しかし、この想定はお粗末だ。いま、政府の太陽光発電の電力会社買取制度が開始されたが、今年の買い取り価格は、42円/KWH。これに対し、原発、火力の発電コストは、10円と言われる。太陽光発電が進めば進む程、電力価格があがる。それに耐え切れず、見直しを迫られたのが欧州だ。日本でも、電力価格4倍には国民は耐えられないだろう。消費増税の比ではない。しかし、コストの問題以前に量的に太陽光、風力、水力は供給の絶対量が不足だ。
では、火力は切り札となるか。なりうるが、それには、京都議定書を離脱する必要があるだろう。ガス・タービン発電では、二酸化炭素排出量は半減するとされるが、それでも排出することには変わりない。もし、火力優先の政策を取るなら、京都議定書脱退とセットでなければならない。なお、京都議定書は、アメリカ、オーストラリアは不参加。最近カナダが脱退した。先進国の参加者は欧州と日本だけ。実質上は、欧州システムと化しているので、小生は脱退賛成だ。別途、日本は、国内で炭素税を課して、排出量をおさえるとともに、その税収で国内で省エネルギーや代替エネルギーも技術開発を促進すればいい。なにもチャイナから排出権を購入する必要はないだろう。
福島原発の事故を受け、国民はパニック状態だ。反原発世論が、半数近くだという。しかし、この事故で死者は発生してない。原発汚染も、将来の内部被爆など、不透明要因はあるが、自然放射能が20ミリシーベルト以上の地で、普通の生活をしている人々がいることを考えれば致命的とはいえないだろう。自然放射能の世界平均値は、2,4ミリシーベルトだという。
終戦後、日本人は戦争を恐れるあまり、自分さえ戦争のことを考えなければ世界は平和になるとして思考停止状態におちいった。反原発世論をみていると、まさに同じ過ちを繰り返しているようだ。ちょっと前には、原発は、二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーとして促進が国策だった。原発事故対応はお粗末に過ぎたが、その教訓は今後の安全対策に生かすべきだろう。
原発な安全ではなく危険だ。いくら安全策をとっても、例えば隕石の直撃には耐えられない。しかし、考えてみれば、世の中に絶対安全などというものは存在しない。危険なものとどうやって折り合いを付けていくか、これが我々が甘受しなければ宿命だろう。自動者事故で、毎年5千人死亡する。しかし、誰も自動車を禁止しようとは言わない。
科学的合理性をもって考えれば、昼夜の別なく必要なベース・ロード電力を原子力でまかない、その他は火力というのが合理的だ。その他エネルギーは、可能な限り促進するが、うまくいけばもっけもの程度の話だろう。間違っても、不確実な代替エネルギーの技術革新を前提に政策をたてるべきでない。

日本の反民主主義メディア

2012-09-02 06:44:51 | 政治・行政
過日、NHKが報じていた。今後のエネルギー政策をめぐるパブリック・コメントで、原発ゼロの意見が90%以上だったと。
またしても、日本のメディアのお粗末さが露呈してしまった。パブリック・コメントと世論調査の区別がつかない。パブリック・コメントとは、政策案に対して賛否を問うものではなく、政策をよりよいものにするために意見を求めるものだ。求められるものは、賛否ではなく、ロジックだ。また、ネット投票も世論調査ではなく、一部の関心層のみの見解を表すものだ。いずれも、公の電波を利用して報ずるものではない。
日本のメディアの編集デスクは、基本的な統計知識がまったく欠けているようだ。あるいは、お頭が悪いふりをして、実は狡猾に世論操作をねらったものか。
日本では、学校でディベートの訓練がない。ロジックや統計理論を展開して人を説得する技術を、文部省も日教組も軽視してきた。変わりに、特定の思想を無批判に信奉することを教育の基本原理としてきた。結果、日本人は、世界でも稀な思考停止・説得力欠如人種と化してしまった。
また、ディベート文化の欠如は、議論に白黒の決着をつける態度を弱めた。ロジックが交わり少昇華・発展することなく、言いっぱなしのままだ。議論は平行線で、明らかに破綻した主張が、そのまま継続する。だから、菅直人などの居直りも簡単に許してしまう。
民主主義とは、多様な意見を尊重することではない。多様な意見から、ある手続きを通して、その集団自らの多数決断を下すことだ。アメリカでは、それを「思想の自由市場」と呼ぶ。自由市場では優れた思想のみが、生き残る。民主主義社会では、破綻したロジックの唱道者は、速やかに退去させるべきだ。そして、それを行なうのが、民主主義国家におけるメディアの役割だ
思想の適者選択を可能なあしめる前提条件が、適正手続きだ。民主主義とは特定の価値観ではなく方法だ。手続き根幹を成すのが、このブログで前にも論じたヒアリングとディベートだ。
原発政策の意見聴取会で、原発廃止派は、電力会社社員を問答無用で追い出した。これは、反民主主義だろう。また、以前九州電力のやらせが問題になったが、それは、原発ヒアリングおける労組などの「職業市民団体」の大衆動員運動に対するやむを得ない自衛行動だったのは、関係者なら皆知っている。それを報じないメディアを偏向していると言う。
政策選択を行なう行政も同じだろう。行政は、パブリック・コメントの意見にロジック上意味があれば、政策を修正し、意味がなければ排除する。寄せられた意見の数には影響されるべきではないだろう。時に意見は割れるだろう。しかし、その場合でも、決断を下す。
決断には過ちもあるだろう。しかし、時は待たない。取り返し可能の程度によって、決断時期は若干ずれるだろう。しかし、不確実性の中で、将来を切り開くのが決断だ。留まらない時間の前では、不決断も決断の一種であることを理解しなければならない。誤った決断は、決断者が責任を明確にとる以外にない。とりわけ、リーダーの責任は重い。
行政上の決断の的確性を行政内部で確保するための仕組みが、行政委員会だ。行政委員会の決定の仕組みは、裁判所と同じと考えていい。委員会は、ヒアリングを含めた適正手続きにより、決定を下す。手続きを実質的に生かす能力がディベート能力ということになるだろう。
アメリカでは、大学のジャーナリズム学部卒業者が記者となる。そして、メディアの言論の自由は、思想の自由市場を守るためにあると教えられる。こういうことを全く理解しない日本のド素人記者には、表現の自由は猫に小判だ。日本の記者には、記者としての基礎的能力が全く欠けている
ディベート文化が欠如する日本の言論空間で、メディアはやりたい放題だ。なにせ、言いぱなしで、批判に晒されることがない。朝のバラエティー番組は、どの局も八つぁん熊さんのお粗末な意見に満ちているが、裏では特定の見解に誘導するよう筋書きがある。最もわかり易いのはNHKだ。御用達の内橋克人や姜尚中をみれば、何を吹き込みたいのか自明だろう。その他の専門化の解説者も、阿吽の呼吸で筋書きに合わせる茶番の立役者だ。なにせ、本音を言えば、たちまちお呼びがかからなくなる。
日本人がディベートが苦手なのは、古来からある言挙げせぬ文化の影響もある。しかし、これは、神への不遜を戒めるものだ。ディベートとは関係ない。沈黙は金との格言もある。しかし、これも、現代社会では、百害あって一利なしだ。沈黙は、適正手続きや国際社会では無視されるのみだ。その上、自己の見解が批判に晒されることが回避されることで、自己向上の機会も奪われる。
日本のメディアが社会に貢献できることがあるとすれば、論争番組の提供だろう。現状、意見を言い合う番組はある。しかし、論点整理がない言いぱなし番組だ。議論を論点ごとに整理して、事実を確定し、最後に総合的に決着をつける。その論点整理の仕方こそアの本来の腕の見せ所だ。
日本の反民主主義メディアに国民はNOをつきつけるべきだろう。