うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

死についてー麻生財務大臣発言に思うー

2013-01-31 20:29:45 | 政治・行政

死ぬのは恐ろしい。特に、自分の事として考えたときは。末期がん患者が、病院で、痛い痛いと泣きわめきながら、殺してくれと叫んでいる映像を見たときはショックだった。小生は、遺伝的にがんで死ぬ確立が高いと思っていたので、ひと事とは思えない。

個人的に一番いやな死に方は、溺れ死にだ。潜水艦が撃沈されたとき、真っ暗闇で、浸水が始まったとする。その恐怖はいかばかりか。「海猿」のヒットも、前提としての溺死の恐怖が寄与しているのだろう。もっと、すごいのは、現実に海軍で、潜水艦に乗務している兵士だろう。

昔、江藤淳という評論家がいたが、死の宣告を受け病院で手首を切って自殺した。迫りくる死の恐怖に耐え切れなかったのだろう。

死に方は、様々だ。ストレスやうつ病に負け、自ら命を絶つ人もいる。死の恐怖を超える苦しみに苛まれていた不幸な人々だ。

そうかと思えば、昨年100人のチベット人が、チャイナ政府の圧政に抗議して焼身自殺をおこなった。かれらは、国際社会からの何等かの支援を期待していたのだろうが、残念ながら犬死に終わってしまった。それに比べれば、アルジェリアで、テロリストの手にかかった人々は、チベット人よりは、恵まれている。(命は代替が利かずどの人にとっても一回限りのものなので、当人にとっては等価だということは承知の上での、話だ。)

昔の日本人は、命を落とすことに今より恐怖を抱いていなかったようだ。戦国武将は戦場で死に装束といっていい甲冑を己の美意識で飾った。江戸時代でも、なにかことを起こすには、死の覚悟がいった。忠臣蔵のように武士が覚悟を持つのは当然だが、百姓でも、直訴や一揆を起こすときには死をした。町人でも、「め組のけんか」にあるように、男女とも意地にため命をかけた。死が日常のことの場合、日常は緊張に満ちたものになるだろう。江戸時代の工芸が、明治以降世界を驚かせたのは、この緊張感とは無縁とは思えない。

死への対処は、文化にも影響をあたえた。宗教はすべからく死への対処を中心に発展してきた。平安貴族は、極楽浄土への生まれ変わりを求め、平等院など豪華な寺院を建立した。つれづれ草や方丈記、平家物語なども、死を貫にして語れない。死は文学の重要課題でもあった

事故で、命を落とす人もいる。御巣鷹山に墜落した日航機に乗客していた人には、過失はないが、高速道での不注意でなくなる人には相応の自己責任が認められる場合もある。

東京大学の駒場寮では、寮雨という現象があった。駒場寮は、長細い建物で一方の隅にしか便所がなかった。便所に辿り着くまでには、遠い部屋からは7・80メートル。夜酒盛りの最中に、この距離を移動するのは、おっくうだ。そこで、窓から建物の庇にでる。そこから用をたすのである。それを寮雨といった。その寮雨の最中に転落死した例があるそうだ。前途を期待していた親の悲しみはいかばかりか。

さて、死と本当に恐ろしいものなのか。実は、恐ろしいのは、死ではなく、断末魔の苦しみだ。それは、殺してくれと叫ぶ末期がん患者の言葉から明らかだ。断末魔の苦しみから逃れるために、死んで楽になりたいのだ。江藤淳も断末魔の苦しみの中で、自己を保持できる自信がなかったのだろう。

身体的な故障は、たとえ些細なことでも大変な苦しみを齎す。アカプルコ郊外の海岸で、屋台のスナックを食べた後、激烈な下痢になり手足も動かせないことになったことがある。数日間、ホテルのベッドに釘付けになり、せっかくの旅行がふいになったことがある。ただの下痢でも、こういう事態は発生する。あるいは、指先の小さなささくれでも、人間の行動を変化させるには、十分だ。拷問の禁止は、むべなるかなである。これが、断末魔の苦しみとなれば、どうか。残念ながら経験者の話をきくことが出来ないが、想像を絶することは確かだ。

これと似たものに、臨死体験というのがある。橘隆が、本をだしている。昏睡など臨死から生還した人にインタビューしたものだが、これによれば、臨死状態自体は、心理的には苦しくないそうだ。極楽のようなきれいな場所で、親など親族が出迎えにくる場合もあるようなことが書いてあったと記憶する。臨死状態では、脳内にエンドルフィンなどの麻薬効果のある物質が分泌され、このような状態になるそうだ。

さた、いよいよ本題だ。麻生財務大臣が、医療費抑制のため、終末期医療について、老人はさっさと死ななければならないと発言したそうだ。これに、共同通信に記者が食いつき、大臣は内閣の安全運転のため、発言を撤回したそうだ。

昨年、小生の親族がなくなった。脳溢血を起こして目が不自由になり、リハビリ中だったが、誤飲性肺炎を起こした。病院を見舞ったときには、片肺は完全につぶれ、もう片方も機能不全。口に酸素吸入マスク、栄養点滴のチューブに繋がれていた。本人は、苦しい息をしており、子供が何かを話しかけても判っているのかどうか不明。ただ、大きく呼吸して、と言うと呼吸がゆっくりになるので、何等かの意識はあるのだろう。医者は、意識は混濁して何もわからないだろうと言う。

場所は、とある大病院の危篤状態にある患者のみを集めたフロアの個室。看護婦が時々見回りに来て、手馴れた手つきで痰を吸引する。ベッドのよこでは、親族があつまり、今日の昼食をどうするかなどの雑談をしている。その風景に似たものを探すとすれば、第二次大戦中の、陸軍省だろう。ガタルカナルで、日本軍が死闘を演じていたとき、東京の陸軍省では、職員だ定時に退庁していたそうだ。

ベッドでは、人生の一大事に直面している人間がいる。かたや、同室の親族には、日常と平凡なFACT OF LIFEがある。その、超えがたい落差を、不条理というのだろう。さらに、そこにいる看護師や医師にとっては、患者の世話は、経済行為だ。その上に、行政が終末期医療のあり方を論じ、それについて政治家の揚げ足取りに専念している共同通信記者がいる。

親族は、経験のない事態に直面して医者のいうなりだ。医者は、延命は絶対の善とする常識に従い、当然のことのようにチューブをつける。医療点数も稼げる。ここに、患者の意向は反映されない。実際、その患者は、チューブを無意識にはずそうとしているかのようなしぐさをみせる。しかし、はずれかかると、看護師が付け直す。

患者は、目も見えない真っ暗な状態で、言葉も発することができない。息が苦しい。死ぬことは確実らしい。こんななかで、係累のものの冗談の高笑いが聞こえる。一刻も早くこの苦しみをなんとかして欲しい。いつまで、この苦しみが続くのだろうか。これこそ、江藤淳が耐えられなかった死の恐怖だ。

オランダでは、安楽死が認められている。一定の手続きを経ると、治療法がなく死が確実な患者で望む者に認められる。患者は、痛みをコントロールされた状態で、ゆっくりと最後の日を過ごす。そして、旅立つ心の用意が出来ると睡眠薬と筋弛緩剤を服用する。数分で、患者は永眠する。

日本でも、尊厳死運動がある。あらかじめ終末期医療について意思表示しておくのだ。しかし、日本の医療制度のなかに尊厳死医療の標準的方法はないのだろう。そして、麻生大臣が発言を撤回したように、そのための行政処置もないのだろう。

小生は、少なくとも患者は、自分の終末期医療について支配権(尊厳死か否かの選択権)をもつべきだと考える。そのための、準備を行政は整えるべきだ。そうすれば、江藤淳の悲劇は避けられただろう。その意味で、麻生大臣が発言を撤回したことは極めて遺憾だ。言葉じりはやや問題があったが、是非、この問題を再度提起していただきたい。共同通信記者の救いがたい点は、患者に対する洞察力が決定的に欠けていることだろう。

ウィキペディアによると、尊厳死に反対する人がいると言う。「生存権を脅かしかねないものとして尊厳死を警戒する立場の人もいる。森岡正博は、尊厳死を望む根底は「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観だと指摘している[要出典]。 「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助が一般化する可能性があると主張している。」

いやはや恐れ入る。生死は、極めて個人的な現象だ。他人にとやかく言われる筋合いはないだろう。手続きは、きちんとしなければならない。それだけのことだ。

この倒錯した論理は、どこからでてくるか。よく似た主張をする団体がある。農業保護を叫ぶ農協。しかし、かれらの訴えるのは、農協の存続であり、農家はだしに使われているにすぎない。団体、差別を解消するのではなく、存続させみんながそれを学習する必要があるという。団体存続のための主張だ。かれら差別の解消には興味がない。あるのは、自己の属する団体の永続という経済的利益だ。障碍者団体。障碍者が生まれないようにするのは、現在の障碍者が将来少数になって不利益をこうむる可能性があるから、反対という。そして、そういう倒錯の論理を「人権教育」として子供に強要しているのが日教組の教員であり、世間に対して宣伝しているのが、共同通信をはじめとするマスメディアだ。

小生は、個人の人生決定権を奪うあらゆる試みに断固反対する。これこそ人権だ。ましてや、その試みが、所属する団体の永続をはかるというくだらない理由であればなおさらだ。

日本の歴史を取り戻せ

2013-01-29 20:40:49 | 政治・行政


海外メディアによる安部政権バッシングが続いている。 南ドイツ新聞によれば、安部氏は、「過去を夢見る極右主義者」だそうだ。同じ論調は、ニューヨーク・タイムスでも見られる。まあ、いずれも慰安婦問題を捏造した(池田信夫氏の慰安婦報道の検証ブログhttp://blogos.com/article/45082/?fb_action_ids=444650265581814&fb_action_types=og.recommends&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=288381481237582 等参照)朝日新聞と提携している在外メディアだ。

朝日を発信源とする極右報道は、残念ながら世界のメディアの支配的論調になっている。とりわけ、女性の人権無視のイメージが一人歩きし、国外では繰り返し事実検証なしのレッテル張りが横行している。国内では、論理破綻が明確な朝日は、海外から反安部包囲網を展開するつもりなのだろう。

この事態にどう対処すべきか。単純な考えは、日本からの情報発信を強化し、バッシングが根拠なきものであることを訴えるというものだ。例えば、慰安婦問題に関し、アメリカの地方新聞に、桜井よし子氏らが意見広告を出したことは一定の効果が見込まれるところだ。しかし、戦後60年以上にわたり、諸外国における事実無根の主張を放置してきたつけは、こんなことでは解消しないだろう。安部政権が不用意に河野談話などを見直せば、更なるレッテル張りが跋扈するだろう。

人間の認知能力には、大きな制約があり、自らの認知枠組みに適合しない言説にはそもそも関心を向けない。仮に、向けたとしても、その言説を認知しない。この現象は、selective attention, selective perception と呼ばれる。見れども、見えず、言われても認識しない。(逆の状態が、あばたもえくぼという状態。)いくら、広告を出しても、読まれもしないし、ましてや説得することはほとんど不可能ということだ。だからこそ、初期の段階での対応が重要だ。

さて、事ここに至った歴史問題をどうするか。ここは迂遠なようでも、誠実な欧米人歴史研究者による地道な国際的視野をもった戦時歴史研究プロジェクトを発足させる以外にないと思う。

南京事件、慰安婦問題等、戦争中の日本の行動に関しては、国内では、多くの研究が行なわれているが、これらは、主に国内の議論に留まっており、海外ではほとんど知られていない。南京事件については、事件前後の南京の人口変動、死体処理体制、国際保護地帯に逃げ込んだ国民党の兵士の日記からも虐殺の事実は伺えない。一方、虐殺情報を流したドイツ人神父は、国民党の宣伝工作員の疑いが浮上している。

また、チャイナが非難する三光作戦(殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす)は、兵站の現地調達に頼った日本軍の方針とは相容れず、むしろ日本に物資を与えないようにした国民党軍が自国人に対し行なった戦術(清野作戦)だ。(もちろん、戦争だから、日本軍にも行き過ぎは多く発生しただろう。アメリカ軍もベトナムで多くの過ちを犯した。そういう事象にたいしては、誠実に向き合わねばならない。)

戦争中の日本の行動については、客観的な国際的研究は、ほとんどなされていない。世界の多くの人は、日本は、ヒトラーがそうであったように、戦争指導者が、虐殺や女性の虐待を指令したと信じている。チャイナや韓国は、事実究明をする気は全くなく、自己の主張を日本に認めさせるのが国際研究だとしている。日韓の共同歴史研究が如何に不毛かは、参加者が痛いほど認識したはずだ。

ここは、事実に誠実な欧米の歴史学者に、たとえば、盧溝橋事件、日本の対チャイナ政策、対米戦争決定過程、日本軍の戦争遂行体制、将兵管理体制、チャイナにおける日本の占領地行政、軍属管理体制、慰安所管理制度等々、個別且つ包括的に、詳細な研究を依頼してはどうか。もちろん日本人学者との対話も十分行なう。

日本の国力低下と共に、欧米における日本研究者の地位は低下している。資金も潤沢には回らない。国際交流基金などから、大々的に研究資金を拠出して、大規模な研究プロジェクトを立ち上げる。資金の配分や研究者の選択は、透明性を持たせ客観性を担保する。

それらの研究成果は、日本人自身にも自らの歴史認識を新たにする機会を与えてくれる筈だ。 戦勝国の一方的な宣伝活動に過ぎなかった東京裁判は、仮に相当程度の真実が含まれていたとしても、日本人には信用できない面がある。 日本の歴史は、日本人のイニシアティヴで国際的な観点も考慮の上で究明・評価する必要があるだろう。それで初めて、戦争は真の意味で、日本人の歴史となるだろう。さらに、その研究をもとに政治的発信力を強化すれば、日本の主張が通り易くなることが期待されよう。

日本の経済を取り戻すことは、重要だ。それは、現在の我々の生活を取り戻すことだ。しかし、歴史を取り戻すことは、もっと重要だ。未来永劫の日本人の精神を守ることだからだ。目前の経済的利益のために、国の名誉をないがしろにする大使がいた。一時の利益と未来永劫続く利益の比較すらできないお粗末な人間だ。

日本の歴史を戻せ。

日銀のインフレ目標

2013-01-23 18:19:16 | 経済


昨日、日銀が、2%のインフレ目標を採用し、政府とともにその達成に努力することになった。安部総理は、これは、画期的なことと自賛した。しかし、それは、自賛に値することなのだろうか。

ロイター・ニュースは、次のように述べる。

日銀は今回、2014年から期限を定めない資産買い入れ方式を導入することを決定したが、2013年に関しては現行方式を継続するとした。現在の残高目標は2013年12月末までに101兆円であり、13年の増額規模は36兆円となる。だが、今回、日銀が発表した2014年の残高増額ペースは10兆円程度で、それ以降も残高は維持されるとしている。国債の償還などもあり、単純に比べることはできないが、市場では「2014年の緩和度合いは弱まるとの印象を与えてしまう」(シティグループ証券チーフエコノミストの村嶋帰一氏)との不安が広がった。
長期国債の買い入れペースも償還などを踏まえると現在は13年上期が1.9兆円、下期が2.5兆円程度と推計されているが、今回決定された14年の買い入れペースは月間2兆円。買い入れは無期限とされているが、緩和強化のイメージには結びつきにくい。

つまり、今年は国債保有残高は、30兆円増やしたが、来年は、10兆円しか増やさないといっているのだ。更なる金融緩和というからには、2%に達するまで、残高の増加ペースを上げていかなければならない。ところが、増加ペースを鈍らせるという。さらに、問題は、今年は始まったばかりといいうのに、何故来年のことをいうのか。レームダックと化した白川総裁の来年の政策を先取りしようという最後っ屁といいていいような内容だ。

安部総理は、この日銀の面従腹背を忘れるべきではないだろう。日銀法改正と改革派総裁の任命で、仇をとるべきだ。幸い、市場の動揺は、現在のところそれほどでもない。それは、日銀がいかに足掻こうとも、すぐに新総裁が任命され、本格的な金融緩和に踏み切るだろうという期待があるからだ。総理がこの期待を裏切ればアベノミクスは、失敗に終わる危険性が増すことになる。

時あたかも、ドイツと韓国が、日銀の独立性を侵害する行為は、通貨安競争を招くと評した。日本のおろかなメディアが大々的に報じている。しかし、ドイツも韓国も、輸出市場で日本の競争相手だ。ドイツは、ユーロ危機による通過下落で、わが世の春を謳歌している。韓国は、通貨操作をやり放題、ウォン安で、日本の日本企業を破綻の淵に追いやっている。この、2国が、日銀の独立性をいうのは詭弁だろう。本音は、日本に復活して欲しくないだけだ。こんなことみ見抜けない日本のメディアは、お粗末だ。日本のやろうとしていることは、アメリカやヨーロッパが既にやっていることに過ぎない。

しかし、国際関係で、自国の不利益ななりそうな事態に対して、即座に牽制球を投げるという両国の態度は、世界標準だ。我が国には、残念ながら、そんな体制も意欲もまったくない。(もともと何が利益かの判断もつかないのだろう。なにせ、自己認識不在の国だ。)ことは、金融政策に留まらない。我が国の対外広報体制には、致命的欠陥がある。早急に改革が必要だろう。

PS: アベノミクスへの批判として国債金利急上昇による財政破綻をいうものが多い。しかし、これは的外れ。そうならないように、日銀が国債を無制限に購入すればいいだけの話だ。

一兆ドルコインの発行

2013-01-23 17:59:14 | 経済


アメリカで政府支出の上限規制を避ける方策として、一兆ドルコインの発行というアイデアがあるそうだ。コインの発行は、連邦政府の権限とされ、議会の承認がいらないという。コインをFRBに預金して、FRB資金を同額引き出す。

日本でも、政府通貨を発行し、日銀に預けるということがかのうだろうか。法律では、政府通貨を発行する場合には、同額の資産積み立てが必要ということになっているようだ。しかし、法律は変えればいい。

アメリカよりも日本で、政府通貨の発行は必要だろう。なにをする為か。政府の借金をチャラにするためである。

そもそも日銀券とは何か。これは、本来日銀の債務、言い換えれば借用証書だ。金本位制だったときには、日銀券自体が金価格を体現しており、日銀券を日銀に持ち込めば相当額の金に交換でき、日銀債務は解消される。

アメリカも金本位制だったが、ニクソンは金兌換を停止し、以降、ドルは政府の信用のみで流通することとなった。日本も同様で、固定相場の時は政府の信用を介してドル・金と間接的に連動していたが、変動性とともに、実物資産との関連は、制度上は完全にたたれた。ただし、日銀は、ある程度の金などの実物資産を所有し、日銀の信用力を補完している。しかし、これは、単なる気休めにすぎない。

通貨の価値あるいは「物と交換できる力」は、現在では、中央銀行の信用力のみに依存し、それが崩れれば、ただの紙切れにすぎない。ハイパー・インフレはこうして生まれる。中央銀行の使命が物価の安定イコール通貨価値の安定とされる所以だ。

ハイパー・インフレを停止するには、通貨の流通量を抑える必要がある。そのためには、応急処置としての預金封鎖、恒常処置としての財政バランス維持が必要だ。敗戦直後の日本が実際におこなったことだ。旧紙幣及び銀行預金は、紙くずとなった。

さて、現在の日本である。政府純債務は600兆円を超えている。しかし、残高よりも問題なのは毎年の新規財政赤字だ。大雑把に言って、90兆円の予算の内45兆円が国債発行だ。半分も税収でまかなっていない。毎年、国債残高が、その分増加する。これで、金利が上がれば、更なる財政再建は不可能だ。新規の赤字国債発行を解消することをプライマリーバランスの回復というが、これが待ったなしの状況だ。

民主党の野田総理は、財政再建のため3党合意により消費税増税法案を実現した。しかし、デフレ下で増税しても景気悪化で税収は上がらず、かつ国民には耐え難い負担を強いることになる。

そこで、登場したのがアベノミックスだ。日銀にインフレ目標を課し、金融緩和を進める。安部総理の不退転の意志に応じ、まず外為市場が反応し、ついで株式市場が反応した。株式市場の活性化は、資産効果で景気浮揚に役立つだろう。So far, so good だ。

ただし、課題は残る。それは、政府債務残高だ。現状では、とても制御できる見通しは、立たない。特に、デフレ克服のために金融政策をあわせ大幅な財政出動を計画しており、見通しは更に悪化した。

政府債務は、どうやって解消するのか。課税強化により税収の増やし債務を返済するというのが通常のやり方だ。国債は、将来世代に対する税負担によるしか解消できない。だから、「未来の収奪」と言われる。

将来世代は、ギリシャ国民の苦難を甘んじて受けなければならない。増税する。支出も切り詰める。公務員の給与は下がり年金を削減しなければならない。国に防衛もままならなくなるだろう。暴動も起きる。増税も消費税30%でも追いつかないかもしれない。

しかし、ここに奇策がある。政府が、政府通貨を発行し日銀に預金するのだ。そして、日銀保有の国債と相殺する。増税を行なわずに借金をチャラにする。

この方式の利点は、その時点では、通貨流通量が膨張しないことだ。既に発行された国債の償還だから、追加のインフレ要因にはならない。日銀は、国の特殊法人、つまり子会社と言っていい。親の借金を子が債権として持っている。一家が危急のときには、一心同体として、貸し借りをなかったことにすればいい。

これで、将来世代は、将来の増税による国債償還のくびきから解消される。ギリシャの悲劇は避けられるのだ。逆に、ギリシャは、ユーロという共通通貨を縛られているため、こういう手法が使えない。ここが、ギリシャと日本の違いだ。

ただし、この手法が使えるためには、条件がある。それは、これを何回も使うわけにはいかないことだ。たぶん、一世代に一回限り位には許されるくらいだろうか。何回もやるということは、まさに、財政の金融ファイナンスであり、確実にハイパー・インフレになる。

では、どのように行なえばいいのか。まず、日銀は国債購入規模を、可能な限り拡大させる。これは、相殺後の国の借金額を可能な限り減らし、相殺後の財政健全化を維持するためだ。さらに、財政のプライマリー・バランスの回復が欠かせない。借金をチャラにしても、また、新規に借金をしては、もとの木阿弥だ。さらに、前科があるのだから信用がない。これも、ハイパー・インフレへの道だろう。

この条件さえ満たせば、国債の政府貨幣発行による償還は、特に実態経済への実害はないように思われる。冒頭のべたように、現在の通貨は、単なる物の相対価格を決める符号にすぎない。絶対的な価値はないものだ。ただ、物差しではあるので、むやみにルールは変えられない。ただ、変えることが、必要な場合には躊躇すべきではないだろう。

ただし、ハードルは高い。プライマリー・バランスの回復だけでも、財政赤字拡大の元凶である社会福祉の大幅な見直しは不可欠だ。さらに、秘密裏の周到な実行準備が必要だ。金融行政の構造改革も必要だろう。しかし、将来世代を無意味な増税で苦しませるよりは、はるかにましだろう。

NHKと蒙古襲来

2013-01-21 18:19:56 | 政治・行政


NHKがまたやってくれました。

さかのぼり日本史という番組がある。蒙古来襲がテーマであった。NHKの番組の主張は、蒙古来襲は、北条政権がチャイナ情報を南宋出身の禅僧にたより、蒙古に関する情報が偏っていたため、蒙古に敵対的対応をしたことによるとした。そして、蒙古の申し出受けて支配下に入っていれば、蒙古侵攻を避けられ、平和が達成されたというものだ。

NHKの番組制作者とそこに出演していた中央大学の石井正敏という歴史学者は、頭が狂っているとしかいいようがない。

NHK示唆どうり、蒙古に屈した国が高麗だ。高麗は、どうなったか。これは、井上靖の小説「風濤」を読めばいい。高麗は、蒙古の支配により日本攻略のため大軍団を編成させられる羽目になった。実は、元寇で来襲したのは、蒙古の命令で編成された高麗軍を主力とする軍隊だったのだ。

大軍に編成を強いられた高麗の民衆は、その負担に塗炭にお苦しみを味わった。その腹いせかわからないが、対馬に来襲した高麗軍は、「男は殺害、女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るされた。さらに、200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上させられる」という蛮行を働き、対馬住民を根絶やしにした。

もし、石井に言うように、蒙古に服属していたらどうなったか。侵略地の軍隊を持って更なる侵略を行なうというのが蒙古の世界共通戦略だ。これは、モンゴル人の人口が極小という与件から発する。蒙古軍は、幕府に南宋ないしベトナム侵攻を命じたに違いない。

こんな情報音痴が、当時の北条政権の世界情報欠如を嗤うのだから世も末だろう。中央大学で歴史を学ぶ学生はなんと不幸なことか。それ以上に、許せないのが、こんな歴史学者とも呼べない人物を、番組に登場させたNHKだ。

時あたかも、チャイナの尖閣侵略が常態化しているときだ。いつものNHKの狡猾な反日姿勢が現れたものだろう。受信料で、チャイナの宣伝工作に加担するNHKは解体するしかないだろう

岩田久利作の鱗紋ガラス水指

2013-01-17 18:29:13 | 文化

鱗紋は蛇の象徴。
日本民族は、蛇信仰民族です。注連縄は蛇を示すことは直観的に理解できますが、カガミ餅も、カガは蛇の古語であり、ミは身であり、蛇のとぐろを巻いた姿とされます。
稲荷社の祭神は、ウカ神と呼ばれ稲作ひいては産業全般を司りますが、ウカ神も蛇神とされます。ウカ神は、伊勢神宮の外宮トヨ(豊)ウケ大神の類縁神でもあります。また、卑弥呼に比定される倭トトヒモモソ姫は、三輪山の神である蛇神と婚姻しました。また、これより以前、漢の皇帝は、博多の奴国に対し、蛇の丑の金印を与えています。
ウカ神は、仏教と習合して弁財天となりました。弁財天像には、蛇の冠をもったものや後背に鱗紋を散らしたものが知られてます。
稲作は、紀元前6000年頃の縄文時代に長江流域からもたらされましたが、蛇信仰は、稲作とともに日本に伝えられたものでしょう。巷では、縄文人は、皮の腰巻をした裸で描かれている本も多い。しかし、現実は、遮光器土偶にあるカラフルな衣装をしていたことが、以下の写真を見れば理解できるだろう。
その源流は、チャイナ神話の蛇体の兄妹神、伏義・女渦と考えられます。特に女渦は、天地を創造し人間を造り、産業を興したとされてますが、もともとは長江流域の稲作照葉樹林民族の神でした。、漢民族が長江民族を支配した後、その神を漢民族の建国神話の一部として簒奪したものでしょう。
現在でも、長江流域の少数民族の意匠には、鱗紋が伝えられており、その意味では、上記の鱗紋は、6000年以上の伝統を持つものと考えられます。
最後の写真は、蛇のとぐろを巻いた意匠です。おカガミさんのルーツでしょうか。(参照サイト「倭人の来た道」写真も借用しました. また、吉野裕子氏の「蛇」も素晴らしい。)