うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本の地方制度

2007-08-28 14:30:44 | 政治・行政
2007/2/3(土) 午後 4:56  

地方の腐敗がとまらない。夕張に代表される放漫経営も、多かれ少なかれ他の自治体にもみられます。伊勢崎市の二台目の観覧車計画はその最たるものでしょう。

なぜ、このような問題が続発するのか。最大の原因は、地方の経営を合理的にするインセンティブの体系が存在しないことに求められよう。

言い換えれば、意思決定権者とその決定の結果受ける者とが不一致であることが問題です。自分につけが回らないのであれば、誰でも放漫なり、自分に結果責任があるのであれば慎重になる、というのは当たり前のこと。自分に結果がかぶさるのであれば、予算の策定にも首長の選出にも、少しは真剣さがでるのでしょう。

日本の地方は3割自治という言葉に象徴されるように、地方の業務経費の3割しか自主財源がない。言い換えれば、7割が国からの財源ということである。しかも、地方債の相当部分は国が補填ことになっており、借金も補助金と同等視する風潮がある。伊勢崎市の観覧車も、合併特例債で、国が大部分を補填するという。まさに、借金しなければ損という制度です。

どこから、改革したらいいのか。現在の主張は、国からの税源移譲により使途自由な金をもっと配分し3割自治の解消する、というものである。しかし、その前に、考えるべきことがあるのではないか。

実は、日本のような地方公共団体は、アングロサクソンの国には存在しない、ということである。

日本の地方公共団体は、あらゆる地方行政事務の実施する万能行政組織です。米国では、自治体の事務は、治安と地域の土地計画関連事務に基本的に限定されている。福祉に関しては、施設設置関連事務は行うものの、基本的に所得移転自体は行わない。また、行おうとしても、財源上、不可能です。

米国の財源は、固定資産税であり、税率は、毎年、支出に連動して決定されています。固定資産は、市場価格で評価され、公正さを保つために税査定人は選挙で選ばれます。

(もう一つ、米国での基本的な自治事務として基礎教育がある。これは、同じ、固定資産税を財源とするが、運営自治体は、school district という。municipality 同様、首長は選挙で選ばれます。同じ固定資産税を財源とするが、school government は独自課税権を有しており、教育レベル(支出)に応じたものとなる。)

このように、米国では、固定資産の税率が、支出に連動するため、住民は支出監視に大変厳格になります。

かつて、カリフォルニアでは、1978年、Proposition 13 と呼ばれる「納税者の反乱」が起きました。この立法は、自治体が課税する税率の上限を設けるとの州憲法の改正でした。結果、固定資産税率は、50%以上削減され、自動的に自治体支出は、強制的に同率引き下げとなった筈です。

米国でなぜ「納税者の反乱」が起きたのか。まさに、自治体の経営の合理化を図るインセンティブが機能したわけですが、これは支出者と負担者が一致するという、当たり前のことが、システム上保障されていることによります。

米国では、おおまかには、自治体の財源は固定資産税、州の財源は売上税、連邦の財源は所得税(所得税は地域により税率が違うと、引越しで課税逃れが可能。もっとも、最近のボーダーレス化で、国境も所得税逃れの制約ではなくなってきている)、ときれいに分かれています。

これに応じて、任務も分かれており、自治体は、地域計画と基礎教育、残余は州、連邦は、国防など州際事務となっていますが、所得移転も連邦事務となっています。各地に食料切符や医療援助を行う連邦事務所があり、受給権者に直接支援を行っています。

以上、米国の制度を概観しました。まさに、「自治」が貫徹していることがわかります。では、日本に対するレッスンはなんでしょうか。

明治維新後、政府は欧米にキャッチアップするために、強力な中央政府をつくりました。これは、欧米による植民地化の脅威に対する合理的な反応といえるでしょう。

廃藩置県以降、国家行政機構の一部として、地方組織は機能しました。自治の完全否定といってもいい時代でした。さらに、社会の近代化をはかるため、政府は社会のあるゆる側面で関与を強める家父長的保護政策をとりました。内務省を頂点とする地方組織は、警察をふくめ、住民のあらゆる生活に関与することになりました。自治ではなく官治の手段が地方組織だったのです。

戦後、米国は日本国憲法をつくり、これで地方自治を導入したつもりでした。しかし、実態は、地方税法と地方交付税により、自治体業務は自治省によりコントロールされました。

税率は、一部例外はあるものの基本的には全国一律です。交付税は、ことこまかな使途を積み上げたものであり、自由からは程遠い。さらに、各省の補助・交付金事業が、自治体の自由度をうばいます。

これに輪をかけたのが、選挙で選ばれた首長の、家父長的伝統の継承です。保守革新をとわずの福祉バラマキは、この文脈で理解する必要があるでしょう。しかも、最悪なことに、メディアや地域住民が、自治体の本来事務が、(家父長的)福祉であると誤解していることです。

我々がすべきことは、まず第一に、地方自治体の業務の整理です。所得移転を伴う福祉は、国にまかせ、主要任務を、地域のインフラ整備とすべきでしょう。(日本では、医療保険や介護保険も地方の制度とされているため、これらの保険料の地域格差が何倍にもなっている。通信の分野では、過疎地の住民の電話料の下げるためユニバーサル基金制度が運営されているが、本来のセーフティーネットの部分でこんなざるがゆるされているのは、噴飯ものでしょう。また、誰も文句を言わないのが不思議。)

日本でも、かつての集落では、どぶさらいや入会地の管理には、住民の「寄り合い」で住民の負担のもとに実施されてました。米国の自治体はいまでも、かつての「寄り合い」の精神で行われています。

カリフォルニアのマウンテン・ビューという自治体があります。人口は10万、スタンフォード大学があり、シリコンバレーの中心です。ここの自治体の見学をしたことがあります。立派な市庁舎、しかし、議員10名程度?はすべて非常勤、議会は夜間開会、報酬なし。議題は、地域の道路伝略通信等のインフラ一般。事務局は、専任の雇用したマネージャーがいますが、市長は、議会議長の兼任だと思いました。まさに、寄り合いが大きくなり、管理人を雇ったというイメージです。

課税自主権は、業務の整理とセットとして、初めて成り立ちます。米国型の支出との連動型税制は、無駄使い排除のシステムとして非常に優れています。もし、住民は本当に高度な行政のレベルを望むならそれにふさわしい税率負担を引き受けなければなりません。また、財源を固定資産税にするのも合理的です。土地インフラの高度化により、産業が発展し地価があがれば、それを税に還元することは、極めて合理的です。

国と地方の業務は、行政責任としては完全分離すべきでしょう。例えば選挙人の確定・通知など、業務における協力関係は必要です。しかし、業務の委託とか委任は、不必要です。

国は、税務署のように、全国に国の福祉等の直轄事務所を置き、国の事務を直接遂行すべきです。インフラ構築の責任に関しても、国と地方の責任を明快に分離すべきです。

例えば、現在の国道は、すべて地方に移管し、国は高速道路のみに権限を限定すべきでしょう。河川管理も、地方に全面的に移管可能でしょう(大河川は2・3の県の共同体管理とする)。国の公共投資の無駄が指摘されてますが、地方移管によりこれも改善できそうです。

市町村と県の財源・機能の双方における2重行政は排除する必要があるでしょう。基礎的自治体を主とし、県は廃止すべきです。道州制が提案されていますが、基本は賛成ですが、道州の権限が問題です。基礎的自治体を指揮監督することは無駄でしょう。国と同様、事務と財政の完全分離の原則が貫くべきです。道路でいえば、基礎的自治体内道路と基礎的自治体間の道路という具合です。

地域間の財源調整の仕組みは、人口集中地域から人口の少ない地域に対し、面積・人口のみによる基準により行う必要があるでしょう。

都市は都市のみにて存在しているのではありません。田舎の水源や空気や自然があって初めて都市生活が維持できてます。その補償として調整するのです。受ける側の使途もインフラと環境保全にげんていすべきでしょう。

自治体の監視体制ですが、自治がしっかり機能すれば夕張のようなことは少なくなると思います。しかし、事務の複雑化に住民の知識が追いつかないということは、可能性として常にあるでしょう。情報の完全開示とオンバズマンの制度は、当然取り入れるべきです。

それに加え、最近導入された早期是正制度をさらに充実させ、住民の監視の参考とするとともに、破綻した場合の最後の砦としての、国家管理制度も必要でしょう。

不祥事がおきると、日本では、制度の欠陥よりは、特殊事情の追求に重点がおかれます。なにより、メディアはそのほうが面白い。しかし、繰り返し起きることには、必ず構造的な欠陥があります。構造的な欠陥は、立法によってしか直りません。しかし、わが国では、議員に立法者という意識が薄いのが現状です。英語では、議員のことをlawmakerといいます。日本の議員さんも、すこしは、英語の勉強をしてほしいものです。


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