うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

丹羽大使の尖閣発言と外務省の大罪

2012-06-08 19:19:31 | 政治・行政
伊藤忠出身の丹羽在チャイナ大使が、フィナンシャル・タイムズの記者とのインタビューで、尖閣諸島を東京都が購入すれば日中関係に重大な影響がある、と述べたと報じられた。政府が、あわてて、政府見解と異なると異を唱えたが、後の祭り。チャイナでは、日本の大使が述べたことを大々的に報じ、尖閣は、疑う余地のないチャイナの領土である証拠とした。
もともと商売人の丹羽のような人物を民主党が大使にしたのが間違いだ。丹羽は、チャイナ政府の要人とはまったく面会できず、軽んじられているという。チャイナ政府も、大使としてではなく、単なる商売人として扱っているのだろう。
丹羽は、何に使うかわからない大運動場の広さのチャイナの新潟領事館用地買収に対して協力する旨の口上書も出している。昨年の在チャイナ大使館の改築許可との交換条件として要求されて応じたという。丹羽は一体どこの国の大使なのだろう。
丹羽のお粗末ぶりは、尖閣という国民的関心事だからたまたま目をひいた。しかし、その影には外務官僚の売国メンタリティーがあり、それが、この機会に噴出したものと見るべきだろう。
外交官になって赴任するとき、外務省はどういって送り出すか。受入国を愛し、その国の人から愛されなさい、という。間違っても、日本の国益を守りなさいとは言わない。なぜか。何が日本の国益か不明だからだ。不明なものは、守りようがない。戦後憲法で、平和主義が宣言され、諸外国とも、みんなで仲良くが国是となった。官僚が独自に国益と思われるものを突出して追求すれば、反対意見の持ち主から国内で追及され、失脚してしまう。かくて、相手国から愛される外交官の誕生だ。
外務省は、在外公館の職員の拡充に熱心だ。他国と比較して、要員が少ないという。しかし、それをいうなら、仕事の比較をしてからにすべきだろう。他国の外交官は、目指すべきものがある。しかし、日本の外交官は、存在することだけが、目的だ。
小人閑居して不善をなすという。日本の外交官もやることがないから、自分の生活を安楽にすることに注力する。生活安定のために最も重要な要素は、面倒な問題を起きないようにすることだ。なにせ、ステータスだけは高い。問題が起きなければ、王侯貴族に準じた生活ができるのである。在留邦人も、天皇陛下も名代としてちやほやしてくれる。かくて、懸案は隠す。隠し切れず顕在化した時には、ひたすら火消しにまわる。その過程では、妥協に妥協を重ねる。
問題回避・事なかれ主義の行動は、官僚全般のものだ。しかし、国内では、回避しようとしても限度がある。国民の監視の眼がある程度光っているからだ。しかし、外交には、国民の目は行き届きにくい。たとえ、関心事となっても、憲法にいう平和協路線に従ったといえば許される。
戦後、60年以上こういうことを続けてきたなれの果てが、日本の国益より相手国の国益を重視する外務省のメンタリティーだ。日本の国益を守ろうとしても、誰もその苦労を評価してくれない。へたをすれば、鉄砲玉が飛んでくる。それよりも、相手国から感謝されて、居心地よく暮らしたい。「生活第一」だ。丹羽の発言は、この外務省文化の当然といえば当然の産物だ。
日本外交の問題はなにか。確固とした外交目標がないことだ。しかし、それは、国家目標がないことの裏返しだ。普通の国は、自国の国際的ポジションの明確化、国際社会における望ましい国家理想像の策定、それを実現するための方策の研究と実行、という手順で外交を実施する。
戦後、アメリカの属国に甘んじた日本にはこれがない。属国には、意志は必要ないのだ。ただ、生活していればいい。突き詰めれば、日本には、外交は必要がない。その、論理的帰結が日本のお粗末な外交官を生んだ。
さて、外交を立て直すにはどうするか。まず、憲法を改正して属国意識を払拭することだ。アメリカの国力は相対的に衰退していくだろう。いまでは、日本の甘え根性は、アメリカにお足手まといになりつつある。アメリカは、自国の国益のためなら平気で日本を見捨てるだろう。(これは、国際社会の厳然とした事実だ。しかし、アメリカを責める訳にはいかない。アメリカに限らずどの国でもとる行動だ。シリアで虐殺が起き、チベットで今年だけで40人を超える僧侶が焼身自殺しても、どの国も助けには行かない。)自主憲法を制定し、自らの立ち位置を決定してから、初めて普通の国の外交目標の設定ができるようになる。しかるのち、初めて外交官の統制が可能になるだろう。

ザ・ラストバンカー

2012-06-07 21:35:31 | 経済
西川善文が回顧録を書いた。前半は、住友銀行で不良債権処理に成功し、頭取に上りつめるまで。後半は、日本郵政の社長として挫折するまでの裏話。

当然ながら、前半は迫力があり面白い。但し、ここに書いてあることは、表にできる裏話で、本当の裏話はもっとどろどろとしたものだろう。何といっても、許永中といった日本の黒社会に絡んだ話だ。きれいごとで済むはずがない。

後半は、これも当然のこととして、言い訳がましい。言い訳を聞いていると、この人間には、出来レースの簡保の宿売却などの自分が犯した犯罪的行為について、まったくの自覚がないようだ。

簡保の問題と異なり、新聞にはあまり書かれなかったが、郵便貯金振興会が運営していたメルパルクの問題も同様だ。メルパルクは、簡保の宿同様、郵便貯金の利用者サービス一環として、運営しており、郵政には、賃料に相当する金額を納付金として支払っていた。西川は、これを賃料も支払っていないと曲解した。さらに、この賃貸契約を、会社発足後直ちに一方的に解除し、1500名の従業員を路頭に迷わせようとした。さすがに、これは、国会で追及され、渋々雇用に最大限の配慮をすると回答せざるをえなくなった。しかし、結局たった3ヶ月の通告で、郵貯振興会の契約は解除され、密室のなか、新賃貸契約が、ワタベ・ウエディングと取り交わされた。

西川は言う。「一般取引として正々堂々、 競争入札の徹底が大事なのだ。」しかし、実際は、真逆。不透明な隋意契約を、ワタベと締結した。何とワタベの株価は、その直後からその後のピークまで5割以上高騰した。まさに、黒いバンカーの面目躍如、契約条件は、今も闇の中だ。

さらに、問題なのは、この人間は、住友の籍を抜いて郵政に来たといいながら、郵政に君臨しやりたい放題をやった後、郵政退職後は、住友の人間として、名誉会長に復帰していることだ。これは、西川が連れて来て、同じく疑惑取引を遂行した横山以下の幹部ものうのうと住友に戻っている。

しかし、西川の最大の罪は、郵便局ネットワークを引き裂いたことだろう。回顧録に書いてあることとは裏腹に、西川在任中、郵便局では狭い局内を、郵便、貯金、保険の3つを仕切りで区切る漫画のような工事が大々的に行なわれていた。

西川は、ゆうパックとペリカン便との統合も、事務方の反対を押し切って実行した。これは、結果として、売り上げは全く増えず、ペリカン便の赤字を郵政が肩代わりしただけだった。西川は、これも政治のせいにする。しかし、承認の遅れは、統合時の作業混乱に繋がったにすぎない。郵政事業に対する根本的な事業認識の誤りが原因だ。そのおかげで、国民資産で、民間企業の赤字を救済することになった。さらに、この失敗は、郵便事業に取り返しの付かない損失を与えた。

西川は、郵貯銀行の利益モデルとして、投信の窓販の大号令をかけた。国債と財投債の運用に伴う利幅では、銀行として成り立たないと考えたのだろう。しかし、窓販で手数料が転がり込む投信は、手数料が高い商品で投資のプロから見れば投資不適格に近いものだ。考えてみても、金利が0%に近いのに、手数料を2%近く取る商品が有利になる筈がない。しかし、大号令で、郵貯を信頼していた顧客に販売した。結果は、顧客の大損害。これで、郵貯の信頼を破壊した。

西川は、著書の前半でも、銀行の将来像として、投信の窓販を挙げている。そうすると、本当にそんな手数料ビジネスの将来を信じていたのかもしれない。そうだとすれば、まともなバンカーとしては失格だ。投信として意味があるのは、ETFやパッシブ運用のノー・ロード型といわれる最小手数料のもので、銀行に相当の手数料が落ちる投信は、そもそも一般人にとって投資適格がないものだ。

西川時代には、簡易局の廃業が続いた。簡易局は、田舎のじいちゃん・ばあちゃんが他の仕事と兼営でやっている場合も多い。しかし、この局の仕事に、金融庁の銀行検査が入るという、これじゃやってられないのは、当たり前だ。公社時代には、簡易な自主検査だけなので、田舎にも貯金サービスが行なえた。まあ、これは、西川の責任というよりは、民営化自体に問題があり、廃業で、過疎地のコミュニティー破壊に拍車がかかった。

西川の蹉跌の根本原因は何だろう。それは、郵政組織ひいては職員を敵視したことにある。社長が、職員を敵視してまともな経営が出来る訳がない。そして、郵政関連団体を、郵政に巣食うダニの巣窟として、叩き潰そうとした。その道具に使われたのが、茶髪学者松原聡である。松原は、証拠捏造の前田検事ばりに、前提ありきのでっち上げ報告を作成した。これは、西川の高等なメディア戦略だった。

しかし、日本の大企業で、関連会社を持たない会社は存在するだろうか。住友銀行を含め、数々の関連企業で構成されているのが、大企業だ。この経済学的根拠を明らかにしたのが、ノーベル経済学賞を受賞したロナルド・コースだ。コースは、企業の資源調達に関し、継続的取引が必要な場合、市場調達には取引コストの制約があるため、組織が出現することを理論つけた。日本の企業集団もそうして成立した(もう一つの要因は、日本に特有な人件費節約)。

つまり、西川は、国民の郵政資産を自己の思うがまま動かすため、邪魔者を消そうとしただけなのである。ちなみに、西川は、前任者の生田氏については、黙して語らない。その意味は、生田は、無能な経営者といっていることに等しい。しかし、生田氏は、商船三井では優れた経営手腕を発揮し社長にまでなった人だ。郵政の総裁になった途端に無能となったのだろうか。

例えば、西川が、誇らしげに挙げるメルパルクの運営改革。生田氏は、赤字を垂れ流していた当時のメルパルク事業を大リストラし、黒字経営を定着させた。西川体制移行時には、売り上げ絶好調で、そのままいけば郵政の立派な優良子会社になったろう。これが、西川により、ワタベに運営移管され、現在は、成績不振に喘いでいるという。どちらが、有能な経営者だろうか。

国民は、西川を恨むべきだろう。個人の名誉心と住友のため、郵便局ネットワークを破壊し国民に大損害を与えた。それは、西川が糾弾した堀田元頭取から連なる住友銀行の遺伝子のなせる業だろう。こんなバンカーは最後してほしいものだ。ラスト・バンカーとは、いいタイトルだ。

地方の再生

2012-06-07 21:33:21 | 政治・行政
沖縄はゆすりたかりの名人とは、アメリカ国務省のメア前日本部長の発言だ。もっとも、本人は発言を否定している。反基地運動家に乗せられたのだという。まあ、事態収拾のため否定せざるをえなかったのだろうが、乗せられたのは事実のようだ。
反基地運動家の狙いどおり、沖縄住民は、これに猛反発した。なぜか。痛いところを突かれたからだ。本人達が、自らをゆすりと認識しているからこそ、反発する。客観的に誰から見てもゆすりとされない行動をとっていれば、一笑に付すことができる。猛反発によって、自らがゆすりの名人であることを明白にしてしまった。果たして、これが、反基地運動家の狙いだったか否かについては不明であるが。
振り返って考えると、ゆすりたかりの名人は沖縄に限らない。日本のほとんどの地方自治体は、ゆすりたかり精神にどっぷりとつかっている。
震災被災地の岩手・宮城は、中央の復興予算の獲得をめざして、あの手この手。その獲得を地方住民が後押しする。それに、悪知恵をつけるのは、復興予算に群がる企業だ。復興自体より、如何に予算額を増やすかが関心事となっている。そこに、政治家がからむ。まさに、眼を覆う惨状だ。
被災者の救済は後回しで、予算確保のための人質になっている。被災者のことを思うと胸が痛む。しかし、被災者の名を借りて、都合よく金を巻き上げようとする人間がいると思うとより胸が痛む。
問題は、関係者が、それぞれ合理的な行動をとっていることだろう。自治体が予算をとるために方便を使うのは、当たり前。予算関係住民がそれを支援するのも当たり前。企業が営業目的で知恵をつけるのも、当然。そして、真の支援は無視される。
これは、コモンズの悲劇といわれる現象と類似の構造だ。猟場で、参加者が個々に合理的な行動を取ることにより、猟場の資源は枯渇する。解決は、個々人の行動全体を、新たなルールで規制し、そのもとで、資源管理を行なうことだ。
日本の地方自治にも新たなルールが必要だろう。今の制度は、ゆすりたかり精神のビルトイン・システムといってよい。これは、明治政府が、近代化を進めるために、中央が遅れた地方を改革指導するために作ったものだ。当時意義のあった制度が、今や国民の活力を削ぐ制度に転化してしまった。
明治の初め、日本の地方はみすぼらしかったが輝いていた。地方には、天下国家を論ずる有志が溢れ、自ら行動した。文化程度も、中央と遜色なかった。自主独立の精神を失い、ゆすり根性に蝕まれ、その必然としての凋落と疲弊のさなかにある今の地方とは大違いだ。
地方の再生は、中央の金をつぎ込むことによっては解決できない。それは、依存を更に深める死に至る病そのものだ。
地方分権の推進が叫ばれて久しい。政府の委員会の報告書を見ると、おっしゃるとおりという立派なことが書いてある。しかし、現実は、はるかに遠いところにある。地方の真の自立を実現するために何が必要か。これは、明治以来の仕組みを根本から改める以外にない。
具体的には、政府の事務を国と地方に完全分離し、それぞれがお互いのことに口を挟まず完全独立で事務を執行することだ。当然、地方は独自に自由に課税する。
現在の地方制度の根本問題は、制度上、地方政府は何でもできることになっていることだ。明治政府は、この制度で地方を中央の手足として使った。その総本山が旧内務省だ。その制度のもとでは、国と地方は一体で役割分担がない。戦後、地方自治制度が施行されたが、霞ヶ関は、作業の地方に押し付け、自らはそれを監督する形で旧体制が温存された。戦後は、悪いことに、地方は、無限定権限を逆手にとり、安全保障など国に事務に口を挟むようになった。その典型が、沖縄の安全保障を人質にとったゆすりたかりだろう。
改革の基本は、地方と中央の役割分担確定と役割遂行の完全独立だろう。中央の仕事は、地方にあっても、税務署のような中央の地方組織が実施する。戸籍事務のように、一部国と地方の共同事務が残るが、共同事務は、国が制度を定め、地方が受益に応じて費用負担すべきだろう。基地問題は、防衛施設庁だけの判断で実施すべきだろう。地域の人間には、自治体を絡ませず、国に対して直接問題を提起させるべきだ。
改革原理は、簡単だ。まさにアメリカ下賜憲法が言う地方自治の本旨を実現するだけだ。憲法施行後60年以上。この理念を全く理解しない日本の学界・言論界はあまりに異常であり、あまりにお粗末だ。

震災被災者の構造的悲惨

2012-06-05 20:33:21 | 政治・行政
震災復興が一向にすすまない。政府の対応に遅さは、阪神の場合に比べてもお粗末に過ぎる。これは、政府の無能による人災と言ってもいいだろう。

しかし、単なる現象面に留まらず、より深いところに思いをめぐらす必要もある。

例えば、故郷から一時間くらいかかる二間の仮設住宅に住んでいる初老の夫婦。生活の頼りは、支給期限が延長された失業保険。土地勘がなく、やることもない。仮設住宅の中でじっとしている。電気代を節約するため、夜も明かりを付けず、テレビの明かりですましている。幸い六畳一間に道具はおさまっているので、これで十分だ。そして、政府は、自分たちの生活を保証するために次に何をしてくれるかをじっと待っている。誇張があるかもしれないが、これが、被災者の一側面だろう。

この被災者は、受刑者より悲惨だろう。受刑者は、出所後の生活に思いをはせる。更正後の生活設計とその準備、あるいは、更なる犯罪計画かもしれない。肝心なのは、自分で自分の将来を考えていることだ。誰も政府に、生活保障をしてもらおうとは思わない。

敗戦後、日本国民は、今回の震災よりずっと悲惨な状態にあった。しかし、現在の被災者のような悲惨はなかった。人々は希望に燃え、国家の再建に取り組んだ。誰も励ます必要はなかった。今はどうだ。励ましの言葉は溢れている。しかし、それは、すべて空虚なものだ。頑張る気持ちは、内面から湧くもので、マスコミが垂れ流す外交辞令のステレオ・タイプをいくら聴こうと無意味だろう。

誰が、被災者を受刑者以下の存在にしたのか。

首謀者は、福祉に名を借り、国民に依存心を培養してきた厚生官僚とそれに巣食った利権あさりの政治家だろう。官僚は、福祉の提供を申請主義とし、それにくだらない条件をつけ、申請を査定する。申請者は、条件を満たすため、官僚の顔色を伺い、従順を学ぶ。また、共犯者は、福祉を「勝ち取る」ことを煽った「市民グループ」や、それを宣伝したお粗末なマスコミ・「知識人」だろう。残念ながら、国民も無実ではない。目先の利益に眼が眩み、唯々諾々と自己の尊厳をなげうった。

被災者支援には、賛成だ。しかし、それは、被災者の尊厳に配慮した形で行なわなければならない。具体的には、一定の要件を満たした被災者に対し、こまぎれの生活保障でなく、二~三年程度の生活資金の一括提供だ。使途には、一切口をはさまない。しかも、これは一回限りとする。それ以外の後出しの処置は一切とらない。

同様の支援方策は、被災自治体に対しても行なう。被災面積と被災人員に応じた一律定額一回限りの復興予算処置だ。同じく、使途には、自治体自ら立案する復興計画に沿って使うこと以外の条件をつけない。現行システムは、復旧と復興の予算を峻別する。そのため、当初の復旧予算では、時代遅れの施設でもそのまま復元することが行なわれた。官僚の都合だけを考えた馬鹿な考えだ。これは、阪神災害時に、後藤田官房長官が考えた。まさに、国民に「依らしむべし」を信条とする内務官僚の真骨頂だろう。更に、小出しの査定主義だ。これは、自治体の創造性を奪い、予算確保のために猿知恵をしぼらせる。早稲田大学の原田泰は、今回の震災による物的損害は、一人当たり966万円に過ぎないのに、復興予算は、一人当たり4600万円になったと試算するが、それもむべなるかなだ。

しかし、ことは、震災に留まらない。実は、震災対応は、通常の国の地方補助制度を基本的にはそのまま利用している。ということは、われわれは、平常時にも同じ構図にどっぷりつかっている訳だ。つまり、震災被災者の悲惨は、実は我々全体がどっぷりつかっている悲惨でもある。そして、それが構造化された無駄創出システムとして機能しているということだ。日本の産業競争力低下も、一面では、無駄なことに投資をしてきたことのつけが回ってきた側面がある。

日本と我々の将来を開くためには、いまこそ、この戦後の政官コンプレックスを解体しなければならない。そのためには、我々自身が、自己を再認識し、浅薄なメディアに鉄槌をくだし、国家の統治機構の改革に乗り出す必要があるだろう。