うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

伊万里 鶴紋小皿

2017-02-27 08:13:46 | 文化

江戸時代後期の伊万里、鶴紋変形皿です。和食が世界遺産に登録されました。四季の移ろいを細やかに表現する和食の特色が認められたものです。和食は、時々の自然の恵みを神に供え、そのおさがりを頂く日本の信仰に根差したものです。いただきます、の挨拶は神への感謝そのものです。この和食の精神は、料理の器にも反映されました。変形皿は、我々にはあまりに身近であたりまえと思うかもしれません。しかし、これは世界的には他に類例をみないものです。特に恵みをもたらす祖霊が歳神として訪れる正月は、晴れの日の中でも特別な機会で、このような皿でお祝いをしたのでしょう。

鳥文斎栄之 母子図

2016-03-06 07:17:59 | 文化
鳥文斎栄之の肉筆浮世絵です。アメリカのオークションでネット入札で落札しました。

栄之は、幕府の役人で、ウィキペディアによれば、「天明元年(1781年)4月21日から天明3年(1783年)2月7日まで西の丸にて将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。天明元年(1781年)12月16日には布衣を着すことを許可されている。上意によって栄之と号し奉公に励んだが、天明3年(1783年)12月18日辞して無職の寄合衆に入っている。」

「寛政元年に家督を譲った後は本格的な作画活動に専心し、寛政(1789年 - 1801年)期には栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立てた。特に女性の全身像に独自の様式を確立、十二頭身と表現される体躯の柔らかな錦絵美人画を寛政後期まで多数制作している。栄之の描線は細やかで優美、その女性像は背丈のスラッとした優雅なもので、当時ライバルだった喜多川歌麿作品に見られる色っぽさや淫奔さとは、はっきりと一線を画したものであった。栄之は遊里に生きる女性を理想像に昇華し、清長よりもほっそりとして、歌麿のような艶麗さがなく、容貌は物静かといった栄之独自のスタイルを確立している。」

「栄之は寛政10年(1798年)頃には錦絵の一枚絵の制作を止める。江戸期の記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述が見られ、版画作品の発表を取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる。享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)期にかけては専ら肉筆の美人風俗画を手がけており、気品のある清雅な画風で人気を得た。江戸時代は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、栄之の転身も彼の出自と、当時の身分意識が影響していたとみられる。」

画題が単なる美人ではなく母親像であるためなのか、軸先破損のためなのか、人気がなく、極めて安価で落札しました。実物は、ちょっと小さめの肉筆です。願うらくは、これが、明治の模写でないことを祈ります。

古清水 松竹梅紋徳利

2016-01-07 18:42:53 | 文化


       

高さ15cm程度の徳利です。小品ですが、その存在感は、能舞台の松の背景に通じるものがあります。おそらく、時代は幕末明治頃でしょう。江戸期の京焼きは、古清水と呼ばれています。この作品は、幕末とすると、古清水と呼べるかどうか微妙なところです。ただし、外観は古清水の特徴を備えています。それは、何よりも緑、紺、金の3色を用いたその特徴的な色使いで、いかにも京の雅を具現化したものと言えるでしょう。

京焼きは、寛永の頃、尾張瀬戸から来訪した三文字屋九右衛門が京、粟田の地で始めたとされています。その後、京都の伝統に育まれ、仁清、乾山という巨匠を排出しました。粟田の地には、その他の瀬戸の陶工も招かれ、また、仁清は、瀬戸に滞留し、その技法を学んだとされています。京焼きの特徴は、特定の陶芸技法ではなく、技法にとらわれない美意識といわれています。確かに、その後の永楽善五郎、青木木米などは、多彩な陶芸を生み出しました。しかし、原型の粟田焼きと呼ばれる一群の焼き物は、くすんだ地肌にこのような寒色系の独特な色絵の伝統を守りました。


鍋島向付 贋作

2015-01-18 20:15:58 | 文化

ヤフオクは、古伊万里贋作のデパートです。これは、ごく最近の例です。
最初は、恐らくは本歌と思われる江戸時代初期鍋島の向付です。昔の所有者は、向付に銀製のホヤを特注で作成し、香炉としました。
次のものは、恐らくヤフオクで高値で落札された画像を元に、どこかで意図的に作成された贋作です。画像コピーができるようになり、世界中どこででも人件費と罪悪感のない地域で、瞬時に一品物の贋作が可能となりました。
この例は、見て比べれば一見見分け可能です。贋作は、明らかに気品がないですね。この差は、色絵のわずかな色調の差、素地の質などから生じるものです。しかし、贋作だけを見れば、簡単に騙されてしまうでしょう。
色絵の場合は、釉薬の調合が違うので比較的には、贋作を見破りいやすいです。ところが、染付は、本歌でも様々な仕上がりぐらいがあり、素地精製度を上げたものを使えば見分けが極めて困難です。ましてや、ネットの写真で判断するのは困難でしょう。
悪いことに、日本の陶磁器の先生は、チャイナであり、先生が生徒の贋作を作るのですから、お茶の子さいさいといったところです。
古伊万里の最高峰は藍柿右衛門と呼ばれる手ですが、これは本歌と全く見分けがつかない物が、ヤフオクに多数出ています。
くれぐれもご用心あれ。

薩摩 牡丹菊紋壺

2015-01-17 21:29:00 | 文化


薩摩焼牡丹菊紋壺です。「大日本薩摩 文化2年梅花 」という銘が底にあります。文化2年は、1805年。江戸時代も後期に入り、文化も爛熟期になり、このような豪華絢爛たる焼き物が作られました。因みに、北川歌麿が、手鎖の刑を受けたのち逝去したのは、文化3年でした。
現代日本では、何故かこのような焼き物は人気がなく、薩摩の名品は日本にはありません。幕末、薩摩藩がパリ万博にこのような薩摩焼を出品したところ、絶大な人気を博しました。薩摩焼は輸出の花形となり、日本中が薩摩風の焼き物を作り出しました。
欧米の骨董店には多くの薩摩焼が並んでいますが、多くは明治のものです。これは例外的に江戸時代のものでした。ということで衝動的に購入してしまいました。江戸作品の図録と比較してますので、時代は確かと思っています。

骨董失敗談 菱川和翁

2014-03-16 17:41:53 | 文化

これらは、アメリカのオークションに出品された肉筆浮世絵です。秀作だと思います。作者は、江戸時代初期の菱川派の有力絵師、菱川和翁です。明治初期に輸出されたものでしょう。外国人向けの英文解説が、付属しています。
作品について、オークション会社に、問い合わせたところ、たしかに、肉筆とのこと、また、ネット上の情報でも隠れた名手とのこと、これは、貴重品と直感。オークションに、参加。当初は、200ドルを上限にしようと決めていたつもりでした。しかぢ、ビッドが始まり、想定落札額をこえると、想定外の事態に慌ててしまい、なんと500ドルで落札してしまいました。
想定外の出費となってしまいましたが、相応だろうと思いました。その後、確認のため、ネットを更に検索したところ、なんと和翁の作品画像のなかに、同一画像を発見したのには、目の前が真っ暗になりました。
奈良の大和文華館所蔵品でした。画像で、ゴロツキに対峙している男はうりざね顔ですが、本物は、少しいかつい顔です。
これは、明らかに、明治時代に輸出用に精巧に作られた肉筆模写でした。
がっくりきて、オークション会社には、送金と同時に、勝手処分を依頼しました。オンラインによる外国でのオークション参加の問題点は、輸送です。外国での、送付依頼は、面倒くさく高価です。失敗記念品として取っておくこともできませんでした。
授業料としては、貧乏コレクターにとっては痛かった。

イチゴ三昧

2014-01-26 09:30:25 | 文化
気温が高くなった昨日、三浦半島へイチゴ狩りに行ってきました。

30分、イチゴで満腹。一度は、経験する価値があるでしょう。

なお、写真の人物は、通りすがりの人ですので、お間違えのないように。

色絵古九谷栗紋小皿

2014-01-06 18:33:28 | 文化
                 

古九谷とは1650年頃製作された磁器です。青手古九谷の伝世品は北陸に多く、長い間、製作地について有田か九谷かで争いがありました。近年、出土品の調査から有田で製作されたことが確定しました。戦国時代、出陣式や凱旋式には、勝栗が必須であり、そこから栗は典型的な吉祥紋とされました。

本品は、栗田英夫との箱書があり、米国のオークションで手に入れました。栗田英夫は戦後政界のフィクサーとして活躍したした衆議院議員です。趣味の陶磁器に五百億円を投じたと言われ、収集品は、足利市の栗田美術館に展示されています。美術館に確認したところ、栗田の筆跡で間違いないとのことでした。多分、栗田氏が、アメリカ人に贈ったもので、死後市場に出てきたものではないか、とのことでした。なお、栗田氏に磁器を納入していたのが、テレビで有名な某陶磁鑑定家です。

古九谷は、後世大量の写しが製作され、本歌は極めて貴重とされます。本品は、本歌の可能性が高いと思いますが、そうであれば、超堀出物でした。もっとも、骨董陶磁器の価格は、バブル以降大暴落していますが。

岩田久利作の鱗紋ガラス水指

2013-01-17 18:29:13 | 文化

鱗紋は蛇の象徴。
日本民族は、蛇信仰民族です。注連縄は蛇を示すことは直観的に理解できますが、カガミ餅も、カガは蛇の古語であり、ミは身であり、蛇のとぐろを巻いた姿とされます。
稲荷社の祭神は、ウカ神と呼ばれ稲作ひいては産業全般を司りますが、ウカ神も蛇神とされます。ウカ神は、伊勢神宮の外宮トヨ(豊)ウケ大神の類縁神でもあります。また、卑弥呼に比定される倭トトヒモモソ姫は、三輪山の神である蛇神と婚姻しました。また、これより以前、漢の皇帝は、博多の奴国に対し、蛇の丑の金印を与えています。
ウカ神は、仏教と習合して弁財天となりました。弁財天像には、蛇の冠をもったものや後背に鱗紋を散らしたものが知られてます。
稲作は、紀元前6000年頃の縄文時代に長江流域からもたらされましたが、蛇信仰は、稲作とともに日本に伝えられたものでしょう。巷では、縄文人は、皮の腰巻をした裸で描かれている本も多い。しかし、現実は、遮光器土偶にあるカラフルな衣装をしていたことが、以下の写真を見れば理解できるだろう。
その源流は、チャイナ神話の蛇体の兄妹神、伏義・女渦と考えられます。特に女渦は、天地を創造し人間を造り、産業を興したとされてますが、もともとは長江流域の稲作照葉樹林民族の神でした。、漢民族が長江民族を支配した後、その神を漢民族の建国神話の一部として簒奪したものでしょう。
現在でも、長江流域の少数民族の意匠には、鱗紋が伝えられており、その意味では、上記の鱗紋は、6000年以上の伝統を持つものと考えられます。
最後の写真は、蛇のとぐろを巻いた意匠です。おカガミさんのルーツでしょうか。(参照サイト「倭人の来た道」写真も借用しました. また、吉野裕子氏の「蛇」も素晴らしい。)



盛期色鍋島宝珠紋7寸皿

2012-07-17 19:05:02 | 文化
ついでに、もう一枚盛期鍋島と思われる皿をアップします。
これは、アメリカのオークションで入手したものです。アメリカ人には宝珠の向きが理解できず逆さまに写真が撮られているのは、御愛嬌です。
この皿、本歌か否か、また、時期について確信がもてませんでしたが、たぶん本歌と思います。
図録によくある宝珠紋は、地紋が濃い赤の梅のものです。この皿は地紋が細かい松竹梅で色合いも薄くなっています。色鍋島の模様変遷は、単純明快から複雑へと変化していきます。また、色合いも薄く変化していきます。その意味で、これは、盛期の末期、色絵が許されるぎりぎりの製作ではないか、と考えてます。
色絵は、享保の改革以降製作されなくなります。ただし、浅黄色のものは許すとされました。以降、色絵は、基本的に赤だけを利用して作成されました。
この皿は、地紋は3色を利用してますが、全体の印象は浅黄の雰囲気があります。ひょっとして、これは幕命の範囲内としてその頃作成されたのかもしれません。
なお、この皿の裏模様は、満開の牡丹3つの花折れ紋で、盛期のものとされてます。
いずれにしても、手取りは鍋島の分厚い感触で、書き込みも、ご覧のように気の遠くなるようなものです。ただ、明治以降の創作の可能性を100%否定はできないところが素人の悲しさです。
ところで、小生実はもう一枚盛期鍋島と思われる7寸皿を所持してますが、その紹介は、また別の機会に。

(補足)実は、その後、浅黄の意味を誤解していたことが分かりました。浅黄とは、ネギの白い部分と緑の部分な間の色、薄緑色のことだということを学びました。自分の無知を恥じるのみえす。幕命は、青磁は許すとの意味でしょう。ということは、この皿は、明治の可能性が高くなったということでしょうか 。