うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

安部政権の謎 年金改革

2013-07-03 19:01:01 | 政治・行政

参院選の争点は経済だそうだ。外交でも課題山積であるが、とりあえず安全運転選挙に徹するのだろう。

安部政権の経済政策は、とりあえず成功しているといってよい。期待だけではなく、実態経済にもアベノミクスが波及しつつある。しかし、経済の構造改革については、残念ながら、大胆な政策はうちだされなかった。参院選で勝利し親の仇を討つためには、雇用や農業医療で、大胆な政策は打ち出せないのはよくわかる。しかし、これらは、TPPをてこに、大胆な政策展開が選挙後に控えていると解釈する余地がある。

逆に、経済に極めて大きな影響があるにも拘わらず、安部政権の取組が見えてこない分野がある。それは社会保障だ。社会保障費は、一般会計の半分を占める。その意味で、セーフティ・ネットという経済政策であると同時に財政政策でもある。

第一次安部政権は、年金問題で倒れた。安部総理にとって親の仇は、参院選自体ではなく、実は、年金の筈だ。ところが、年金に関して、親の仇を討つ覚悟は全く見えない。

自民党は、年金は破綻していないと言い張るが、これは、現在の加入者に対する支給が現在の計算では止まることはないといっているに過ぎない。しかも、支給を確保するために財源の半分は税金を投入する前提での話だ。なお、一般会計の半分は国債で賄っている。ということは、社会保障費まるまる借金で賄っているということだ。こんな状態で破綻していないとは、どうして言えるのか。

国債を無限は発行できない以上、すでに、財政的に年金は破綻していることは明らかだ。さらに、この事態をはるかに冷静に観察している国民は、すでに年金制度を見限り、実質加入率は50%にすぎない。国民の半分しか対象としない年金制度に何の意味があるのだろうか。それにも拘わらず自民党は、年金は現状維持で良いという。

社会保障はアベノミクスの中心的課題であるべきだ。成長戦略のうち雇用改革は、年金改革と切っても切り離せない。年金改革なくして雇用改革はありえない。また、年金改革なくして財政健全化もありえない。

安部政権は、金融政策でみんなの党の政策を丸呑みした。アベノミクスは、実はミンナノミクスだったのだ。みんなの党と維新の会は、共に年金制度の積み立て制への移行という抜本改革を訴えている。安部総理は、金融に続き、年金でも、みんなと維新の案を丸呑みすべきだろう。

年金問題を永遠に解決するためには、収支相応する積み立て制にする以外にない。また、積み立てなら、無能な年金官僚が国民に代わって莫大な資金を運用する必要もなくなる。自分で老後受け取りの年金勘定を運用すればいい。さらに、国民すべてが受け取る基礎年金は、消費税で賄い、消費税率は基礎年金支給額を確保する税率に自動調節する仕組みにすればいい(pay as you go)。そうすれば、国民が、基礎年金額のレベルを負担との見合いで選択をすることとなる。

安部総理は、何故年金に踏み込まないのか、理解に苦しむ。年金は、国民の関心が極めて高い。大多数の国民は、持続可能な制度を望んでいる。財政健全化の切り札でもある。改革方法も提案されている。

どんな改革にも抵抗勢力はあるが、年金改革の抵抗勢力は、官僚(年金官僚と二重の負担により財政の自由度が制約される財務官僚)及び官僚の意向を受けた金融機関しか見当たらない。農民や医者のような利権にぶら下がった国民が多数いる問題とは異なる。総理自身が決断すれば官僚だけの抵抗(金融機関は所詮官僚に付き合っているだけだ)はたかが知れているだろう。(二重の負担とは、積み立て制に移行した場合、既存の給付に加え新たな給付が開始されるため負担の二重と観念されること。しかし、既存年金債務は、既に発生していて支給されていないだけのものを可視化するため、2重の見えるだけで、実際は二重ではない。)

何故、安部総理は、年金の抜本改革をしないのか。安部政権最大の謎だ。

慰安婦問題に対して橋下市長の取るべきレトリック

2013-06-26 18:39:21 | 政治・行政

維新の会が都議選で振るわなかった。当落で見る限りみんなの党との決別が大きく効いたようだ。共闘が成立していれば、共産党の議席が伸びることはなかっただろう。しかし、慰安婦問題をめぐる世間の風が大きく影響したことは否めない。

来る参議院選挙にあたり、維新は慰安婦問題の事実解明を公約に含めるという。この不屈の態度は賞賛に値する。議員は、選挙に落ちればただの人だ。恐怖心が、正論を引っ込めさせる。橋下市長はその点だけでもすばらしい。(ただし、政権与党は正論を吐いて対米関係を悪化させ国民生活を破壊してはならないから、歯切れが悪くなるのもやむを得ない。)

残念ながら、国際世論は、相変わらず橋下バッシングを続けている。アメリカ政府、サンフランシスコ議会、国連人権委員会、そしてニューヨークタイムズなどの欧米のマスコミだ。彼らは狡猾だ。国務省のサキ報道官は、慰安婦問題に日本政府が関与したというのが、アメリカの公式見解だという。橋下市長は、それを否定したという。

関与があったこと自体は、日本政府も橋下市長も認めている。戦地のおける売春業者を含む民間人の移動や設営された施設の衛生規制を旧日本軍が行なったことは、争いがない。

問題は、この関与という文言にあたかも日本軍が、組織的に20万人の朝鮮人慰安婦を暴力で拉致監禁し性奴隷として使役した、という主張を含ませていることだ。こんな証拠はどこを探しても出てきていない。「麦と兵隊」のような戦時小説を読めば、戦地における日本人・朝鮮人慰安婦と兵隊との間の細やかな情愛が生き生きと描かれている。現代の倫理感からの売春の当否判断を離れてみれば、そこに性奴隷の面影などまったくない。

残念ながらこの正論は、橋下市長の外国人記者クラブでの釈明にも拘わらず、世界のマスコミを納得させることはできなかった。その有様は、事実を圧殺する点で、ガリレオ・ガリレイの地動説をめぐる宗教裁判に似ている。

さらに、日本の「識者」には、事実を棚上げして、これだけ世界のマスコミを騒がせた橋下市長の責任を問うといった、本末転倒の議論までで来る始末だ。事実がよほど怖いのだろう。それは、来日した自称朝鮮人慰安婦が公開会見を前にして、敵前逃亡したことからも明らかだ。

アメリカや欧米マスコミに対して、いかなるレトリックを使って対処すべきか。

まず、大原則として、事実の存在についての挙証責任は、存在すると主張する側にあると主張することだ。事実が存在しないという立証は原理上不可能だ。なぜなら事実は無限にあり、無限の事実について調査することは不可能だからだ(ただし、調べた限りでないことは立証できる)。逆に、在るという主張の立証は簡単だ。一例を示すだけでいい。だから、刑事裁判では、有罪を主張する側が、立証責任を負い、弁護側は立証が不十分であることのみ示すだけで足り、なかったとことを証明する責任はない。(これは橋下市長のお家芸のはずだが、丁寧が仇になったのだろうか。)

橋下市長は、外国人記者クラブでの失敗の一つは、この原則を最初に確認せず、相手と同列で議論をし、説得を試みたことだ。これでは、見解の相違ということで終わってしまう。案の定、マスコミはバッシングを継続した。

第2の問題点は、橋下市長は丁寧にも軍と性一般論を展開するなど各種傍論に時間と労力を割きすぎたことだ。本論と縁遠いことを延々とのべると、その部分で揚げ足を取られ、本来の主張がわからなくなってしまう。すべての論旨が「強制連行」の事実の有無に集中するように、説明すべきであった。どうせ、外国人がこの問題で本国にレポートするのは、数行にすぎない。余分な主張は、省略すべきであった。

最後に、橋下市長は、外国人記者に対し、言葉の定義上、「強制連行」の意味が官憲による暴力的拉致監禁であることを含むか否か明確にするように求め、もし、それが含むという回答の場合、暴力的拉致監禁の証拠を提示できる記者がその場にいるかどうか、確認を求めるべきであった。

橋下市長は、市の職員に対しては、このような逆質問で、質問者が如何にお粗末な思考の持ち主かを、鮮やかに浮かびあがらせた経験をもっている。せっかくの能力を、今回は封印してしまった。相手が欧米マスコミということで安全運転を心がけたのかもしれない。しかし、なまじ沈静化を期待するのでなく、やるからには徹底すべきだったろう。

もし、いると答えた記者がそこにいる場合には、そこではじめて本格的な事実検証にはいることになる。冒頭述べたように、その場合でも、立証責任は記者側にあるので、論破は容易いことだったのではないか。なにせ、現存証拠は、敵前逃亡慰安婦のあやふやな一方的証言しかないのだから。

以上のレトリックは、今後の国際的主張にも利用すべきであろう。

具体的には、アメリカ政府、アメリカ議会、国連、欧米マスコミに対し、公開質問状を送ることとする。

質問状は、まず、挙証責任の大原則を明示する。その上で、「政府の関与」という言葉に、「官憲による暴力的拉致監禁」を含むか否かを明確にするよう要求する。(日本の社民党などは、暴力的拉致監禁がないとわかると、民間業者による広義の強制だと詭弁を弄した。アメリカも「関与)という言葉で、同じことをいう可能性が高い。そして、更に、在りというなら、具体的証拠を提示するように求める。

外国機関が、この質問状にまともに回答しない可能性が高い。サキ報道官のように、一地方首長の呼びかけには反応しないのが得策と考えるだろう。しかし、ここで、挙証責任の原則がいきてくる。立証する側は、強制連行があったと主張する側なのだ。一定期間、相手が反応しなければ、その事実をまた、公にすればいい。

その後は、アメリカなり、欧米マスコミが何か言うたびに、公開質問状に回答がなかった事実を繰り返せばいいだろう。論争に応じる場合は、相手が具体的証拠を示した場合のみだ。

橋下市長は、慰安婦発言後、劣勢を取り戻そうと思ったにかもしれないが、慰安婦に対する補償とか唐突に八尾市へのオスプレイの訓練を提案したりと、若干混乱していると見受けられるところもある。ここは、色々ちょっかいを出さず、基本に愚直に当初の理念を日本と世界に訴えるべきである。

橋下市長がんばれ

2013-05-17 18:26:22 | 政治・行政

橋下発言をめぐって、世間が騒いでいる。いい事だと思う。特に、「アメリカは、アンフェア」という発言には、喝采を送りたい。

当初発言をめぐっては、確かに女性蔑視と誤解される部分があり、それについては謙虚に反省すべきだろう。また、発言に準備不足の面があったのは、否めない。今回の事案のように、過去からの経緯をひきずっており、既に国際問題化しているテーマについての発言は、あらゆるシミュレーションをした上で、行なうべきであった。

共産党の元日本軍兵士のうそ、朝日新聞記者の捏造、福島瑞穂と朝鮮の悪乗り、河野官房長官の事実無根の談話、等に端を発する慰安婦問題は、日本が国際社会に向かって濡れ衣を晴らすべき最大の課題だ。

韓国は、韓国系米人を政治的に動かし、それに呼応した米国は議会で事実に反する非難決議を行なった。アメリカ議会は自国の民主主義の伝統に泥をぬる暴挙をおこなったのだ。

アメリカは、この問題について日本政府の言い分を聞かない。なぜなら、日本は、アメリカの属国であり、アメリカの意向に逆らうことは出来ないと踏んでいるからだ。事実、チャイナの安全保障上の脅威に独自に対処できない政府は、アメリカの言いなりになるしかない。安倍総理が、アメリカはアンフェアと言うわけにはいかない。

戦後、日本の民主主義者がアメリカを非難することは出来なかった。左翼のアメリカ非難は、甘えを前提のままごとみたいなものだった。この、戦後最大のタブーをやぶったのが、今回の橋下発言だ。

幸い従来路線で簡単に押さえ込めると思って、アメリカの報道官が介入してきた。これはチャンスだ。向こうが裏介入でなく正面から来たことで、アメリカと対等の立場で論戦が出来る舞台が整った。

橋下市長は、この機を逃さずそもそもの事実関係から説き起こし、アメリカの不当性を訴えるべきだ。決して、腰折れしてはいけない。論争にあたっては、日本の良識ある勢力を結集し、連携を図るべきだ。

頑張れ、橋下。

PS その後、アメリカでの記者会見の模様の詳細を分析した労作のブログ発見
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2013/05/post-a808.html

これによれば、報道官の発言を引き出したのは、朝日の記者。報道官の発言は、「人身売買」された慰安婦に関するものだ。その発言をゆがめている。さらに、朝日の記者は、報道官から慰安婦ではなく、「性奴隷」の言葉を引き出そうとして失敗している。本当に朝日は、許しがたいメディアだ。

公務員制度の改革

2013-04-16 08:05:38 | 政治・行政


デフレ脱却を目指すアベノミクス第一弾の金融緩和は大成功でした。しかし、総理も認識しているように、金融政策だけでデフレ脱却をするのは容易なことではありません。90年のバブルの時ですら、消費者物価はほとんど上がらなかったことを考えれば、なおさらです。消費者物価を上げるには、輸入可能な物の価格ではなく、輸入不可能なサービスの価格を上げるしか方法がない。サービスの価格の大部分を占めるのが賃金です。つまり、デフレ脱却には、3本の矢の最終的な効果として、賃金が上がらなくてはならない。

そこで、お願いです。デフレから脱却するための一助として、公務員の賃金体系を変革してはいかがでしょうか。

現在、公務員制度改革について5月頃に提言がされるとの報道がありますが、過去の経緯からして、賃金体系が課題とは認識されていないと思われます。しかし、天下り等の公務員制度改革の根幹は、実は、一見無関係に見える賃金体系にあると愚考します。

アベノミクス第3の矢の成長戦略の一環として、産業競争力会議で、解雇規制の緩和を含む雇用の流動性の議論が行なわれています。しかし、解雇規制の問題は、単独で論ずるべきではなく、労働制度全体の改革の中で論じなければなりません。たとえば、非正規労働者の増殖は、正社員の解雇規制が厳しいからこそ生じた現象です。そして、非正規労働者の賃金に対する下落圧力が高いことこそが、デフレの主要な原因です。

安部総理は、同様の認識に立ち、経済界に賃上げを要請しました。しかし、競争圧力に直面している経済界が、単なる言葉の要請に素直に従うことは困難でしょう。そこで、民間の労働慣行にも絶大な影響を持つ公務員の労働関係を改革することにより、競争力会議の民間労働関係改革を支援することが可能ではないでしょうか。

公務員の賃金体系の何が問題か。それは、世界に類を見ない年功賃金体系をとっていることです。現在の日本の公務員制度の原型は、戦後アメリカが、自国制度を移植したものだ。それは、職階制と呼ばれ、現在も地方公務員法に言葉だけは、残っている。しかし、この職階制は、日本では運用停止された上、なんと、2009年、国家公務員法からは、削除されてしまった。(注)

職階制の内容は簡単で、公務員の職務を分類し、同一職種には、同一賃金を支給するというものだ。同一労働・同一賃金という世界標準の制度が何故活用されなかったのか。それは、日本の上級職公務員が部内昇進と年功賃金制度によっていたからだ。職階制は、上級公務員が昇進する場合、試験を受け能力を証明することを要求した。このため、自動昇進に慣れていた官僚には、評判が悪かった。また、全く不知の業務に就くローテーション人事は、不可能になる。

変わって実現したのは、それまで、エリートにしか適用なれなかった官僚の終身雇用制度を戦後民主化の掛け声とともに、すべての公務員に適用したことだ。かくて、すべての公務員が、昇進しなくても無限に昇給する俸給体系が形成された。高齢の一般事務員が、課内で最高の給与を貰うというようなことが生じた。(余談ではあるが、数年前までは、国家公務員に定年退職制度がなく、よぼよぼの爺さんが、最高給を食みながら、茶飲み話をするために霞ヶ関に通勤していた。職階制では、職務を果たせなくなれば解雇されるので、定年制はない。それを、労組が悪用していた。)

現在の日本の年功賃金制度は、グローバル経済に於いては、不適合な産物と化した。同一労働同一賃金の世界標準、いや経済原理からずれている。非正規労働の増加も、この無理な制度に起因する。労働法の改正で、根本を改めずに、5年を超えて雇用する非正規労働の正社員化を義務つけたが、5年の期限内に熟練した非正規労働者を解雇する副作用が蔓延し、非正規労働者をかえって苦しめている。熟練非正規労働者を失う企業にとっても痛手だ。

公務員改革は、天下り規制や労働基本権など、マスコミ受けする問題に目が奪われがちで、政府の改革もそちらを向いている。しかし、根本は、労働制度全体、とりわけ賃金制度が重要と考えます。

公務員制度改革の方向は、職階制を復活させ、公務員にも、世界標準の同一労働、同一賃金の原則を適用することだろう。記述された職務を果たせない公務員、当該職務が不要となった公務員の解雇(職種転換が出来ない場合)を明定すべきだ。人事院がすべきことは、職種ごとの賃金を調査し、政府に勧告することだ。年功に基づいた現行俸給表と昇給慣行を全面的に破棄すべきだろう。

管理職については、職務記述に基づき課長以上については原則公募制にすべきだろう。ただし、他省庁を含む部内応募を可能とする。大学教授等からの転職も容易になり、公職の高度化・専門化が図られることになる。現在一種試験のより採用されている将来の中核人材は、企画職として現行と同じ試験制度により採用するが、課長公募等に合格しなければ、昇進は課長補佐まででとすればいい。管理職の公募制が原則となれば、天下りは、自動的に解消する。(自衛隊等一部の公務員は、部内限定の公募制とする。)

冒頭述べたように、この公務員改革により、競争力会議で議論されている人材流動化策を公務員については、先取することになる。公務員の労働市場が変われば、民間労働市場も変わらざるをえない。まさに、日本を取り戻すことに資することになろう。

なお、別論になるが、デフレ脱却についてのもう一つの提言がある。それは、現在無秩序に流入している外国人単純労働者を制限することだ。賃金水準は、基本的に労働需給で決まる。チャイナ等から流入する名ばかり留学生や名ばかり研修生は、日本の非熟練労働者の職を奪い、賃金水準を下げ、将来の人生設計を破壊している。流入制限により、賃金水準は上がり、デフレ脱却が実現し、労働を通じた訓練により将来の社会の安定に寄与するだろう。

制限には、農業や中小企業者を中心に反対論がでるだろう。曰く、日本の若者は、いくら賃金をあげても集められない、と。しかし、それは、十分賃金を上げていない言い訳だ。そして、賃金を上げられない産業は、廃業か低賃金国に退出すべきだろう。


なお、小生のブログに、同じ趣旨を書いてますので、ご参考まで。
http://blog.goo.ne.jp/urakusp/e/92ede978f9e6f5bb3b30626a8f193d03
http://blog.goo.ne.jp/urakusp/e/8969fc79af84f38add42c7a41902a51e

また、アベノミクス第2の矢に財政政策に関しては、次のブログがあります。
http://blog.goo.ne.jp/urakusp/e/4cc3993205deaab05f3a2862b7f3ec14


(注)Wikipediaの職階制についての記述
「法律上の規定
地方公務員においては、同一の内容の雇用条件を有する同一の職級に属する職について、同一の資格要件を必要とするとともに、かつ、当該職に就いている者に対しては、同一の幅の俸給が支給されるように定められた制度をいう。職は、その職階により分類整理を行わなければならないとされている。
導入の経緯および現状 [編集]
職階制は、アメリカ合衆国で広く用いられている制度であり、日本の公務員制度においては、第二次世界大戦降伏後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) により導入された。
しかしながら、職階制は終身雇用を基本とする日本の雇用慣行と相容れない制度であるため、国家公務員・地方公務員ともに実施されていない(アメリカ施政権下の琉球政府において実施されたのみである)。
具体的には、人事院規則六―一(格付の権限及び手続)(昭和二十七年四月一日人事院規則六―一)に「職階制の実施に伴い別に指令で定める日の前日までは、格付、格付の変更又は格付の改訂については、その効力を停止するものとする。」という経過規定(同規則第11条)が設けられ、職階制の実施は事実上凍結され、2009年4月1日には国家公務員法等の一部を改正する法律の施行により廃止され実施されることはなかった。
地方公務員についても、第166回通常国会に、内閣提出法律案として地方公務員法及び地方独立行政法人法の一部を改正する法律案が提出されたが、同法案に対し当時の野党である民主党などが天下りを容認する規定も含まれているなどとして反対し、廃案となった。」

死についてー麻生財務大臣発言に思うー

2013-01-31 20:29:45 | 政治・行政

死ぬのは恐ろしい。特に、自分の事として考えたときは。末期がん患者が、病院で、痛い痛いと泣きわめきながら、殺してくれと叫んでいる映像を見たときはショックだった。小生は、遺伝的にがんで死ぬ確立が高いと思っていたので、ひと事とは思えない。

個人的に一番いやな死に方は、溺れ死にだ。潜水艦が撃沈されたとき、真っ暗闇で、浸水が始まったとする。その恐怖はいかばかりか。「海猿」のヒットも、前提としての溺死の恐怖が寄与しているのだろう。もっと、すごいのは、現実に海軍で、潜水艦に乗務している兵士だろう。

昔、江藤淳という評論家がいたが、死の宣告を受け病院で手首を切って自殺した。迫りくる死の恐怖に耐え切れなかったのだろう。

死に方は、様々だ。ストレスやうつ病に負け、自ら命を絶つ人もいる。死の恐怖を超える苦しみに苛まれていた不幸な人々だ。

そうかと思えば、昨年100人のチベット人が、チャイナ政府の圧政に抗議して焼身自殺をおこなった。かれらは、国際社会からの何等かの支援を期待していたのだろうが、残念ながら犬死に終わってしまった。それに比べれば、アルジェリアで、テロリストの手にかかった人々は、チベット人よりは、恵まれている。(命は代替が利かずどの人にとっても一回限りのものなので、当人にとっては等価だということは承知の上での、話だ。)

昔の日本人は、命を落とすことに今より恐怖を抱いていなかったようだ。戦国武将は戦場で死に装束といっていい甲冑を己の美意識で飾った。江戸時代でも、なにかことを起こすには、死の覚悟がいった。忠臣蔵のように武士が覚悟を持つのは当然だが、百姓でも、直訴や一揆を起こすときには死をした。町人でも、「め組のけんか」にあるように、男女とも意地にため命をかけた。死が日常のことの場合、日常は緊張に満ちたものになるだろう。江戸時代の工芸が、明治以降世界を驚かせたのは、この緊張感とは無縁とは思えない。

死への対処は、文化にも影響をあたえた。宗教はすべからく死への対処を中心に発展してきた。平安貴族は、極楽浄土への生まれ変わりを求め、平等院など豪華な寺院を建立した。つれづれ草や方丈記、平家物語なども、死を貫にして語れない。死は文学の重要課題でもあった

事故で、命を落とす人もいる。御巣鷹山に墜落した日航機に乗客していた人には、過失はないが、高速道での不注意でなくなる人には相応の自己責任が認められる場合もある。

東京大学の駒場寮では、寮雨という現象があった。駒場寮は、長細い建物で一方の隅にしか便所がなかった。便所に辿り着くまでには、遠い部屋からは7・80メートル。夜酒盛りの最中に、この距離を移動するのは、おっくうだ。そこで、窓から建物の庇にでる。そこから用をたすのである。それを寮雨といった。その寮雨の最中に転落死した例があるそうだ。前途を期待していた親の悲しみはいかばかりか。

さて、死と本当に恐ろしいものなのか。実は、恐ろしいのは、死ではなく、断末魔の苦しみだ。それは、殺してくれと叫ぶ末期がん患者の言葉から明らかだ。断末魔の苦しみから逃れるために、死んで楽になりたいのだ。江藤淳も断末魔の苦しみの中で、自己を保持できる自信がなかったのだろう。

身体的な故障は、たとえ些細なことでも大変な苦しみを齎す。アカプルコ郊外の海岸で、屋台のスナックを食べた後、激烈な下痢になり手足も動かせないことになったことがある。数日間、ホテルのベッドに釘付けになり、せっかくの旅行がふいになったことがある。ただの下痢でも、こういう事態は発生する。あるいは、指先の小さなささくれでも、人間の行動を変化させるには、十分だ。拷問の禁止は、むべなるかなである。これが、断末魔の苦しみとなれば、どうか。残念ながら経験者の話をきくことが出来ないが、想像を絶することは確かだ。

これと似たものに、臨死体験というのがある。橘隆が、本をだしている。昏睡など臨死から生還した人にインタビューしたものだが、これによれば、臨死状態自体は、心理的には苦しくないそうだ。極楽のようなきれいな場所で、親など親族が出迎えにくる場合もあるようなことが書いてあったと記憶する。臨死状態では、脳内にエンドルフィンなどの麻薬効果のある物質が分泌され、このような状態になるそうだ。

さた、いよいよ本題だ。麻生財務大臣が、医療費抑制のため、終末期医療について、老人はさっさと死ななければならないと発言したそうだ。これに、共同通信に記者が食いつき、大臣は内閣の安全運転のため、発言を撤回したそうだ。

昨年、小生の親族がなくなった。脳溢血を起こして目が不自由になり、リハビリ中だったが、誤飲性肺炎を起こした。病院を見舞ったときには、片肺は完全につぶれ、もう片方も機能不全。口に酸素吸入マスク、栄養点滴のチューブに繋がれていた。本人は、苦しい息をしており、子供が何かを話しかけても判っているのかどうか不明。ただ、大きく呼吸して、と言うと呼吸がゆっくりになるので、何等かの意識はあるのだろう。医者は、意識は混濁して何もわからないだろうと言う。

場所は、とある大病院の危篤状態にある患者のみを集めたフロアの個室。看護婦が時々見回りに来て、手馴れた手つきで痰を吸引する。ベッドのよこでは、親族があつまり、今日の昼食をどうするかなどの雑談をしている。その風景に似たものを探すとすれば、第二次大戦中の、陸軍省だろう。ガタルカナルで、日本軍が死闘を演じていたとき、東京の陸軍省では、職員だ定時に退庁していたそうだ。

ベッドでは、人生の一大事に直面している人間がいる。かたや、同室の親族には、日常と平凡なFACT OF LIFEがある。その、超えがたい落差を、不条理というのだろう。さらに、そこにいる看護師や医師にとっては、患者の世話は、経済行為だ。その上に、行政が終末期医療のあり方を論じ、それについて政治家の揚げ足取りに専念している共同通信記者がいる。

親族は、経験のない事態に直面して医者のいうなりだ。医者は、延命は絶対の善とする常識に従い、当然のことのようにチューブをつける。医療点数も稼げる。ここに、患者の意向は反映されない。実際、その患者は、チューブを無意識にはずそうとしているかのようなしぐさをみせる。しかし、はずれかかると、看護師が付け直す。

患者は、目も見えない真っ暗な状態で、言葉も発することができない。息が苦しい。死ぬことは確実らしい。こんななかで、係累のものの冗談の高笑いが聞こえる。一刻も早くこの苦しみをなんとかして欲しい。いつまで、この苦しみが続くのだろうか。これこそ、江藤淳が耐えられなかった死の恐怖だ。

オランダでは、安楽死が認められている。一定の手続きを経ると、治療法がなく死が確実な患者で望む者に認められる。患者は、痛みをコントロールされた状態で、ゆっくりと最後の日を過ごす。そして、旅立つ心の用意が出来ると睡眠薬と筋弛緩剤を服用する。数分で、患者は永眠する。

日本でも、尊厳死運動がある。あらかじめ終末期医療について意思表示しておくのだ。しかし、日本の医療制度のなかに尊厳死医療の標準的方法はないのだろう。そして、麻生大臣が発言を撤回したように、そのための行政処置もないのだろう。

小生は、少なくとも患者は、自分の終末期医療について支配権(尊厳死か否かの選択権)をもつべきだと考える。そのための、準備を行政は整えるべきだ。そうすれば、江藤淳の悲劇は避けられただろう。その意味で、麻生大臣が発言を撤回したことは極めて遺憾だ。言葉じりはやや問題があったが、是非、この問題を再度提起していただきたい。共同通信記者の救いがたい点は、患者に対する洞察力が決定的に欠けていることだろう。

ウィキペディアによると、尊厳死に反対する人がいると言う。「生存権を脅かしかねないものとして尊厳死を警戒する立場の人もいる。森岡正博は、尊厳死を望む根底は「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観だと指摘している[要出典]。 「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助が一般化する可能性があると主張している。」

いやはや恐れ入る。生死は、極めて個人的な現象だ。他人にとやかく言われる筋合いはないだろう。手続きは、きちんとしなければならない。それだけのことだ。

この倒錯した論理は、どこからでてくるか。よく似た主張をする団体がある。農業保護を叫ぶ農協。しかし、かれらの訴えるのは、農協の存続であり、農家はだしに使われているにすぎない。団体、差別を解消するのではなく、存続させみんながそれを学習する必要があるという。団体存続のための主張だ。かれら差別の解消には興味がない。あるのは、自己の属する団体の永続という経済的利益だ。障碍者団体。障碍者が生まれないようにするのは、現在の障碍者が将来少数になって不利益をこうむる可能性があるから、反対という。そして、そういう倒錯の論理を「人権教育」として子供に強要しているのが日教組の教員であり、世間に対して宣伝しているのが、共同通信をはじめとするマスメディアだ。

小生は、個人の人生決定権を奪うあらゆる試みに断固反対する。これこそ人権だ。ましてや、その試みが、所属する団体の永続をはかるというくだらない理由であればなおさらだ。

日本の歴史を取り戻せ

2013-01-29 20:40:49 | 政治・行政


海外メディアによる安部政権バッシングが続いている。 南ドイツ新聞によれば、安部氏は、「過去を夢見る極右主義者」だそうだ。同じ論調は、ニューヨーク・タイムスでも見られる。まあ、いずれも慰安婦問題を捏造した(池田信夫氏の慰安婦報道の検証ブログhttp://blogos.com/article/45082/?fb_action_ids=444650265581814&fb_action_types=og.recommends&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=288381481237582 等参照)朝日新聞と提携している在外メディアだ。

朝日を発信源とする極右報道は、残念ながら世界のメディアの支配的論調になっている。とりわけ、女性の人権無視のイメージが一人歩きし、国外では繰り返し事実検証なしのレッテル張りが横行している。国内では、論理破綻が明確な朝日は、海外から反安部包囲網を展開するつもりなのだろう。

この事態にどう対処すべきか。単純な考えは、日本からの情報発信を強化し、バッシングが根拠なきものであることを訴えるというものだ。例えば、慰安婦問題に関し、アメリカの地方新聞に、桜井よし子氏らが意見広告を出したことは一定の効果が見込まれるところだ。しかし、戦後60年以上にわたり、諸外国における事実無根の主張を放置してきたつけは、こんなことでは解消しないだろう。安部政権が不用意に河野談話などを見直せば、更なるレッテル張りが跋扈するだろう。

人間の認知能力には、大きな制約があり、自らの認知枠組みに適合しない言説にはそもそも関心を向けない。仮に、向けたとしても、その言説を認知しない。この現象は、selective attention, selective perception と呼ばれる。見れども、見えず、言われても認識しない。(逆の状態が、あばたもえくぼという状態。)いくら、広告を出しても、読まれもしないし、ましてや説得することはほとんど不可能ということだ。だからこそ、初期の段階での対応が重要だ。

さて、事ここに至った歴史問題をどうするか。ここは迂遠なようでも、誠実な欧米人歴史研究者による地道な国際的視野をもった戦時歴史研究プロジェクトを発足させる以外にないと思う。

南京事件、慰安婦問題等、戦争中の日本の行動に関しては、国内では、多くの研究が行なわれているが、これらは、主に国内の議論に留まっており、海外ではほとんど知られていない。南京事件については、事件前後の南京の人口変動、死体処理体制、国際保護地帯に逃げ込んだ国民党の兵士の日記からも虐殺の事実は伺えない。一方、虐殺情報を流したドイツ人神父は、国民党の宣伝工作員の疑いが浮上している。

また、チャイナが非難する三光作戦(殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす)は、兵站の現地調達に頼った日本軍の方針とは相容れず、むしろ日本に物資を与えないようにした国民党軍が自国人に対し行なった戦術(清野作戦)だ。(もちろん、戦争だから、日本軍にも行き過ぎは多く発生しただろう。アメリカ軍もベトナムで多くの過ちを犯した。そういう事象にたいしては、誠実に向き合わねばならない。)

戦争中の日本の行動については、客観的な国際的研究は、ほとんどなされていない。世界の多くの人は、日本は、ヒトラーがそうであったように、戦争指導者が、虐殺や女性の虐待を指令したと信じている。チャイナや韓国は、事実究明をする気は全くなく、自己の主張を日本に認めさせるのが国際研究だとしている。日韓の共同歴史研究が如何に不毛かは、参加者が痛いほど認識したはずだ。

ここは、事実に誠実な欧米の歴史学者に、たとえば、盧溝橋事件、日本の対チャイナ政策、対米戦争決定過程、日本軍の戦争遂行体制、将兵管理体制、チャイナにおける日本の占領地行政、軍属管理体制、慰安所管理制度等々、個別且つ包括的に、詳細な研究を依頼してはどうか。もちろん日本人学者との対話も十分行なう。

日本の国力低下と共に、欧米における日本研究者の地位は低下している。資金も潤沢には回らない。国際交流基金などから、大々的に研究資金を拠出して、大規模な研究プロジェクトを立ち上げる。資金の配分や研究者の選択は、透明性を持たせ客観性を担保する。

それらの研究成果は、日本人自身にも自らの歴史認識を新たにする機会を与えてくれる筈だ。 戦勝国の一方的な宣伝活動に過ぎなかった東京裁判は、仮に相当程度の真実が含まれていたとしても、日本人には信用できない面がある。 日本の歴史は、日本人のイニシアティヴで国際的な観点も考慮の上で究明・評価する必要があるだろう。それで初めて、戦争は真の意味で、日本人の歴史となるだろう。さらに、その研究をもとに政治的発信力を強化すれば、日本の主張が通り易くなることが期待されよう。

日本の経済を取り戻すことは、重要だ。それは、現在の我々の生活を取り戻すことだ。しかし、歴史を取り戻すことは、もっと重要だ。未来永劫の日本人の精神を守ることだからだ。目前の経済的利益のために、国の名誉をないがしろにする大使がいた。一時の利益と未来永劫続く利益の比較すらできないお粗末な人間だ。

日本の歴史を戻せ。

NHKと蒙古襲来

2013-01-21 18:19:56 | 政治・行政


NHKがまたやってくれました。

さかのぼり日本史という番組がある。蒙古来襲がテーマであった。NHKの番組の主張は、蒙古来襲は、北条政権がチャイナ情報を南宋出身の禅僧にたより、蒙古に関する情報が偏っていたため、蒙古に敵対的対応をしたことによるとした。そして、蒙古の申し出受けて支配下に入っていれば、蒙古侵攻を避けられ、平和が達成されたというものだ。

NHKの番組制作者とそこに出演していた中央大学の石井正敏という歴史学者は、頭が狂っているとしかいいようがない。

NHK示唆どうり、蒙古に屈した国が高麗だ。高麗は、どうなったか。これは、井上靖の小説「風濤」を読めばいい。高麗は、蒙古の支配により日本攻略のため大軍団を編成させられる羽目になった。実は、元寇で来襲したのは、蒙古の命令で編成された高麗軍を主力とする軍隊だったのだ。

大軍に編成を強いられた高麗の民衆は、その負担に塗炭にお苦しみを味わった。その腹いせかわからないが、対馬に来襲した高麗軍は、「男は殺害、女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るされた。さらに、200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上させられる」という蛮行を働き、対馬住民を根絶やしにした。

もし、石井に言うように、蒙古に服属していたらどうなったか。侵略地の軍隊を持って更なる侵略を行なうというのが蒙古の世界共通戦略だ。これは、モンゴル人の人口が極小という与件から発する。蒙古軍は、幕府に南宋ないしベトナム侵攻を命じたに違いない。

こんな情報音痴が、当時の北条政権の世界情報欠如を嗤うのだから世も末だろう。中央大学で歴史を学ぶ学生はなんと不幸なことか。それ以上に、許せないのが、こんな歴史学者とも呼べない人物を、番組に登場させたNHKだ。

時あたかも、チャイナの尖閣侵略が常態化しているときだ。いつものNHKの狡猾な反日姿勢が現れたものだろう。受信料で、チャイナの宣伝工作に加担するNHKは解体するしかないだろう

日本的経営の終焉(日本の労働制度再論)

2012-10-30 18:46:32 | 政治・行政


日本的経営の特徴として、「終身雇用」、「年功序列」、「企業内組合」があげられる。

提唱者は、ジェームズ・アベグレン。1958年ダイヤモンド社から出版した「日本の経営」においては発表した。アベグレンは、ガタルカナル島、硫黄島等で日本軍と戦い、戦後は、米戦略爆撃調査団の一員として来日した。1966年からは、ボストン・コンサルティング・グループの日本支社長として活躍し、1982年から日本永住、1997年に日本国籍取得。上智大教授やアジア・アドバイザリー・サービス会長等を歴任。晩年は、米国籍を棄て、日本人の妻と東京都内で暮らしたという。2007年逝去。ドナルド・キーンの経営学者版のような人生を送った人だ。

日本的経営について、日本経済の絶頂期には、その繁栄の根拠として大いにもてはやされた。その論理とは、「終身雇用と年功制は、長期間の雇用を保障し、外部からの中途採用を制限するとともに、年齢、勤続年数、実績に基づいた昇進システムを通じて、内部の従業員に企業固有のノウハウや技術を蓄積するインセンティブを与え、組織内での協力を高める効果を持つ」というものであった。

しかし、日本経済の長期衰退により、その論理がゆらいでいる。それにも拘わらず、日本の経営者には、これを問題とする意識は、全くないようだ。また、官公労と大企業労組により牛耳られた労働界にも、戦後の労使交渉を経て獲得した成果として、見直す気はさらさらないようだ。労働界の支援を受ける民主党は、当然のことだが、この慣行を強化する派遣規制の法律を整備に注力している。

年功賃金制度の何が問題か。なによりも、経済原則に反しているということだ。経済は、財の取引関係を基礎として成り立っているが、財の価格は、市場では一つに修練する。一物一価の法則だ。これを労働に置き換えれば、同一労働、同一賃金となる。年功賃金とは、労働者の年齢によって異なる価格をつけるということだ。

自由な市場では、同じ労働に対して異なる価格は成立しない。需要曲線と供給曲線の交点に収斂する。これは、経済学の基本中の基本だ。一物多価あるいは差別価格が成立する条件は、市場の分断がある場合だ。日本では、企業内と企業外とで、労働市場の分断がある。

市場の分断は、如何にして可能だったか。これは、戦後経済が慢性的に需要不足・労働力不足だった要因が大きい。作れば売れる経済では、生産要素の長期安定的確保が最大の経営方針となる。資本確保では、メーンバンク制が発達し、労働では、労働者囲い込みの一環として年功賃金・終身雇用が発達した。この制度は、銀行や労働者にとっても都合がよかった。銀行にとっては、企業との長期的関係により情報の非対称性が薄れ、労働者にとっては、職の安定により生活設計が容易となった。

この年功制にいま崩壊の時が近づいている。それは、とりもなおさず労働関係に経済原則が働き始めたからだ。つまり、戦後の異常状態の解消である。需要不足経済からデフレ経済に転換し、企業は、その対応に追われることとなった。労働も、市場価格で調達しなければ競争に敗退することとなる。チャイナのWTO参加により安価な労働が豊富に得られることになったこともこの傾向に輪をかけた。海外直接投資により、国内労働は、海外労働と価格競争に晒されることとなった。

その結果が、労働力供給超過と非正規雇用の増大である。現在では、若者の新規雇用の50%近くが非正規雇用という。認識しなければならないのは、これは、経済原則に即した変化であり、異常な事態ではないということだ。非正規労働の賃金は、経済原理に基づいた市場価格に近い。企業は、その生存を図るためには、市場価格で、労働を調達せざるを得ない。

問題は、我が国の制度が、非正規労働の増大という事態に対応できてないことだ。制度は、年功賃金正規雇用中心に組み立てられている。非正規労働は、あっってはならないという前提でできている。企業が、非正規労働に支払う費用は市場価格だが、規非正規労働者の手取りは、押し下げられている可能性がある。派遣会社によるピンハネ分は明らかだ。また、契約労働者の雇用期間規制により、契約労働者は5年で正規雇用に転換しなければならない。実際は、企業は、優秀な契約社員でも5年で解雇する。熟練インセンティヴの低下は労働者と企業双方に損失をもたらしている。また、これを大きく見れば、非正規労働者の犠牲の上にたって正規労働者の市場価値以上の賃金が維持されているとも見ることも出来る。

技術流出の問題は、コインの裏側の問題だ。労働市場が分断されているが故に、過去においては、高技能労働者を市場価格以下の賃金で雇うことができた。しかし、グローバル化により、ここでは、企業の側が競争に晒されることになった。高度技術者は、市場価格を提供する企業に移動する。企業は、技術者を育てるために、育成投資を過去おこなった。その恩に感じて留まれと説得するが、経済原理には抗いようがない。かくて、人材移動とともに技術移転が生じてしまう。

この移転に輪をかけているのが、定年制だ。年功賃金制に下では、高齢者は、自己の労働の価値以上の賃金を得る。高年齢高賃金労働を修正する制度が、定年制だ。いわば、一物一価原理に反する制度の限界を示す制度といえる。しかし、人生80年時代を迎えたいま、定年制は、優秀な熟練技術者を海外企業に流出させる制度と化している。もし、市場価値に応じた賃金制度であれば、定年退職を強いる必要はない。熟練労働者の育成には、巨額の投資がかかっている筈だ。それをむざむざと海外の競争にプレゼントしていることになる。これでは、競争に勝てるわけがない。そして、倒産、社員再就職を通じて最新技術の流出という更なる悪循環が続く。
定年については、解雇規制の観点もある。八代尚弘氏の雄弁な文章があるので、引用させてもらおう。
「大きな問題は定年退職である。高齢化で労働力が減り、熟練労働者が減っている中で、貴重な高齢者を強制的に解雇するという定年退職は、極めて野蛮な制度である。これはアメリカでは昔から年齢による差別として禁止されており、ヨーロッパもその方向に向かっているが、日本だけ進まず、せいぜい定年退職後の再雇用を政府が考えているだけである。ただこの定年退職後の再雇用は一年契約の非正社員であるため責任ある仕事はできず、貴重な熟練労働力を無駄にしている。定年退職制度を変えられない理由は、企業にとってこれが唯一の雇用調整の機会だからである。つまり、一旦雇用を保障すると能力不足の人も定年まで雇い続けなくてはいけないため、定年退職はまさにそのような労働者をシャッフルする唯一の機会なので企業としても変えられない。よって定年退職してもらい、有能な人だけを再雇用するという考え方になるのである。日本の定年退職は、年功賃金という年齢による逆差別とセットになっているのでなかなか変えられないのである。」
http://www.jacd.jp/news/column/100513_post-49.html
日本型経営の特徴の一つが終身雇用制であった。しかし、この言葉はミスリーディングだ。正確には、「定年まで雇用」と称すべきものだ。むしろ、欧米企業は、終身雇用だ。その職能が必要な限り、本人の労働能力が衰えるまで雇用する。定年制は、年齢差別賃金制の極端な場合と考えることが出来る。日本的経営の利点は、長期的視点にたった技術の蓄積と忠誠心であったという。その利点を一気に放棄する定年制による企業損失は、極めて大きい。その損失を認識できない年齢差別賃金制度の弊害は大問題だ。

年齢差別賃金制は、経済原理に反するだけではなく、前に述べたように、人権原理にも反する。日本で女性の正規雇用が進まないのは、無限定競争に曝される労働環境にある。サービス残業が日常の世界では、女性の活躍の余地は限定される。また、ことは女性だけの問題ではなく、男性労働にも加重な負担を負わせる。ワークライフ・バランスも現状では、掛け声だけに終わるだろう。また、モーレツ世代の号令にゆとり世代は対処困難だろう。うつ病患者の増大も、この制度のひずみかも知れない。また。制度の意図した効果の忠誠心も、最近の調査では、日本の労働者の忠誠心は、海外企業より低い結果がでている。これも、日本企業のトータルな職場環境が劣化しているせいと考えられるのかもしれない。

さらに、職務能力ベース賃金制度は、企業が社会変化に対応するのに有用だ。日本を外から見ると、一部世界レベルに伍している分野がある反面、世界水準から大きく劣っている分野が並存する。例えば、劣っている分野は、そういう分野が存在すること自体認知されてない。例えば、企業法務やPR分野、金融工学など。日本企業は、社内で、一から人材育成をしようとする。あるいは、見よう見まねで社内のゼネラリストで対処しようとする。しかし、そんな体制では、グローバル競争に勝利できないのは当然だ。日本の大学では養成できない専門分野も多い。

最近はやりのグローバル人材の育成も同様だ。育成するのに時間がかかり、育成したと思ったら、引き抜かれるのがおちだろう。グローバル人材とは、文字通りどこでも活躍できるからだ。グローバル人材は、養成しなくても世界には腐るほどいる。問題は、そういう人材を採用も活用も出来ない人事制度にあるだろう。

例えば、豪州。この国は、一部を除き突出した優秀性はない。しかし、オールラウンドに世界の最高水準に近い能力を保持している。なぜなら、新たな分野が生じる度に、その分野を専門家を他国から連れてくるからだ。職能ベースの賃金体系のため、中途採用がスムーズだ。

日本の企業経営は、素人による経営だ。京セラやトヨタのように例外的に優れた経営手法を編み出す例はあるが、それらの企業でも、総務部を見れば、素人集団だ。これを世界水準に引き上げるには、中途採用によるのが手っ取り早いだろう。

年齢差別賃金制度の弊害はあきらかだが、労使双方とも問題意識は低い。かつての成功体験が邪魔をしており、日本社会全体が、正規雇用のマインド・コントロールに支配されている。また、一斉入社式、同期会、退職金控除制度など補完システムも強固だ。しかし、経済原理に即した改革は不可避だ。

問題は、どうやって改革に向かうかだ。出発点は、公務員制度の改革だろう。

日本の近代労働制度は、明治の公務員制度がスタートだった。それを民間大企業がまねた。戦前は、年功賃金は官吏のみに適用され、現業職員は雇員とされ俸給制度は異なった。戦後、占領軍が導入した人事制度は、アメリカの制度で、職階制と呼ばれるものだった。これは、職務に応じた俸給制度で、上位職種に異動するためには、昇任試験を受ける必要があった。しかし、この制度は日本になじまないとして、占領軍が導入した様々な行政制度とともに、なし崩し的に制度が変容してしまった。おりしも、暴力・騒乱行為を伴う戦後民主主義労働運動が燒結を極め、官吏に適用されていた年功制度が、一般公務員にも拡張された。かくて、経済民主化の掛け声とともに官吏の年功人事制度が、一般職員にも適用されるようになった。

この戦後の公務員制度改革の結末が、数年前の高齢ゴミ収集公務員の年収問題だ。正確な数字は覚えていないが、ヒラの職員の年収が約800万円程度だったと記憶する。これは民間では課長級の俸給だ。さすがに、これはやり過ぎとして社会問題となった。ゴミ収集は、その後依託業務化が進み、人々の記憶から消えた。しかし、自治労は、職員の俸給は適正で、民間企業の俸給レベルが低いのが問題だという。現に、自治体職員の俸給は、上がることはあっても、下がことはない。ワタリなどでヤミ昇給するケースも野放しだ。これには、自治体首長の選挙が、職員丸抱えで行なわれ、首長が組合に頭が上がらないとい構造的問題もある。(この点でも、大阪市の橋下市長は偉い。)

日本で最大の雇用者として、国の賃金制度は民間の賃金制度に大きな影響を与える。しかも、意識的な制度改革が可能な領域だ。おりしも、公務員制度改革は、政治の主要論点となっている。まず、職階製を復活させ、職能に応じた賃金制度とし、年功部分は廃止し、職務の習熟度に応じた昇給制度に変更すべきだ。公務員の一括採用をやめ、専門職・管理職は、原則公募制をとるべきだ。それにより、官庁の無意味な縄張り争いも天下りも自然に是正されていくことだろう。

人事院は、職能別賃金を調査し、職務ごとに勧告を出すようにすればいい。人事院の報告は、単に、公務員の俸給の適正化に役立つだけではなく、民間賃金へも波及していくだろう。職種ごとの相場観が生まれる。そして、それは、学生の学校選択に反映していくに違いない。

ところで、つい先日、維新の会が、キャリア公務員の40歳定年制導入を突然打ち出した。もともと国家戦略会議が労働制度全般の改革の中で今夏提案したものだ。企業の年功賃金制度による高齢者賃金負担の軽減と労働力の新陳代謝をねらったものと説明される。しかし、これは問題の本質をごまかし更なる混迷を労働制度に持ち込むものだ。不合理の本質は、年齢差別賃金制度と不当な解雇規制にあり、その問題に真正面から取り組むべきだろう。

労働界は、これまでの提案に反対だろう。人間を物と同じに扱うのかという反論だ。人間は物ではない。人間にふさわしい処遇を受ける権利がある。だからこそ、各種の規制や福祉政策がある。ただし、経済システムの根本的作動原理に逆らうことは不可能だ。現状の仕組みでは、我が国の産業は衰退し、結果として生活水準が低下するだろう。法律で、それを防ぐことはできない。法律は、経済システムを機能不全にするのではなく、経済システムをうまく働かせ、結果としてよりよい生活を国民に享受させることを目的とすべきだ。労働制度を改革しなければ、日本経済の復活はないことを銘記すべきだろう。

PS:その後、良い記事を発見しました。見てね。「橘玲の日々刻々]
素晴らしき、強制労働社会」

天皇制と皇位承継―継体方式か道鏡方式か

2012-10-15 18:23:10 | 政治・行政

政府が、女性宮家創設に関する有識者「ヒアリング」の論点整理を公表した。なお、ヒアリングというのは英語の誤用だ。この春から、男子がなく将来臣籍降下予定の女性皇族しかいない現状に鑑み、将来の宮家公務の多忙を軽減するために検討を進めてきたものという。

しかし、この理由は怪しい。現宮家は、確かに福祉・医療・学術関連の団体の名誉総裁などを務められている。しかし、その任務は、女性宮家当主が果たされており、喫緊の課題とはとても言えない。

この問題は、今は悠仁親王のご誕生により下火になったが、皇位承継の問題と密接に絡んでいる。2004年小泉内閣により設置された「皇室典範に関する有識者会議」の結論では、女系天皇・女性宮家容認の考えが示された。今回の会合も、皇位継承問題と切り離すと前提を置いたというものの、女系天皇制度化への布石ととられても当然だろう。なぜなら、宮家とは、皇統を承継維持するための制度だからだ。

男系子孫断絶時の皇位承継に対する方式は、2方式しかない。継体方式と道鏡方式だ。継体方式とは、残虐で名を馳せた武列天皇の系統が断絶したとき、重臣達が、応神天皇の5世の男系子孫を越前から迎え、継体天皇として即位させた方式だ。

もう一つは、女系天皇を認める方式だ。2004年の有識者会議前後の世論調査によれば、女性天皇容認論支持が、75%程度に上った。愛子内親王の天皇即位に対する支持は確かであるが、果たして有識者会議が支持する女系天皇制への支持であるかは疑問だ。国民は、女性天皇と女系天皇の区別をしていただろうか。

女系天皇に対する意見を聞こうと思えば、道鏡方式を支持するかと、聞くのがわかりやすい。道鏡は、称徳女帝の寵愛を受けた。女帝は、道鏡を天皇にしようとしたが、宇佐神宮の託宣により阻まれた。成功して道鏡の子孫が皇位に付く場合、これが女系天皇だ。果たして、道鏡方式を支持する世論は、どれくらいあるか。

より大きく考えてみると、皇位承継問題は、天皇制の派生課題にすぎない。果たして、日本に天皇制は必要か、天皇は、どういう機能を果たしているのか、この問に対する答えが、継承問題にも影響する。

天皇の源は、古代日本の支配者に遡る。当時は、祭政一致の時代。記紀その他の資料によれば、天皇・皇后は、神話に淵源を持つ特別な血統に属するシャーマンとして託宣により国を統治したと見られる。天皇・皇后が、祈る存在だったことは、記紀の記述に豊富に見られる。また、原始日本の信仰が別途発展した琉球王国の統治体制との類似性からも明らかだ。ちなみに、現在の我々の初詣とおみくじもその時代以来の民族の伝統だ。

託宣は、日本独特のものではない。ギリシャから殷王朝まで、当時普遍的に行なわれていた祭政形態だ。また、世界の古代支配者は、多く神話中の始祖に支配の正当性を持つ。その意味で、古代天皇制は、当時の世界標準であって特異なものではない。

天皇制が世界でも特異なのは、その古代支配制度が、現在まで連なっていることだ。これは、世界のどの民族もなしえなかった世界遺産を遥かに超越した奇跡だ。つまり、天皇には、日本の神話時代以来の日本の歴史全体が凝縮している。政治、文化、民俗等、あらゆる日本的なもの、且つ、その最善のものが天皇に具現化しているのだ。たかだか400年の歴史しか知らないマッカーサーが天皇に感銘を受けたのは、あたりまえだろう。

(なお、天皇の出自に関して、戦後まもなく騎馬民族征服説なるものが唱えられた。これによれば、応神天皇は、弁韓の地から渡った騎馬民族として日本に新たな王朝を開いたとされた。いまでも、天皇は朝鮮人という俗論の根拠となっている。しかし、この説は、日本の朝鮮統治のイデオロギーとしての日鮮同祖論を背景として生み出されたあだ花的歴史仮説で、具体的根拠は全くない。戦後の狂ったSF古代史観の総仕上げとも言うべきものだ。)

なぜ、日本に於いてのみ古代支配体制が現在まで、継続したか。

まず、第一の理由は、日本が大陸と適度な関係を維持しつつ孤立した閉鎖社会であったことだ。大陸の動乱は、日本に大きな影響を与えたが、決定的ではなく、自律的・連続的な歴史発展が可能だった。朝鮮と異なり、海という自然の要害に守られ、伝統を維持しながら、主体的に大陸の文明発展成果を導入できた。

第2に、天皇制の宗教的背景がある。日常の神道信仰の連続として天皇が存在した。お天道様という言葉に象徴される太陽神。豊穣神、祖霊と天皇との融合があった。

天皇の即位儀礼は大嘗祭と呼ばれる。かつて新嘗祭という祝日があった。今では勤労感謝の日というおかしな祝日になってしまったが、これは、新米の収穫を神に感謝する謙虚なものであった。今では、人間に感謝する傲慢なものに変質してしまった。天皇即位にあたって特別に行なうのが、大嘗祭だ。かつて、Economist誌は、天皇をRice Godと紹介したことがある。大嘗祭は、新天皇が穀霊と合体し、国土に豊穣をもたらす能力を身に付ける儀式だ。つまり、天皇は、神だ。人間ではあるが神でもある。

太古からの歴史時代全体を通じて、日本は神国との認識があり、天皇はその中心とされた。文学、神楽、絵画、その他の大衆芸能を通じて、その認識は庶民の常識であった。明治の国家神道下で形成されたものではない。その常識が崩れたのは、歴史を曲解する戦後教育によってだ。足利義満、織田信長が天皇になれなかったのも、神としての天皇概念を変革できなかったからだろう。

第3に、日本が母権社会であったことも理由の一つと考える。例えば摂関政治。何故、摂関家が権力を振るったか。天皇の母系親族だからだ。しかし、世界的にみれば、母系親族が権力を保持する例はあまり聞かない。父系社会では、子供は父に属し、母系親族は影響力を持たない。日本では、古来、母権が強力であった。結婚は通い婚であり、子供は母系の実家で育てられた。成長して父の家督を継ぐ。中世以降、チャイナ方式の父系優先の思想が発展するに従い、嫁入りの習慣が出来てきたが、本来は、通いの婿入り後独立の結婚形態だ。いまでも、出産は里帰りで行なう場合が多い。また、国際結婚が破綻した場合、日本女性は、子供を日本に連れ去るとして、国際条約に反すると非難される。これも、子供は母親のものという母権社会の名残だろう。天皇制の父系承継原理と母権原理の絶妙なバランスが、天皇制の維持に役立ったのではないか。藤原氏は、天皇にならなくても政治実権を獲得できた。クーデターの必要性はなかったのだ。(天皇の権威が確立した中世以降は、征夷代将軍位授与で代行した。)

それでは、逆に、天皇制は、我々の役に立ってきたのか。答えは、イエスだ。誰にでもわかる事例は、明治維新だろう。天皇がいなかったら、尊王攘夷運動はなく、国民がまとまって植民地化の危機に立ち向かうことができただろうか。天皇制は、民族の危機において民族を救った。

天皇は、日本の伝統、文化、民俗の生きた保存者でもある。しかも、その、最良のものが保持さえている。伝統は、死んだものではない。各時代に生きる人々は、伝統を学び、その再生を図ることで文化を発展させてきた。世界の奇跡である天皇は、その発展・再生産の源泉として比類なきものだ。例えば、源氏物語。王朝文化の粋として、現代まで繰り返し美術・工芸のモチーフとなってきた。

天皇は、我々の誇るべきアイデンティティーでもある。天皇は、日本・日本人の象徴だ。憲法の言葉だが、外国人の言葉だけあって、日本と日本人を説明するにはうってつけだ。天皇を語れば、日本人と文化を説明することになる。

特筆すべきは、東アジアでにおける日本の歴史の特殊性だ。東アジアでは、チャイナ大陸の支配国家に対し、周辺国が臣下の礼をとる冊封体制が支配的だ。例えば、朝鮮は、チャイナの直轄植民地として出発し、その後、冊封国として自治権を獲得したが、法的に完全独立国家となったのは、日清戦争後の大韓帝国成立が初めてだ。それ以前の支配者は、チャイナから任命される「王」だった。これに対し、日本の聖徳太子は、チャイナ皇帝と対等にお外交関係を結んだ。天皇は、英語では皇帝エンペラーだ。つまり、天皇は、日本が歴史的にチャイナと同格の独立国家であることの証だ。朝鮮のように、チャイナの年号利用を強制されることもなかった。朝鮮では、今でも天皇を「倭王」と呼ぶ。これは、朝鮮が歴史的に達成できなかった独立を「野蛮な」日本が達成したことへのインフェリオリティー・コンプレックスのなせるわざだろう。

我々は、事あるごとに神に幸せを祈ってきた。日本各地に無数にある神社はその証だ。神社の国家レベルにお組織化と国家神道化は明治以降の産物だ。しかし、それ以前の自然な神道でも、天皇が中心的な役割を果たしていたことは、応神天皇を祭った八幡宮の多さやお陰参りの盛行をみればあきらかだ。祈りは、我々に安らぎを与える。民族・国家には盛衰がある。不運な時、民俗の心の安定は乱される。その、不安定さを和らげるものが、信仰であり不変の山河だ。天皇は、祈る存在として、我々の信仰の中心にある。

天皇制については廃止論もある。2009年の世論調査では、8%程度が反対だという。もっとも、これは日本人だけなのか、在日朝鮮・韓国人を含んだ数字なのかは不明だ。佐賀県では、天皇の植樹祭参加に関し、毎日新聞の在日朝鮮人記者が、佐賀県知事に対し「関連予算は無駄使い」と常軌を逸した執拗さで記者会見で食い下がった。YOUTUBEに画像がある。

天皇制廃止論は、明治時代、共産主義革命運動とともに日本に入ってきた。当時、ロシアでは、ロマノフ王朝に対する革命が成功し、日本に対してもコミンテルンの世界革命運動浸透工作が進展しつつあった。これに呼応したのが、幸徳秋水らのグループだ。一部は、日本でも革命を起こすため天皇暗殺を企てた。世に言う大逆事件である。共産主義者の天皇制廃止の主張は、プロレタリアート独裁の主張から当然だ。ただし、共産主義は、ソビエトの崩壊でその理論は破綻した。

戦後、戦勝国を中心に天皇戦犯論が支配的であった。しかし、アメリカは、天皇の地位は、日本国民の意思により決定されるべきとの公式見解であった。当時の国民の意見は、天皇制護持が圧倒的であり、天皇は東京裁判にかけられることなく、天皇制の維持が占領軍の方針となった。

しかし、戦後の混乱期に勢力を伸ばした共産党、その共産党の主流を占めた在日朝鮮人により、天皇制廃止論は強力に主張された。(現在の共産党は日本人が主体であるが、戦後まもなくは、在日朝鮮人が主流を占めていた。)在日朝鮮人にとっては、天皇は、朝鮮民族の独立を奪った不倶戴天の敵と見えたのであろう。この背景には、自国が決して達成できなかった歴史的独立を享受した「野蛮な」日本の象徴である天皇に対するインフェリオリティー・コンプレックスがあるだろう。

第2の天皇廃止論の根拠は、この戦争・侵略の首謀者あるいは旗印が天皇というものだ。これは現在でも、日教組を中心に根強く主張されている。日の丸、君が代反対運動だ。現に、大阪では、橋下市長の国旗掲揚国家斉唱条例に対し、日教組は現在でも執拗に反対活動を行なっている。

しかし、この主張は、昭和のたった10年間の戦争時代の経験から、日本の神話時代に遡る天皇制全体を非難するもので、倒錯と言ってもいいだろう。戦争責任は、その自体を議論すればいい。仮に、天皇に戦争責任があるとしても、主導的責任ではないことは明確だ。もっとも、現在の日本の悲劇は、戦争責任の追及を自らの責任で行なわず、東京裁判を鵜呑みにしてきたことに原因がある。いまからでも、東京裁判を再検討し、我々の何が問題で、誰に、何時、非があったのか、総括することが必要だ。東京裁判に悪乗りした戦後民主主義者には、その資格はない。

その他の反対論で有力なのが、天皇制は、憲法が定める法の下の平等に反するというものだ。また、類似の主張として、天皇に纏わる行事が憲法が禁じた政教分離の原則に反するというものもある。これらの憲法の規定を理由にした反天皇論は、お粗末だ。憲法第1条で天皇を規定しているのに、その他の条項で、天皇は違憲だというのだ。単なるためにする議論で、屁理屈にもなっていない。

さて、以上の説明の上にたて、具体的な皇位承継をどう考えるか。

現時点で継体方式をとる場合の難点は、5世という条件に当てはまる傍系男系男子がいないということだ。明治天皇の血をひく男系男子が悠仁親王のみで、悠仁親王は、明治天皇の6世の子孫だ。継体は、応神の5世の孫だった。仮に、悠仁親王が欠けた場合には、継体方式は不可能ということだ。

そこで、主張されているのが、戦後臣籍降下した旧宮家の皇族復帰だ。ただ、この主張の弱点は、現存旧宮家は、現在の皇室とは室町時代に分岐したという血統上の遠さだ。ただし、明治天皇の内親王は、これらの旧宮家に嫁いだ例があり、その場合は、現天皇家との血統上のつながりは濃い。

道鏡方式の場合、和気清麻呂事件が決定的な障害だ。小林よしのり氏は、女系論者だが、その主張のポイントは、何よりも現天皇が、女系天皇を希望しているのではないか、もしそうならその意思を尊重するのが大義だ、というにある。称徳女帝は、皇位を道鏡に継がせることを自らの意思で望んだ。しかし、この意思は、伝統に反するとして否定された。女系論者は、この歴史的事件に対する評価を明らかにする必要があるだろう。

小泉元総理は、道鏡方式を支持するにあたり、始祖のアマテラスが女性なのを根拠に挙げた。しかし、これは、浅薄な理解だ。皇室の始祖は、アマテラスとスサノオの誓約により誕生した。つまり、父は、スサノオであり、この兄弟の父は、イザナギなので男系原理は、貫徹されている。

つまり、この問題は、いずれの方式をとろうとも、伝統の枠内に収まらないということだ。ただ、相対的には、旧皇族復帰に分がると考えられる。

さて結論だ。筆者は、皇室典範9条を改正し、現宮家が旧宮家の男系男子を養子とすることを可能とし、現存宮家を男系家系として存続させることが最も国民感情に合うと思う。場合により、現天皇家との血縁関係のある旧皇族家系に限定することも一案だ。また、愛子内親王や秋篠宮家の内親王も、同じ条件で養子をとった場合には、現宮家あるいは戦後断絶した宮家を承継することを可能とすべきだろう。

皇位継承は、依然として危機的状態にある。悠仁親王の欠けた場合に備え早急に準備を行なわなければならない。これまでの政府の先入観に囚われた議論ではなく、真に国民的議論により結論を出すべきだ。

おまけ:天皇の地位の象徴として3種の神器がある。ある政府高官が言った。3種の神器は安徳天皇とともに瀬戸内海に沈んだ。いまのは偽物ではないかと。3種の神器は確かに皇居の賢所にある。しかし、本物は、 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のみで、その他はコピーである。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、本物は熱田神宮にあり、水没後再度コピーが造られた。八咫鏡(やたのかがみ)は、本物は伊勢神宮にある。八尺瓊勾玉は、安徳天皇入水の折、水に浮かんでいたものが回収されている。従がって、現神器は、すべて本物だ。(NHKの歴史ヒストリアという番組では、3種の神器の内、剣は、安徳天皇とともに永遠に失われたと解説した。神器は、言うまでもなく天皇の正当性を示すものだ。その一つが失われたとは、聞き捨てならない言説だ。現天皇には正当性がないと主張したいのだろう。こんな歪曲を行う行為は、放送法違反だ。国民は、すべからくNHKの受信料の支払いを拒否すべきだろう。)


日本のPR

2012-09-24 18:56:21 | 政治・行政

尖閣をめぐる報道が盛んだ。日本では、中年の脂ぎった叔父さんが、意味不明の言葉を羅列している。これに対し、チャイナでは、壮年の外務省報道官が、チャイナの新たな行動を紹介するとともに、チャイナの基本的立場を明確に繰り返し歯切れよく報道発表している。世界の人は、当然尖閣の何たるかをご存知ないので、今回の騒動は、日本の一方的行動に対するチャイナの反撃と解する向きが多いという。日本のメディアが伝えるように、世界世論は、必ずしも日本の味方ではない。

我々日本人が不思議と思わないもので、世界からみると不思議なものが多々あるが、この報道官の活用もその一つだ。毎日、チャイナと日本の政府の発表振りが画像に出るが、我々には、その対比をしようとする意識すらない。実は、世界標準はチャイナで、日本の対応は、世界の非常識だ。

さらに、この非常意識は、政府だけではなく、民間企業にも共通するものだ。アメリカの会社組織を見ると日本と異なる二つの特徴があることに気づく。一つは、法務部長(Genaral Coucel)、もう一つはPR部長だ。この二つの組織が、膨大なラインの業務組織の上に社長に直属でぶら下がっている。CEOは、常にこの二人と社長レベルのラインの経営課題を協議する。トップダウンの要素が強いアメリカ組織では、CEOは自らの判断を法務とPRの観点から精査するということだ。

日本の組織では、両者とも総務のごった混ぜの業務の一部となっている。社長は、ラインのいうことをそのまま承認することを期待されている。これは、日本の社長の多くが、ボトムアップ原理の上に乗っかっているだけで、ラインの長におんぶに抱っこの現実を反映したものだ。社長は組織の中だけをみている。内部調和さえ維持できれば組織が成長していた時代の名残だ。

広報室は、総務の一員で、報道関係者とのロジ対応がメインの仕事だ。また、特に期待されているのが、歩道関係者とねんごろになり、報道内容を事前に入手し、都合の悪い記事は、差し止めるよう働きかけることだ。総会屋対策と同じだ。

日本社会に欠けるもの、それは、PR概念自体だ。PRとは、パブリック・リレーションのアクロニムだ。日本では、正式には、広報と訳すが、一般には、PRというと広告と思われている。しかし、英語では、その言葉どおりの意味、即ち、公共関係だ。世間一般との関係を如何にマネジメントするか、それが、PRということだ。メディアが高度に発達した現代では、世間との関係は、メディアを通じて規定されることが多くなっている。そこから、PR活動全般のなかで、メディアとの関係を如何にマネジメントすりかが、PRの中心的課題となってきた。しかし、本来の意味からすれば、それは副次的な役割だ。

現代では、いかなる組織体も世間の動向とは無関係に活動を行なうことはできない。民主主義と株式会社制度の普及が、その傾向を後押しする。世間との関係全体、これが組織のトップの主要関心事になるのは当たり前だ。アメリカの大学では、PRの講座があり、PRの専門家が組織的に育成されている。日本では、PRの代わりに情報発信という言葉が使われている。これは、情報発信さえすれば世間は判ってくれる、という極めて原始的な思考だ。日本では、世界であたりまえのPR概念自体が存在しない。

アメリカの大統領報道官は、大統領と四六時中接触しており、大統領のすべての考えを理解している分身といってもいい存在だ。そうでなくては、記者会見での容赦にない質問に耐えられないであろう。また、報道官は、政策そのものに関しても、PRの観点から影響を及ぼす。現代では、政策は、公衆に受容されることが必須の要請だ。故に、政策自体をPRの観点から形成する必要がある。魅力のない商品をいくら宣伝しても、時間と労力の無駄だ。いかに、魅力的な商品、施策、政策を展開するか、むしろ、PRの真骨頂は、そのプロセスで発揮される。

このPR概念の欠如が、尖閣をめぐる報道であらわになっているということだ。世界を見渡して見て、広報の専門化でない官房長官が報道対応する体制そのものが異常だ。そして、この非常識を誰も非常識とも気づかないことこそが、日本の非常識だ。内閣の広報官、外務省の報道官にPRの専門家を起用すると共に、その地位を首相、大臣直属の事務次官相当とし、PRの観点から政策調整できる体制の整備が必要だ。

尖閣をめぐる報道に限らず、あらゆる国際紛争において、日本は、PR合戦い負けている。更に都合の悪いことに、それが広報予算ではなく、戦略の不在にあることすら気づいていない。しばしば、日本は国際的情報発信力が弱いと指摘される。そして広報宣伝費の予算が要求される。しかし、広報概念も未熟なまま予算を増やしても、無駄使いに終わるだけだろう。

世界標準のPR組織を形成すること、それは、また、政府部内のセクショナリズムを克服することにも資するだろう。明確な世間に対するメッセージがでれば、各部局で、これに反する行動はとりにくくなる。現状では、首相の方針にも拘わらず、末端では反対の事項を推進していることがまま見られる。

また、広報体制の整備と併せて、メディア対応の慣行を改めることが必要だろう。広く指摘されているように、日本の記者クラブの閉鎖性が、記者の特権意識と政府の緊張感のない報道対応や政府高官の失言の元凶だ。アメリカでは、記者は、一般人に知りうること以外のことを知ることはできないという基本原則が確立している。記者会見は一般にオープンが原則だ。記者をスパイ代わりに使ったり、揉み消しの連絡役に使う癒着体制と決別しなければならない。また、「ぶら下がり」も廃止すべきだ。いやしくも、国家の政策を、ぶら下がりの一言で議論する愚にマスコミは気づくべきだ。

なお、韓国では、国家ブランドを向上させるために2009年、大統領直属の国家ブランド委員会を設置した。この委員会は、ねつ造した朝鮮史を宣伝するとともに、ディスカウント・ジャパン計画に沿い、日本の国際的信用を失墜させるPR計画を戦略的に遂行している。また、韓流ブームを流行らせるため、組織的に日本のメディア工作を積極的に行っている。日本政府は、韓国に学ぶべきだろう。そして、フジTVやNHKは、韓国のブランド委員会に思うまま操作されていることを恥じるべきだろう。