うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本的経営の終焉(日本の労働制度再論)

2012-10-30 18:46:32 | 政治・行政


日本的経営の特徴として、「終身雇用」、「年功序列」、「企業内組合」があげられる。

提唱者は、ジェームズ・アベグレン。1958年ダイヤモンド社から出版した「日本の経営」においては発表した。アベグレンは、ガタルカナル島、硫黄島等で日本軍と戦い、戦後は、米戦略爆撃調査団の一員として来日した。1966年からは、ボストン・コンサルティング・グループの日本支社長として活躍し、1982年から日本永住、1997年に日本国籍取得。上智大教授やアジア・アドバイザリー・サービス会長等を歴任。晩年は、米国籍を棄て、日本人の妻と東京都内で暮らしたという。2007年逝去。ドナルド・キーンの経営学者版のような人生を送った人だ。

日本的経営について、日本経済の絶頂期には、その繁栄の根拠として大いにもてはやされた。その論理とは、「終身雇用と年功制は、長期間の雇用を保障し、外部からの中途採用を制限するとともに、年齢、勤続年数、実績に基づいた昇進システムを通じて、内部の従業員に企業固有のノウハウや技術を蓄積するインセンティブを与え、組織内での協力を高める効果を持つ」というものであった。

しかし、日本経済の長期衰退により、その論理がゆらいでいる。それにも拘わらず、日本の経営者には、これを問題とする意識は、全くないようだ。また、官公労と大企業労組により牛耳られた労働界にも、戦後の労使交渉を経て獲得した成果として、見直す気はさらさらないようだ。労働界の支援を受ける民主党は、当然のことだが、この慣行を強化する派遣規制の法律を整備に注力している。

年功賃金制度の何が問題か。なによりも、経済原則に反しているということだ。経済は、財の取引関係を基礎として成り立っているが、財の価格は、市場では一つに修練する。一物一価の法則だ。これを労働に置き換えれば、同一労働、同一賃金となる。年功賃金とは、労働者の年齢によって異なる価格をつけるということだ。

自由な市場では、同じ労働に対して異なる価格は成立しない。需要曲線と供給曲線の交点に収斂する。これは、経済学の基本中の基本だ。一物多価あるいは差別価格が成立する条件は、市場の分断がある場合だ。日本では、企業内と企業外とで、労働市場の分断がある。

市場の分断は、如何にして可能だったか。これは、戦後経済が慢性的に需要不足・労働力不足だった要因が大きい。作れば売れる経済では、生産要素の長期安定的確保が最大の経営方針となる。資本確保では、メーンバンク制が発達し、労働では、労働者囲い込みの一環として年功賃金・終身雇用が発達した。この制度は、銀行や労働者にとっても都合がよかった。銀行にとっては、企業との長期的関係により情報の非対称性が薄れ、労働者にとっては、職の安定により生活設計が容易となった。

この年功制にいま崩壊の時が近づいている。それは、とりもなおさず労働関係に経済原則が働き始めたからだ。つまり、戦後の異常状態の解消である。需要不足経済からデフレ経済に転換し、企業は、その対応に追われることとなった。労働も、市場価格で調達しなければ競争に敗退することとなる。チャイナのWTO参加により安価な労働が豊富に得られることになったこともこの傾向に輪をかけた。海外直接投資により、国内労働は、海外労働と価格競争に晒されることとなった。

その結果が、労働力供給超過と非正規雇用の増大である。現在では、若者の新規雇用の50%近くが非正規雇用という。認識しなければならないのは、これは、経済原則に即した変化であり、異常な事態ではないということだ。非正規労働の賃金は、経済原理に基づいた市場価格に近い。企業は、その生存を図るためには、市場価格で、労働を調達せざるを得ない。

問題は、我が国の制度が、非正規労働の増大という事態に対応できてないことだ。制度は、年功賃金正規雇用中心に組み立てられている。非正規労働は、あっってはならないという前提でできている。企業が、非正規労働に支払う費用は市場価格だが、規非正規労働者の手取りは、押し下げられている可能性がある。派遣会社によるピンハネ分は明らかだ。また、契約労働者の雇用期間規制により、契約労働者は5年で正規雇用に転換しなければならない。実際は、企業は、優秀な契約社員でも5年で解雇する。熟練インセンティヴの低下は労働者と企業双方に損失をもたらしている。また、これを大きく見れば、非正規労働者の犠牲の上にたって正規労働者の市場価値以上の賃金が維持されているとも見ることも出来る。

技術流出の問題は、コインの裏側の問題だ。労働市場が分断されているが故に、過去においては、高技能労働者を市場価格以下の賃金で雇うことができた。しかし、グローバル化により、ここでは、企業の側が競争に晒されることになった。高度技術者は、市場価格を提供する企業に移動する。企業は、技術者を育てるために、育成投資を過去おこなった。その恩に感じて留まれと説得するが、経済原理には抗いようがない。かくて、人材移動とともに技術移転が生じてしまう。

この移転に輪をかけているのが、定年制だ。年功賃金制に下では、高齢者は、自己の労働の価値以上の賃金を得る。高年齢高賃金労働を修正する制度が、定年制だ。いわば、一物一価原理に反する制度の限界を示す制度といえる。しかし、人生80年時代を迎えたいま、定年制は、優秀な熟練技術者を海外企業に流出させる制度と化している。もし、市場価値に応じた賃金制度であれば、定年退職を強いる必要はない。熟練労働者の育成には、巨額の投資がかかっている筈だ。それをむざむざと海外の競争にプレゼントしていることになる。これでは、競争に勝てるわけがない。そして、倒産、社員再就職を通じて最新技術の流出という更なる悪循環が続く。
定年については、解雇規制の観点もある。八代尚弘氏の雄弁な文章があるので、引用させてもらおう。
「大きな問題は定年退職である。高齢化で労働力が減り、熟練労働者が減っている中で、貴重な高齢者を強制的に解雇するという定年退職は、極めて野蛮な制度である。これはアメリカでは昔から年齢による差別として禁止されており、ヨーロッパもその方向に向かっているが、日本だけ進まず、せいぜい定年退職後の再雇用を政府が考えているだけである。ただこの定年退職後の再雇用は一年契約の非正社員であるため責任ある仕事はできず、貴重な熟練労働力を無駄にしている。定年退職制度を変えられない理由は、企業にとってこれが唯一の雇用調整の機会だからである。つまり、一旦雇用を保障すると能力不足の人も定年まで雇い続けなくてはいけないため、定年退職はまさにそのような労働者をシャッフルする唯一の機会なので企業としても変えられない。よって定年退職してもらい、有能な人だけを再雇用するという考え方になるのである。日本の定年退職は、年功賃金という年齢による逆差別とセットになっているのでなかなか変えられないのである。」
http://www.jacd.jp/news/column/100513_post-49.html
日本型経営の特徴の一つが終身雇用制であった。しかし、この言葉はミスリーディングだ。正確には、「定年まで雇用」と称すべきものだ。むしろ、欧米企業は、終身雇用だ。その職能が必要な限り、本人の労働能力が衰えるまで雇用する。定年制は、年齢差別賃金制の極端な場合と考えることが出来る。日本的経営の利点は、長期的視点にたった技術の蓄積と忠誠心であったという。その利点を一気に放棄する定年制による企業損失は、極めて大きい。その損失を認識できない年齢差別賃金制度の弊害は大問題だ。

年齢差別賃金制は、経済原理に反するだけではなく、前に述べたように、人権原理にも反する。日本で女性の正規雇用が進まないのは、無限定競争に曝される労働環境にある。サービス残業が日常の世界では、女性の活躍の余地は限定される。また、ことは女性だけの問題ではなく、男性労働にも加重な負担を負わせる。ワークライフ・バランスも現状では、掛け声だけに終わるだろう。また、モーレツ世代の号令にゆとり世代は対処困難だろう。うつ病患者の増大も、この制度のひずみかも知れない。また。制度の意図した効果の忠誠心も、最近の調査では、日本の労働者の忠誠心は、海外企業より低い結果がでている。これも、日本企業のトータルな職場環境が劣化しているせいと考えられるのかもしれない。

さらに、職務能力ベース賃金制度は、企業が社会変化に対応するのに有用だ。日本を外から見ると、一部世界レベルに伍している分野がある反面、世界水準から大きく劣っている分野が並存する。例えば、劣っている分野は、そういう分野が存在すること自体認知されてない。例えば、企業法務やPR分野、金融工学など。日本企業は、社内で、一から人材育成をしようとする。あるいは、見よう見まねで社内のゼネラリストで対処しようとする。しかし、そんな体制では、グローバル競争に勝利できないのは当然だ。日本の大学では養成できない専門分野も多い。

最近はやりのグローバル人材の育成も同様だ。育成するのに時間がかかり、育成したと思ったら、引き抜かれるのがおちだろう。グローバル人材とは、文字通りどこでも活躍できるからだ。グローバル人材は、養成しなくても世界には腐るほどいる。問題は、そういう人材を採用も活用も出来ない人事制度にあるだろう。

例えば、豪州。この国は、一部を除き突出した優秀性はない。しかし、オールラウンドに世界の最高水準に近い能力を保持している。なぜなら、新たな分野が生じる度に、その分野を専門家を他国から連れてくるからだ。職能ベースの賃金体系のため、中途採用がスムーズだ。

日本の企業経営は、素人による経営だ。京セラやトヨタのように例外的に優れた経営手法を編み出す例はあるが、それらの企業でも、総務部を見れば、素人集団だ。これを世界水準に引き上げるには、中途採用によるのが手っ取り早いだろう。

年齢差別賃金制度の弊害はあきらかだが、労使双方とも問題意識は低い。かつての成功体験が邪魔をしており、日本社会全体が、正規雇用のマインド・コントロールに支配されている。また、一斉入社式、同期会、退職金控除制度など補完システムも強固だ。しかし、経済原理に即した改革は不可避だ。

問題は、どうやって改革に向かうかだ。出発点は、公務員制度の改革だろう。

日本の近代労働制度は、明治の公務員制度がスタートだった。それを民間大企業がまねた。戦前は、年功賃金は官吏のみに適用され、現業職員は雇員とされ俸給制度は異なった。戦後、占領軍が導入した人事制度は、アメリカの制度で、職階制と呼ばれるものだった。これは、職務に応じた俸給制度で、上位職種に異動するためには、昇任試験を受ける必要があった。しかし、この制度は日本になじまないとして、占領軍が導入した様々な行政制度とともに、なし崩し的に制度が変容してしまった。おりしも、暴力・騒乱行為を伴う戦後民主主義労働運動が燒結を極め、官吏に適用されていた年功制度が、一般公務員にも拡張された。かくて、経済民主化の掛け声とともに官吏の年功人事制度が、一般職員にも適用されるようになった。

この戦後の公務員制度改革の結末が、数年前の高齢ゴミ収集公務員の年収問題だ。正確な数字は覚えていないが、ヒラの職員の年収が約800万円程度だったと記憶する。これは民間では課長級の俸給だ。さすがに、これはやり過ぎとして社会問題となった。ゴミ収集は、その後依託業務化が進み、人々の記憶から消えた。しかし、自治労は、職員の俸給は適正で、民間企業の俸給レベルが低いのが問題だという。現に、自治体職員の俸給は、上がることはあっても、下がことはない。ワタリなどでヤミ昇給するケースも野放しだ。これには、自治体首長の選挙が、職員丸抱えで行なわれ、首長が組合に頭が上がらないとい構造的問題もある。(この点でも、大阪市の橋下市長は偉い。)

日本で最大の雇用者として、国の賃金制度は民間の賃金制度に大きな影響を与える。しかも、意識的な制度改革が可能な領域だ。おりしも、公務員制度改革は、政治の主要論点となっている。まず、職階製を復活させ、職能に応じた賃金制度とし、年功部分は廃止し、職務の習熟度に応じた昇給制度に変更すべきだ。公務員の一括採用をやめ、専門職・管理職は、原則公募制をとるべきだ。それにより、官庁の無意味な縄張り争いも天下りも自然に是正されていくことだろう。

人事院は、職能別賃金を調査し、職務ごとに勧告を出すようにすればいい。人事院の報告は、単に、公務員の俸給の適正化に役立つだけではなく、民間賃金へも波及していくだろう。職種ごとの相場観が生まれる。そして、それは、学生の学校選択に反映していくに違いない。

ところで、つい先日、維新の会が、キャリア公務員の40歳定年制導入を突然打ち出した。もともと国家戦略会議が労働制度全般の改革の中で今夏提案したものだ。企業の年功賃金制度による高齢者賃金負担の軽減と労働力の新陳代謝をねらったものと説明される。しかし、これは問題の本質をごまかし更なる混迷を労働制度に持ち込むものだ。不合理の本質は、年齢差別賃金制度と不当な解雇規制にあり、その問題に真正面から取り組むべきだろう。

労働界は、これまでの提案に反対だろう。人間を物と同じに扱うのかという反論だ。人間は物ではない。人間にふさわしい処遇を受ける権利がある。だからこそ、各種の規制や福祉政策がある。ただし、経済システムの根本的作動原理に逆らうことは不可能だ。現状の仕組みでは、我が国の産業は衰退し、結果として生活水準が低下するだろう。法律で、それを防ぐことはできない。法律は、経済システムを機能不全にするのではなく、経済システムをうまく働かせ、結果としてよりよい生活を国民に享受させることを目的とすべきだ。労働制度を改革しなければ、日本経済の復活はないことを銘記すべきだろう。

PS:その後、良い記事を発見しました。見てね。「橘玲の日々刻々]
素晴らしき、強制労働社会」

天皇制と皇位承継―継体方式か道鏡方式か

2012-10-15 18:23:10 | 政治・行政

政府が、女性宮家創設に関する有識者「ヒアリング」の論点整理を公表した。なお、ヒアリングというのは英語の誤用だ。この春から、男子がなく将来臣籍降下予定の女性皇族しかいない現状に鑑み、将来の宮家公務の多忙を軽減するために検討を進めてきたものという。

しかし、この理由は怪しい。現宮家は、確かに福祉・医療・学術関連の団体の名誉総裁などを務められている。しかし、その任務は、女性宮家当主が果たされており、喫緊の課題とはとても言えない。

この問題は、今は悠仁親王のご誕生により下火になったが、皇位承継の問題と密接に絡んでいる。2004年小泉内閣により設置された「皇室典範に関する有識者会議」の結論では、女系天皇・女性宮家容認の考えが示された。今回の会合も、皇位継承問題と切り離すと前提を置いたというものの、女系天皇制度化への布石ととられても当然だろう。なぜなら、宮家とは、皇統を承継維持するための制度だからだ。

男系子孫断絶時の皇位承継に対する方式は、2方式しかない。継体方式と道鏡方式だ。継体方式とは、残虐で名を馳せた武列天皇の系統が断絶したとき、重臣達が、応神天皇の5世の男系子孫を越前から迎え、継体天皇として即位させた方式だ。

もう一つは、女系天皇を認める方式だ。2004年の有識者会議前後の世論調査によれば、女性天皇容認論支持が、75%程度に上った。愛子内親王の天皇即位に対する支持は確かであるが、果たして有識者会議が支持する女系天皇制への支持であるかは疑問だ。国民は、女性天皇と女系天皇の区別をしていただろうか。

女系天皇に対する意見を聞こうと思えば、道鏡方式を支持するかと、聞くのがわかりやすい。道鏡は、称徳女帝の寵愛を受けた。女帝は、道鏡を天皇にしようとしたが、宇佐神宮の託宣により阻まれた。成功して道鏡の子孫が皇位に付く場合、これが女系天皇だ。果たして、道鏡方式を支持する世論は、どれくらいあるか。

より大きく考えてみると、皇位承継問題は、天皇制の派生課題にすぎない。果たして、日本に天皇制は必要か、天皇は、どういう機能を果たしているのか、この問に対する答えが、継承問題にも影響する。

天皇の源は、古代日本の支配者に遡る。当時は、祭政一致の時代。記紀その他の資料によれば、天皇・皇后は、神話に淵源を持つ特別な血統に属するシャーマンとして託宣により国を統治したと見られる。天皇・皇后が、祈る存在だったことは、記紀の記述に豊富に見られる。また、原始日本の信仰が別途発展した琉球王国の統治体制との類似性からも明らかだ。ちなみに、現在の我々の初詣とおみくじもその時代以来の民族の伝統だ。

託宣は、日本独特のものではない。ギリシャから殷王朝まで、当時普遍的に行なわれていた祭政形態だ。また、世界の古代支配者は、多く神話中の始祖に支配の正当性を持つ。その意味で、古代天皇制は、当時の世界標準であって特異なものではない。

天皇制が世界でも特異なのは、その古代支配制度が、現在まで連なっていることだ。これは、世界のどの民族もなしえなかった世界遺産を遥かに超越した奇跡だ。つまり、天皇には、日本の神話時代以来の日本の歴史全体が凝縮している。政治、文化、民俗等、あらゆる日本的なもの、且つ、その最善のものが天皇に具現化しているのだ。たかだか400年の歴史しか知らないマッカーサーが天皇に感銘を受けたのは、あたりまえだろう。

(なお、天皇の出自に関して、戦後まもなく騎馬民族征服説なるものが唱えられた。これによれば、応神天皇は、弁韓の地から渡った騎馬民族として日本に新たな王朝を開いたとされた。いまでも、天皇は朝鮮人という俗論の根拠となっている。しかし、この説は、日本の朝鮮統治のイデオロギーとしての日鮮同祖論を背景として生み出されたあだ花的歴史仮説で、具体的根拠は全くない。戦後の狂ったSF古代史観の総仕上げとも言うべきものだ。)

なぜ、日本に於いてのみ古代支配体制が現在まで、継続したか。

まず、第一の理由は、日本が大陸と適度な関係を維持しつつ孤立した閉鎖社会であったことだ。大陸の動乱は、日本に大きな影響を与えたが、決定的ではなく、自律的・連続的な歴史発展が可能だった。朝鮮と異なり、海という自然の要害に守られ、伝統を維持しながら、主体的に大陸の文明発展成果を導入できた。

第2に、天皇制の宗教的背景がある。日常の神道信仰の連続として天皇が存在した。お天道様という言葉に象徴される太陽神。豊穣神、祖霊と天皇との融合があった。

天皇の即位儀礼は大嘗祭と呼ばれる。かつて新嘗祭という祝日があった。今では勤労感謝の日というおかしな祝日になってしまったが、これは、新米の収穫を神に感謝する謙虚なものであった。今では、人間に感謝する傲慢なものに変質してしまった。天皇即位にあたって特別に行なうのが、大嘗祭だ。かつて、Economist誌は、天皇をRice Godと紹介したことがある。大嘗祭は、新天皇が穀霊と合体し、国土に豊穣をもたらす能力を身に付ける儀式だ。つまり、天皇は、神だ。人間ではあるが神でもある。

太古からの歴史時代全体を通じて、日本は神国との認識があり、天皇はその中心とされた。文学、神楽、絵画、その他の大衆芸能を通じて、その認識は庶民の常識であった。明治の国家神道下で形成されたものではない。その常識が崩れたのは、歴史を曲解する戦後教育によってだ。足利義満、織田信長が天皇になれなかったのも、神としての天皇概念を変革できなかったからだろう。

第3に、日本が母権社会であったことも理由の一つと考える。例えば摂関政治。何故、摂関家が権力を振るったか。天皇の母系親族だからだ。しかし、世界的にみれば、母系親族が権力を保持する例はあまり聞かない。父系社会では、子供は父に属し、母系親族は影響力を持たない。日本では、古来、母権が強力であった。結婚は通い婚であり、子供は母系の実家で育てられた。成長して父の家督を継ぐ。中世以降、チャイナ方式の父系優先の思想が発展するに従い、嫁入りの習慣が出来てきたが、本来は、通いの婿入り後独立の結婚形態だ。いまでも、出産は里帰りで行なう場合が多い。また、国際結婚が破綻した場合、日本女性は、子供を日本に連れ去るとして、国際条約に反すると非難される。これも、子供は母親のものという母権社会の名残だろう。天皇制の父系承継原理と母権原理の絶妙なバランスが、天皇制の維持に役立ったのではないか。藤原氏は、天皇にならなくても政治実権を獲得できた。クーデターの必要性はなかったのだ。(天皇の権威が確立した中世以降は、征夷代将軍位授与で代行した。)

それでは、逆に、天皇制は、我々の役に立ってきたのか。答えは、イエスだ。誰にでもわかる事例は、明治維新だろう。天皇がいなかったら、尊王攘夷運動はなく、国民がまとまって植民地化の危機に立ち向かうことができただろうか。天皇制は、民族の危機において民族を救った。

天皇は、日本の伝統、文化、民俗の生きた保存者でもある。しかも、その、最良のものが保持さえている。伝統は、死んだものではない。各時代に生きる人々は、伝統を学び、その再生を図ることで文化を発展させてきた。世界の奇跡である天皇は、その発展・再生産の源泉として比類なきものだ。例えば、源氏物語。王朝文化の粋として、現代まで繰り返し美術・工芸のモチーフとなってきた。

天皇は、我々の誇るべきアイデンティティーでもある。天皇は、日本・日本人の象徴だ。憲法の言葉だが、外国人の言葉だけあって、日本と日本人を説明するにはうってつけだ。天皇を語れば、日本人と文化を説明することになる。

特筆すべきは、東アジアでにおける日本の歴史の特殊性だ。東アジアでは、チャイナ大陸の支配国家に対し、周辺国が臣下の礼をとる冊封体制が支配的だ。例えば、朝鮮は、チャイナの直轄植民地として出発し、その後、冊封国として自治権を獲得したが、法的に完全独立国家となったのは、日清戦争後の大韓帝国成立が初めてだ。それ以前の支配者は、チャイナから任命される「王」だった。これに対し、日本の聖徳太子は、チャイナ皇帝と対等にお外交関係を結んだ。天皇は、英語では皇帝エンペラーだ。つまり、天皇は、日本が歴史的にチャイナと同格の独立国家であることの証だ。朝鮮のように、チャイナの年号利用を強制されることもなかった。朝鮮では、今でも天皇を「倭王」と呼ぶ。これは、朝鮮が歴史的に達成できなかった独立を「野蛮な」日本が達成したことへのインフェリオリティー・コンプレックスのなせるわざだろう。

我々は、事あるごとに神に幸せを祈ってきた。日本各地に無数にある神社はその証だ。神社の国家レベルにお組織化と国家神道化は明治以降の産物だ。しかし、それ以前の自然な神道でも、天皇が中心的な役割を果たしていたことは、応神天皇を祭った八幡宮の多さやお陰参りの盛行をみればあきらかだ。祈りは、我々に安らぎを与える。民族・国家には盛衰がある。不運な時、民俗の心の安定は乱される。その、不安定さを和らげるものが、信仰であり不変の山河だ。天皇は、祈る存在として、我々の信仰の中心にある。

天皇制については廃止論もある。2009年の世論調査では、8%程度が反対だという。もっとも、これは日本人だけなのか、在日朝鮮・韓国人を含んだ数字なのかは不明だ。佐賀県では、天皇の植樹祭参加に関し、毎日新聞の在日朝鮮人記者が、佐賀県知事に対し「関連予算は無駄使い」と常軌を逸した執拗さで記者会見で食い下がった。YOUTUBEに画像がある。

天皇制廃止論は、明治時代、共産主義革命運動とともに日本に入ってきた。当時、ロシアでは、ロマノフ王朝に対する革命が成功し、日本に対してもコミンテルンの世界革命運動浸透工作が進展しつつあった。これに呼応したのが、幸徳秋水らのグループだ。一部は、日本でも革命を起こすため天皇暗殺を企てた。世に言う大逆事件である。共産主義者の天皇制廃止の主張は、プロレタリアート独裁の主張から当然だ。ただし、共産主義は、ソビエトの崩壊でその理論は破綻した。

戦後、戦勝国を中心に天皇戦犯論が支配的であった。しかし、アメリカは、天皇の地位は、日本国民の意思により決定されるべきとの公式見解であった。当時の国民の意見は、天皇制護持が圧倒的であり、天皇は東京裁判にかけられることなく、天皇制の維持が占領軍の方針となった。

しかし、戦後の混乱期に勢力を伸ばした共産党、その共産党の主流を占めた在日朝鮮人により、天皇制廃止論は強力に主張された。(現在の共産党は日本人が主体であるが、戦後まもなくは、在日朝鮮人が主流を占めていた。)在日朝鮮人にとっては、天皇は、朝鮮民族の独立を奪った不倶戴天の敵と見えたのであろう。この背景には、自国が決して達成できなかった歴史的独立を享受した「野蛮な」日本の象徴である天皇に対するインフェリオリティー・コンプレックスがあるだろう。

第2の天皇廃止論の根拠は、この戦争・侵略の首謀者あるいは旗印が天皇というものだ。これは現在でも、日教組を中心に根強く主張されている。日の丸、君が代反対運動だ。現に、大阪では、橋下市長の国旗掲揚国家斉唱条例に対し、日教組は現在でも執拗に反対活動を行なっている。

しかし、この主張は、昭和のたった10年間の戦争時代の経験から、日本の神話時代に遡る天皇制全体を非難するもので、倒錯と言ってもいいだろう。戦争責任は、その自体を議論すればいい。仮に、天皇に戦争責任があるとしても、主導的責任ではないことは明確だ。もっとも、現在の日本の悲劇は、戦争責任の追及を自らの責任で行なわず、東京裁判を鵜呑みにしてきたことに原因がある。いまからでも、東京裁判を再検討し、我々の何が問題で、誰に、何時、非があったのか、総括することが必要だ。東京裁判に悪乗りした戦後民主主義者には、その資格はない。

その他の反対論で有力なのが、天皇制は、憲法が定める法の下の平等に反するというものだ。また、類似の主張として、天皇に纏わる行事が憲法が禁じた政教分離の原則に反するというものもある。これらの憲法の規定を理由にした反天皇論は、お粗末だ。憲法第1条で天皇を規定しているのに、その他の条項で、天皇は違憲だというのだ。単なるためにする議論で、屁理屈にもなっていない。

さて、以上の説明の上にたて、具体的な皇位承継をどう考えるか。

現時点で継体方式をとる場合の難点は、5世という条件に当てはまる傍系男系男子がいないということだ。明治天皇の血をひく男系男子が悠仁親王のみで、悠仁親王は、明治天皇の6世の子孫だ。継体は、応神の5世の孫だった。仮に、悠仁親王が欠けた場合には、継体方式は不可能ということだ。

そこで、主張されているのが、戦後臣籍降下した旧宮家の皇族復帰だ。ただ、この主張の弱点は、現存旧宮家は、現在の皇室とは室町時代に分岐したという血統上の遠さだ。ただし、明治天皇の内親王は、これらの旧宮家に嫁いだ例があり、その場合は、現天皇家との血統上のつながりは濃い。

道鏡方式の場合、和気清麻呂事件が決定的な障害だ。小林よしのり氏は、女系論者だが、その主張のポイントは、何よりも現天皇が、女系天皇を希望しているのではないか、もしそうならその意思を尊重するのが大義だ、というにある。称徳女帝は、皇位を道鏡に継がせることを自らの意思で望んだ。しかし、この意思は、伝統に反するとして否定された。女系論者は、この歴史的事件に対する評価を明らかにする必要があるだろう。

小泉元総理は、道鏡方式を支持するにあたり、始祖のアマテラスが女性なのを根拠に挙げた。しかし、これは、浅薄な理解だ。皇室の始祖は、アマテラスとスサノオの誓約により誕生した。つまり、父は、スサノオであり、この兄弟の父は、イザナギなので男系原理は、貫徹されている。

つまり、この問題は、いずれの方式をとろうとも、伝統の枠内に収まらないということだ。ただ、相対的には、旧皇族復帰に分がると考えられる。

さて結論だ。筆者は、皇室典範9条を改正し、現宮家が旧宮家の男系男子を養子とすることを可能とし、現存宮家を男系家系として存続させることが最も国民感情に合うと思う。場合により、現天皇家との血縁関係のある旧皇族家系に限定することも一案だ。また、愛子内親王や秋篠宮家の内親王も、同じ条件で養子をとった場合には、現宮家あるいは戦後断絶した宮家を承継することを可能とすべきだろう。

皇位継承は、依然として危機的状態にある。悠仁親王の欠けた場合に備え早急に準備を行なわなければならない。これまでの政府の先入観に囚われた議論ではなく、真に国民的議論により結論を出すべきだ。

おまけ:天皇の地位の象徴として3種の神器がある。ある政府高官が言った。3種の神器は安徳天皇とともに瀬戸内海に沈んだ。いまのは偽物ではないかと。3種の神器は確かに皇居の賢所にある。しかし、本物は、 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のみで、その他はコピーである。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、本物は熱田神宮にあり、水没後再度コピーが造られた。八咫鏡(やたのかがみ)は、本物は伊勢神宮にある。八尺瓊勾玉は、安徳天皇入水の折、水に浮かんでいたものが回収されている。従がって、現神器は、すべて本物だ。(NHKの歴史ヒストリアという番組では、3種の神器の内、剣は、安徳天皇とともに永遠に失われたと解説した。神器は、言うまでもなく天皇の正当性を示すものだ。その一つが失われたとは、聞き捨てならない言説だ。現天皇には正当性がないと主張したいのだろう。こんな歪曲を行う行為は、放送法違反だ。国民は、すべからくNHKの受信料の支払いを拒否すべきだろう。)


日本の労働制度(年功賃金制度から専門知識重視の職能賃金制度への転換を)

2012-10-02 18:41:02 | 経済

ワーキング・プアの問題が顕在化して久しい。バブル崩壊後、就職氷河期が慢性的化し、企業内訓練を得られない非熟練労働者が増加した。さらに、グローバル競争の激化により、製造業の競争力維持のため賃金の下方修正圧力が高まった。企業は、こぞって契約社員、派遣労働者、パート労働者、外国人研修生などの非正規労働者の活用に走った。かつて、正社員のお茶汲み職員は、どの企業にもいたが、今や完全に絶滅し、派遣に取って代わられた。

彼らの労働条件は厳しい。故に、社会問題化した。民主党政権は、今回、労働者契約法と労働者派遣法を改正し、長期の派遣契約を制限するなどの規制により、非正規労働者の正規雇用への転換を促す法改正を行なった。

しかし、この改正は、企業に、新たな抜け道対策を立てさせるだけに終わり、非正規労働者の保護には、ほとんど効果がないだろう。むしろ、現に日雇い労働に従事している若者を苦しめることになるおそれが高い。労働条件は、法律ではなく、労働需給で決まる。法律は、形式を整える意味しかない。企業が、新たな形式的対策を講じるだけだろう。解決は、単純労働の労働需給を調整することだ。とりあえず、就労目的の留学生は、直ちに受け入れ停止にすべきだろう。

非正規労働の問題は、経済学的には、差別の問題だ。同一労働、同一賃金の原則が貫かれていない。同じことをやっていて、正規と非正規で労働条件が異なる。そして、非正規には正当な労働の対価が支払われない。

他方、企業の人材が外国企業に流出し、技術ノウハウの無償移転が進行中である。日本の産業競争力を支えた中小企業の金型技術者は、チャイナで再就職し貴重なノウハウを無償でチャイナに移転した。日本の金型産業は壊滅状態だ。近年の日本の電子産業の崩壊に伴い、大企業の技術者が、大量に、チャイナ・韓国企業に再就職し大手を振って無償技術移転を行なっている。いままた、原子力技術者が狙われているそうな。特に、幹部技術者にたいしては、役員待遇の高額な給与でヘッド・ハンティングを行なわれている。

ヘッド・ハンティングは、外国ではもっと盛んだ。もともと終身雇用慣行のない国では、日本的労働条件は無意味なものだ。労働者は、より良い条件を探して転職する。これは、当たり前のことであるとともに、普遍的なものと認識しなければならない。転職には、コストを伴う。引越しと同じだ。しかし、転職コストを上回る条件が提示されたら、転職しない方がおかしい。

企業は、知的財産保護活動により、ノウハウの移転を防ごうとするが、転職が基本的人権である以上、これにも限度がある。かつて、週末に日本企業の技術者がチャイナ・韓国で技術指導を行なっていて問題となったが、こういうスパイもどきに活動にしか適用できないだろう。現在の退職者の再雇用やヘッド・ハンティングには無効だ。

人材を通じた技術流出を防ぐには、その人材が持つ価値に等しい賃金を支払うことが基本的な対策だろう。その上に、知的財産保護規制をかけるのでなければ効果はない。社内の給与の横並び意識に縛られ、有用人材の労働価値を評価しないことが人材を通じた技術流出の原因だ。

こうして見ると、ワーキング・プアの問題も技術流出による競争力低下の問題も、日本の賃金制度に原因があることが解る。日本では年功賃金制度が支配的だ。これは、若いうちは会社への労働価値に満たない賃金で働き、年を取ってからは労働価値以上の賃金を受け取る仕組みだ。そしてそれを補完する仕組みとして終身雇用があり、企業内労働組合がある。しかも、この慣行は、解雇権を厳しく制約した判例により制度化されてしまっている。

この慣行は、現在転換を迫られている。その象徴が、ワーキング・プアの問題であり、技術流出の問題だ。ワーキング・プアの問題は、単に賃金差別に留まらない。結婚を困難にし、少子化を促進し、年金・医療制度を破綻させつつある。他方、技術流出は企業の競争力を低下させ、企業破綻により、失業を増加させたり賃金水儒を低下させる。そして、ワーキング・プアの増加に繋がる。

現代日本で当たり前とされる年功賃金体系、これは戦前から日本にあったものではない。戦前は、大学卒など、一部エリートにしか見られないものだった。一般職工は、職業能力毎の社会的な一般的な賃金水準か形成されており、職工は頻繁に雇用主を変えていた。一般にまで終身雇用が普及したのは、戦後の高度成長時代。人手不足が常態化し、継続雇用のインセンティヴが必要とされた。労働者の供給元の農村の統治が、民俗学でいう年齢階梯型支配原理という年功原理によっていたこともこれに寄与した。

残念ながら、高度成長という条件が崩壊したいま、年功賃金体系から離れ職能に応じた賃金体系に移行することが、社会全体として必要だろう。

職能賃金体系の社会はどんなものか。欧米では、労働組合は、職能別に組織される。職能毎に、会社横断型の労働組合が存在し、その職能を保有する人間の労働条件を交渉する。同一労働、同一賃金が原則は自動的に達成できる仕組みだ。ただ、習熟度により、若干の昇給制度はあえる。しかし、習熟した段階で、昇給は打ち止め、一生その賃金で働くことになる。昇給するためには、新たな能力を身につけ、新たな職務区分に移ることが必要だ。

定年もない。具体的な能力低下が認められないかぎり、老齢を理由に解雇することは不当な差別だ。解雇は、企業がその技能職務を必要としなくなる一定の条件があれば、柔軟に実施できる。ただし、ここでも、不合理な差別は禁止される。例えば、解雇順序。アメリカでは、解雇やレイオフは、採用経歴の浅いものからという慣行が確立している。また、三振制という慣行もある。これは、ある職務能力があるという前提で採用されたのに、3度職能を果たせなかった場合、3度目の警告で解雇できるというものだ。

職能給制度は、経済政策にも影響する。例えば、豪州。ここでは、政府が、各職種毎の労働需給状況と賃金を詳細に調査している。それを、移民数許可政策を連動させている。ある職種の需給が逼迫すれば、それを緩和するためにその職能を有する移民を入れる。ちなみに、一時期、日本人が移民しやすい職能は、日本料理の料理人だった。

賃金体系の具体例として、国連の国際公務員を紹介しよう。この賃金体系は、アメリカの公務員の人事体系に影響を受けたといわれる。ここでは、職員は、3つのカテゴリーに分かれる。G(一般),P(専門),D(管理職)だ。GとPには、数段階の習熟度グレードが用意される。Gは、経理、タイピストや通訳などの現地採用職員で、その賃金体系は、現地の職能賃金水準による。Pは、本来職務に拘わる専門職で、大卒を想定している。Dは管理職だが、それぞれのポストについて職務記述書が明確に決められていて、それに応じた個別給与だ。また、これは公募ポストでもある。内部のPから昇進することが多いが、あくまでも組織外の応募者との競争になる。ちなみに管理職の公募制は、民間企業でも一般的だ。欧米の新聞や雑誌では、管理職の詳細な雇用条件と職務記述を記載した広告がわんさと載っている。社長など組織の最高責任者にいたるまで、公募されていることがある。

日本では、年功賃金の正規雇用の維持を金科玉条に、近年さまざまな労働関係法改正が行われてきた。企業内労働組合もこれをバックアップしてきた。しかし、その試みは、我が国が置かれた低成長の経済環境では、経済合理性を欠く。言い換えれば、ガラパゴス人事体系を温存するために、更にガラパゴス化が進むようなものだ。いまや、世界標準の職能型労使慣行に移行することが必要だろう。

すでに、正規雇用は、過去の幻想と化そうとしている。非正規雇用は、一種の職能賃金制度とみなすことが可能だろう。つまり、昇給のない、職務給によっている。しかし、正規雇用幻想が建前の法制上は、その存在が望ましくないとして継子扱いされている。そのため、正規雇用に移行するまでの一時的労働と見做され、その労働条件は劣悪なままだ。我々は、実態をありのままに見、制度の改善に取り組むべきだ。

改革の方向は、職能賃金体系への移行だ。労働の市場評価に応じた適正な差別のない賃金を支払うべきだ。定年を設けない。職務を果たしている限り、会社は、その職能全体が不要とならない限り解雇できない。企業は、解雇規制が緩むので、採用を増加させるだろう。

職能賃金制度の長所に、労働者の人権の保障程度が高くなることもある。日本の終身雇用制度では、労働関係が身分関係に転化する傾向がある。日本人社員は、組織内で出世するためには、無限定の評価と忠誠競争に晒される。ここに、上司が付け込み、理不尽な要求を行なうこともあるだろう。サービス残業の発生の一因は、この無限定競争も一因だ。職能賃金は、労働者を無限定競争から開放し、職務遂行以上の義務を負わせない。

職能賃金体系下では、労働者の側にも、自己の市場価値を向上させようとする切実なインセンティヴが働く。学校も、うかうかしてはいられない。必要な能力を授けない学校は容赦なく淘汰される筈だ。今の日本の大学(文系)は遊園地だが、アメリカ並みに、普通に学問をする場となるだろう。

社会全体の専門知識レベルを向上させることにも寄与するだろう。国際会議で活躍する人材は、欧米ではほとんどPh.D 保持者だ。対する日本側は単なる大卒だ。アメリカでは、大卒は日本で言えば高卒の感覚だ。修士で大卒感覚、専門的な事柄を議論するためには、Ph.Dが、必要条件だ。日本のゼネラリスト大卒では、国際展開には遅れをとる。日本の外交官は、試験合格の後大学を中退して就職するが、これがいかにおかしいことか。また、日本では大学院卒は、組織内で使い難いとの理由で、就職困難となっている。なんという無駄だろうか。

福島では、原子力保安院の長官が、技術のことは判らないと事故対策から離脱した。これは、社会が専門知識と無関係に組織されている悪弊の最たるものだろう。アメリカのスリーマイルでは、原子力委員会委員長が、事故対策の全権を握り事故収束にあたった。調整だけの官僚国家と専門知識による人事原則が貫徹されている国との差は歴然だ。

職能型労働慣行は、専門知識の発達を促す。アメリカの大学を見ると、学科数が日本の数倍ある。社会の複雑化により必要な専門分野の数も飛躍的に増加している。アメリカの大学は、その要請に的確に応じてきている。それに対し、日本の停滞は明らかだ。大学は、秋入学といったくだらない問題に拘わるより、もっとやるべきことがあるだろう。

日本の社会・企業が抱える課題を解決するためには、労働慣行の改革が不可欠だ。ただし、これには、副作用もあるだろう。たとえば、管理職、いままでは、部下が管理職の意を体して業務を行なってきた。しかし、職能組織では、部下は部品としての機能しか果たさなくなるだろう。部品をいかに組み合わせてて機能させるか、それを事細かく調製するのが欧米に於ける管理職の仕事だ。「よきに計らえ」型管理職は、機能しなくなるだろう。また、職務インセンティヴも変化するだろう。忠誠意欲や競争意欲を持つ人は、PからD、あるいはDの上位への移行を狙う人に限られるだろう。例えば、日本企業のお得意の小集団活動には、新たな動機付けが必要になろう。

社会保障の体系も、変革する必要がある。雇用を妨げる人頭雇用税(社会保険)や配偶者所得控除限度額を廃止し、雇用に対し中立的な負担にすべきだ。それにあわせ、職業訓練を重視するスウェーデン型の福祉政策に転換する。労働・福祉法制の抜本的な見直しが必要だ。

我々は、自身の働き方を根本から見直し、将来を切り開いていかなければならない。現在の労働慣行は、議院内閣制と同じく、耐用年数を超えた。グローバル化により、国境を越えた労働価値の平準化が起きている。企業は、職能型賃金制度への移行により、グローバル化に対応しなければならない。国内人事制度と海外人事制度のシームレス化も必要だ。労働慣行の改革は一朝一夕に進まない。しかし、経営者、労働者、政治家、すべての政策担当者が新たな仕組みつくりに努力していく必要があるだろう。