うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

日本の独立

2007-08-28 14:19:01 | 政治・行政
2007/2/18(日) 午後 7:56

NHKの「そのとき歴史が動いた」で足利義満を取り上げていた。義満は、勘合貿易を開始するにあたり、チャイナ皇帝に臣下の礼をとった。義満の死後、チャイナ皇帝は、義満を賢明な臣下と称えたという。番組は、義満を、日本とチャイナ間の国交を回復した合理的なリーダーだという。現在の関係改善の教訓にもなるとの口ぶりであった。果たして、そうか。

国と国との関係は、対等、内政不干渉が原則でしょう。仮に、安部総理が、チャイナに臣下の礼をとり、友好関係を樹立すれば、合理的なリーダーなのであろうか。世界の笑いものになるのが落ちでしょう。

いつから、日本人は、こんな自明の理さえわからなくなったのでしょうか。人間、社会。国、この世に存在するあらゆるものは、生存意欲があるゆえに存在します。日本では、いじめ自殺に典型的に見られるように、本能的な生存本能さえ衰えているようだ。人間すらそうだから、社会、国の生存意欲が衰えるのは当然かもしれない。NHKの判断は、独立をあきらめるという、まさに国の自殺を勧めているのでしょう。しかも、日本国民の準税金でこれを運営しているのです。

世界をみてみれば、国の独立とは、どこでも、いつの時代でも最大関心事であった。独立とは自分のことを自分で決められること。歴史上、自国の独立を自力で守ることができた国は極めて少数です。多くの場合、独立をあきらめ、地域の支配的秩序形成者の支配下に入ることで安全を確保しました。

アジアでは、チャイナ皇帝を中心とする冊封体制があり、チャイナ皇帝に服属することでしか、安全を守れなかった。満州族がチャイナの最大版図を達成した清時代には、アジアで冊封体制に組み込まれなかったのは、日本とムガール帝国のみという。

日本は、海という天然の要害に守られていた。このため、幸い冊封体制から早期に脱することができた。また、この海のお陰で、歴史の大部分を外敵に襲われることなく独立して過ごすことができた。そのため、日本は世界でもまれな文明を発展させることができた。「文明の衝突」を書いたハンティントンは、日本をチャイナ文明と並ぶ世界8大文明の一つとして認めている。

日本の歴史を学べば、誰でも、その歴史発展過程がヨーロッパの歴史と相似形なのに驚く。これは、外敵に撹乱されることなく連続的に歴史的発展が行われたせいでしょう。朝鮮は、民族的には、日本と酷似してますが、チャイナ文明の辺境の位置づけを脱することはできなかった。グローバル化以前のチャイナ文明圏の歴史では、繰り返し古代的王朝が交代する「アジア的停滞」が特徴です。朝鮮併合時、日本と朝鮮の米の生産性はほぼ4倍の格差があったとされてます。商工層の発展も未熟でした。世界に冠たる日本美術・文学に対し、朝鮮芸術は民芸レベルにとどまりました。なにが、日本と朝鮮の歴史を分けたか。民族的資質ではなく、日本と朝鮮のチャイナからの独立性の差にあることは明らかでしょう。

しかし、日本がその地理的環境だけで独立を保ちえたというのは、誤りでしょう。日本でも、聖徳太子以前は、チャイナ皇帝の権威に支配の正当性をたびたび求めていました。卑弥呼や倭の五王です。しかし、7世紀いち早く冊封体制から脱し得たのは、当時の日本の指導者の卓見と勇気によるところが大でしょう。おかげで、8大文明の一角を占める世界に誇ることができる歴史が成立したのです。

このような観点からすれば、明らかに、義満の行為は、先人の伝統をけがした日本の歴史の汚点でしょう。これは、戦前の普通の日本人の常識です。なぜ、NHKは、この歴史のあたりまえの認識に到達できないのか。たぶん、戦前の思想統制に対する過剰反応があるのでしょう。

戦後、戦前の日本は全否定されました。たしかに、戦前の日本の行為には反省すべき点が多々あるのは事実でしょう。しかし、やみくもに、全否定するのは誤りです。事実に基づき評価・判断する精神をもたねばなりません。

白村江の戦いが行われた日唐戦争、元寇のような例外時を除き、日本の独立は、物理的には努力なしで達成された。そのため、独立はただで達成できるという世界の非常識が日本では常識となった。また、ただだから、そのありがたみも理解されていない。敗戦後、初めて経験した占領も、占領国が米国という史上物質的にはもっとも豊かで国家によるものだったため、被支配アレルギーは生まれなかった。(物質的には寛容だったものの、文化的には野蛮であった。)パックスアメリカーナに時代、世界の治安は米国にまかせ、ひたすら金儲けに励む。憲法第9条がちょうど都合よかった。そうして、国の独立の重要性の認識はますます薄れてしまっている。これが、NHKのような言論が平気で出てくる原因でしょう。

グローバル化がいかに進んでも、国をはなれて個人の生活は存在し得ない。仮に、中国の農民に生まれたらどういう人生を歩むことに確率が高いでしょうか。アフリカに生まれたらどうか。ベストではないでしょうが、日本人は、世界の他の地域の人より、より良い人生を歩むことができる初期確率は相当高いでしょう。

さらに、現在の支配的文明である西欧文明に接しても、ひどい劣等感にはさいなまれない。なぜなら、西欧文明の要素に対する対応物が、国内に見つかるからです。これは、有史以来の先祖の営々たる営みの集積の果実を我々が受けているからです。

国の進歩性の判断基準は、国民に与える人生選択の可能性の大きさでしょう(経済的基盤を含む)。その基準によれば、相対的にみて、日本は誇るに値する国と言えるでしょう。

かつて日本がチャイナに朝貢したときは、それなりの事情がありました。卑弥呼は、クナ国との戦争に苦戦し、魏に救援を求めました。倭の5王は、困難だった朝鮮支配の安定性を求めて朝貢しました。義満は室町幕府の国内支配の脆弱性を金で解決しようとしたのでしょう。

しかし、いま朝貢外交を繰り返そうとしている人々は、単純な私利ではないか。自由民主党にも財界にも、欲に目がくらんだ義満もどきがたくさんいます。年金福祉事業団の資産をチャイナにただ同然で売り飛ばす国会議員さえいるくらいですから。そして、利権操作により、これらミニ義満を操っているのがチャイナです。

明治維新時、日本人は、勤皇・佐幕双方とも、国の独立維持という大義では一致していました。それが、英仏の介入を防いだのですが、それは一朝一夕で達成されたものではなく、日本の歴史認識の賜でしょう。

残念ながら今の日本では、当たり前の議論が通用しない社会になってしまったようだ。NHKをい初めとする日本メディア(除サンケイ)は、かつてチャイナ政府と屈辱的な報道協定を締結し、チャイナ政府のちょうちん記事を垂れ流した。言論の自由を守った米メディアの笑いものです。NHKの番組をみていると、その輝かしい伝統が脈々と生きているのを実感します。


人生観

2007-08-28 14:16:21 | 文化
2007/1/18(木) 午後 9:24

大学時代、世に中とは何か、人生とは何か、という疑問に、マージャン生活に明け暮れながらも、自分なりに一応の解答を見出すべく考えました。結果、もっとも感銘を受けたのが、デカルトの方法序説、カール・ポパー等につながる論理実証主義と ウィーナーのサイバネティックスでした。

いまの職務も、情報理論がきっかけとなって選んだ気もします。方法序説の、すべてを疑い、疑 いきれない事実のみから思考を組み立てるという立場は、いまでも支持してます。(もっとも、「神はあらゆる性質を有する、ゆえに存在という性質も有する」という結論部分は、神の定義と実在論の混同にすぎないと考えますが。)

残念ながら、小生の世に中の探求は、それで中断し、その後は深遠な思索とは無縁の俗世にまみれた生活をおくってきました。しかし、そのころ出した一応の解答に よって、これまで、各種生活判断をしてきたことも事実です。

正義の判断は、先見的に可能ですが、その根源的理由は、それが、人類の歴史的発展過程において獲得した形質の一つだからではないでしょうか。

生物学者のローレンツは、鳥類の刷り込み現象を発見し、われわれが「愛」と呼ぶものに関しての理解を深めましたが、これと同様なものではないか。これらの資質は、巨視的には利己的な遺伝子の展開過程で形成されたものですが、固体レベルでは直知として認識されるということでしょう。しかし、正義の現実の形相にはバリエーションがあり、現代の諸問題への対処を演繹的に展開するのには限界があるのでないか、と考えます。

もうひとつ、小生の思考習慣となっているのが、方法論的アプローチです。仮に、ある理念があるとして、それはいかなる手続きにより確定されるか。確定手続きが存在しないものは、考えても意味がない。現実の世界で適用可能な形で提起されて初めて意味がある、と思います。

価値自体に関して議論する意義は否定するものではありませんが、方法論と独立した価値論の有意義性は、限定されると考えます。政治においても、まさしく正義の確定過程 と実現過程 こそが主題ではないでしょうか。過程が価値自体を定義することもありうるのでしょう。

世界とはなにか。情報理論は、物質、エネルギー、情報の三要素で構成される、 といいます。物質がなければ世界は存在しない。エネルギーがなければ世界は運動しない。情報がなければ、世界は無秩序となる。

生命とはなにか。遺伝子科学は、自己増殖する統合システムとして捉え、その目的は同一遺伝子を保持する子孫の拡大としてます。この考えによれば、人生とは、主観的には価値追求過程です。しかし、価値を客観的に捉えれば、生命として獲得された潜在形質の、特定の文化、時間、空間環境での発現ということではないか。

ただ、現象にはさまざまのものがあり、個別主体にとって人生が簡単というものではないでしょう。個人にとっての価値確定は、いつも悩み多きもので、新興宗教も哲学も、だからこそ必要とされるのでしょう。

人生(会社、社会も)は、価値実現のための個別の意思決定の連鎖と捉えることができ、そのプロセスを情報理論にも基づき定式化したのが、ハーバート・サイモンというノーベル賞学者でした。

個人的には、人生は、諸先輩の実践と結果から学習するほうが理論に学ぶより有用と考えてます。また、ここまで人生を送ってきて最近感じていることは、世渡りにおいての腰の軽さの重要性です。人の言葉より人の行動を信じよ、という知恵がありますが、自分のものぐさに反省しきりです。


日本の宗教

2007-08-28 14:12:42 | 文化
2007/3/31(土) 午前 0:22

子供の頃、月に一度は町の「拝みや」に父親に連れられていった。「拝みや」とは後から習った言葉で、単にOOさんと呼んでいた。宗旨は真言宗で、般若心経を唱えた。時に護摩を焚いたり、大きな数珠を参加者でまわしたことも覚えている。普通の和室で天井にまで炎が上がる護摩は、子供心にも恐ろしいものであった。

しかし、ここに行く本来の目的は、「拝みや」さんの託宣を聞きにいくことであった。般若心経を唱えるうちに拝み屋さんが「神がかり」して、信者の祖霊に成り代わり、人生の悩みに対しての対処法を説くのである。父親は、名古屋の歴史ある門前通りで小売商をしていた。商売を含め生活の悩みは多かったと思う。父親は、実際の生活決定にこの託宣を大変参考にしていた。修行すると、自身も「神がかり」できると信じてもいた。

この託宣がもっとも盛んなのが沖縄です。ユタと呼ばれる人が、祖霊と交信し、様々な助言を与える。沖縄では、「医者半分,ユタ半分」と言われるほど日常生活に密着した存在です。ユタは、生まれつき霊力の高い女性が、あるとき霊に呼ばれユタとなることを命令されるという。これを拒めば死んでしまうともいわれる。

不思議なことに、本州の北端の恐山に、同じく口寄せをするイタコがいる。死者を呼び出し死者の気持ちを述べる。東北地方のあちこちから、人々は、死者との交流のため恐山に集まってくる。コは接尾辞だから、明らかにユタとイタコは同じ言葉です。東北には、縄文要素が強いことを考えれば、この信仰は、縄文まで遡るのかも知れない。

日本の南端と北端に同じ言葉で同じ信仰がある。しかし、ミッシング・リンクかと思われる中部のど真ん中にも、真言宗を装いながら、まったく同じ信仰が生きている。また、天理教など神道系の新興宗教も、神ががりした教祖が創始している。日本の宗教は、神道、仏教といわれますが、こうしてみると、日本の基層信仰は、祖霊シャーマニズムと言っていいのではないか。ユタの「神棚」には、神道、仏教、キリストが並んで飾ってあるところがあるともいう。これは、日本の宗教事情そのままです。

沖縄は日本文化の原風景をあきらかにするのに大変参考になります。沖縄文化は、弥生時代の日本にその源流をもっていると考えられます。仏教は本格的には浸透せず、仏教以前の信仰が支配的です。

その真髄は、祖先信仰です。海の彼方にニライカナイ(ニライとは根の方という意味。ニライカナイは日本では常世の国、根の国、高天原、竜宮に対応する。)という理想の世界があり、子供はそこから来、死者はそこに戻る。死者は、33年など一定の年回忌を終えると死者は鬼から神に昇華する。また、ニライカナイの祖霊は、清明祭、お盆には、この世を訪れ子孫に守護と豊穣をもたらす。お盆の後には、ウンガミ祭がお家庭には、仏教と無関係の位牌(トートーメ)があり、位牌そのものが崇拝対象です。

また、神社の相当するものとして各村の御嶽(ウタキ)があります。ウタキは、男子禁制の聖地で、村の女性神官であるノロが各種祭祀を執り行いました。社殿はありません。沖縄の伊勢神宮とも言うべきセーハー・ウタキを90年頃見学したことがあります。まさに、霊地という荘厳さが感じられる地でした。最近は世界遺産になって俗化したのではないかと危惧していますが。日本の神社も、三輪山や那智の滝のように社殿がないのが原型とされています。

神との仲介は女性の役目です。女性は男性に比し霊力(セジ)が高いとされました。「おなり信仰」というものがあります。姉妹の霊力により兄弟を守るというものです。例えば、漁師の安全をその姉妹が守っているというような話です。

琉球国王にも「おなり神」がいました。聞得大君(キコエオオキミ)といいます。制度発祥当初には,国王の任命行為をも行ったという。聞得大君は、階層制により全国のノロを支配し、祭政一致の王朝で権勢をふるった。ノロの役割は、豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝う祭祀において神を憑依させる依代となることでしたが、政治力も強大でした。地域の裁判権を掌握していた例もあるという。。軍尼という言葉もあります。1500年、八重山のオヤケアカハチが反乱を起こした時には、王国軍は、祈祷をするノロを軍の先頭にし、反乱鎮圧にあたったという。ノロは戦闘にもまったく怯えることなく戦場に参加したという(この姿は、神功皇后の新羅征伐の姿を彷彿とさせる)。

日本の原信仰に関する最古の同時代文献は魏志倭人伝です。そこでは、卑弥呼は鬼道を事とした、とされる。鬼とは漢語で死者のこと。鬼籍に入るとは死ぬことです。鬼道とは、死者を呼び出し託宣をたれることで、卑弥呼は死者を呼び出す巫女だった。魏志にいう鬼道が、沖縄の信仰にぴったりはまることはあきらかでしょう。

現代では、お盆も先祖供養も仏教の儀式になってしまった。しかし、仏教からはこれらの儀礼を説明するのは困難です。毎日の仏壇礼拝も、仏壇を拝んでいるのでなく位牌をおがんでいるのであれば、これは仏教以前です。(逆にお正月は、神道の原型たる祖霊信仰を残しているといえる。なお、古代信仰では1月15日の満月の小正月こそが祖霊の訪問時期だという。)日本の歴史の中で、真に仏教哲学を信じたのは一部インテリに留まり、大多数の日本人は仏教の殻をかむった原神道を信じていたのでしょう。神仏習合教こそ日本の信仰です。そして、祖霊信仰を逆手にとった霊感商法詐欺が尽きないのもその信仰のせいでしょう。


伊勢神宮幻想

2007-08-28 14:11:34 | 文化
2007/4/5(木) 午後 8:33

3月末、十年ぶりくらいに伊勢神宮に参拝した。かつて拝殿を直接拝見したことがあった。そのときは、式年遷宮から間もなかったのであろう、白木に金色に輝く金具や赤、緑?(青だったかも)の玉がすばらしく映え、まさに心が洗われる気がしたものです。今回は、神さびた鰹木を遠くからしか望めなかったが、その雰囲気は独特のものです。

伊勢神宮の御祭神は、言うまでもなくアマテラス大神ですが、ニニギノミコトに降臨を命ずる際に3種の神器を与え、うち鏡をアマテラスの御魂として祭れと指示した。このヤタノカガミこそがご神体ということになります。天の岩戸を開く時に、アメノコヤネの命とフトダマの命がこの鏡を差出し、タジカラヲの命がひるんだアマテラスを引き出すのを助けたとされる。

かつて、3種の神器は宮中にあり、宮中で祭祀が執り行われた。しかし、第10代崇神天皇は、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)を最初の斎宮として、宮中外の大和の笠縫邑で祭ることとした。その後、第11代垂仁天皇の第4皇女のヤマトヒメ(倭姫)が、天照大神の御杖代となって、恒久祭地を求め、伊賀、近江、丹波、吉備、美濃、尾張等25以上の各地の宮を転々とした後、垂仁天皇の裁可を得て、現在の伊勢の地に鎮座したとされる。

途中、転々とした宮は、元伊勢と称されている。愛知県一宮市の真澄田神社も、元伊勢の一つです。真澄田神社は、尾張氏の祖アメノホアカリの命(天火明命)を祭っているが、アメノホアカリの命は、天孫ニニギの兄で別名ニギハヤヒの命(饒速日命 )である。世が世であれば天皇となってもいい家系です。ニギハヤヒは、尾張氏の他、物部氏、同じく元伊勢宮である丹後一宮 籠(この)神社を現在まで守る海部氏 の祖とされる。

なぜ、崇神・垂仁天皇は宮中からアマテラスを移したのか。崇神天皇は、アマテラスに加え、同じく宮中に祭られていた土着神である大和大国魂神も、宮外に移している。記紀によれば、疫病が蔓延したため、天皇は、これを鎮めるため天神地祇に謝罪し改めて祭ったのだという。

崇神は、政権の全国支配を目指して北陸、東海、西道、丹波に四道将軍を派遣した天皇です。神武、応神と並び、古代において画期を築いた天皇とされている。崇神が行おうとしたことは、実はアマテラスを政治から一定程度隔離するという一種の宗教改革だったのではないか。

古代の意思決定システムは、女性巫女による託宣であった。記紀には、特に神功皇后などのとくに目立った巫女のみが伝承されるが、男子王の影には必ず神を代表する巫女王が対応していたと推測される。アマテラスが、天孫降臨を命じたとき、五伴緒(いつのとものを)という随伴神をつけた。アメノコヤネの命、フトダマの命、アメノウヅメの命、イシコリドメの命、タマノオヤの命 である。

アメノコヤネ命は、中臣氏の祖、神の言葉との仲立ちをすることを役目とした氏族です。審神(さにわ)とも呼ばれ、時に意味不明なシャーマンの言葉の真意を翻訳する。岩屋開きでは大祝詞を唱えた。フトダマの命は、忌部氏の祖。穢れを払う役目で、岩戸開きでは、大玉串を捧げた。忌部(斎部)氏は、中臣氏と並ぶ2大祭祀氏族でしたが、後中臣氏に勢力を奪われた。記紀が中臣氏の一族の藤原氏を中心に纏められたのに反発し、後、斎部広成は氏族の伝承を「古語拾遺」に纏めている。アメノウズメは神楽、イシコリドメは鏡を製作、タマノオヤは玉製作、が役目です。

こうしてみると、五伴緒の神はすべてシャーマニズム祭祀に関連した神であることは明確です。神事を行い、神(アマテラス)の託宣により地上を支配せよというのが、アマテラスの命令と思われます。そして、その担い手は、女性。つまり、政治は男系に担われるものの、祭祀による意思決定は女系によっていた。

これは、ヒメ・ヒコ制と呼ばれ、弥生時代、日本の共通文化として各地で実施されていた。記紀で、各地の支配者との出会いが、ヒメ・ヒコのセットで語られることが多いのは、この証拠とされる。沖縄にみるような男女共同統治は、これが近代にまで制度化され残存したものでしょう。

シャーマンによる統治は、非合理なものです。人生の重要決断をおみくじで決めるようなものだ。沖縄でも、ユタの弊害を抑えるため、禁止令が何度も出た。ヤマトが拡大を続けていくなかで、託宣政治の弊害があらわとなる事例が増えていったのではないか。崇神は、全国支配をもくろむ中で、託宣から距離をおくため、宮中からアマテラスを追放したのでしょう。そして、斎王の制度をつくり、これを祭らせた。垂仁は、この努力を引き継ぎ、伊勢神宮の鎮座に結びついたのではないでしょうか。(垂仁は、殉死の制を廃し、代わりに埴輪を古墳に祭ることを命じた天皇として知られる。)

(余談ですが、人生(経営)の決断をおみくじで決めるのは必ずしも不合理ではないと思う。ただ、それは、各種選択肢をぎりぎりにまで比較し、将来リスクをも考慮したうえで、同等の価値がある選択肢の間で迷った場合に限られるでしょう。この場合、どういう手段で選択しても同じですが、仮に、神の指し示す道と納得ができれば、その選択が成功する確率は高くなるでしょう。また、功利の分析に馴染まない選択も多種ある。更に、多くの重要な意思決定は、決定者と環境の相互作用にため、不確実を排除できないものです。あらゆる合理的な努力をした後、天命に任すというのは、心理的には合理的でしょう。)

記紀の崇神、垂仁朝の記事には、様々の祟りの記事が多い。崇神の疫病、垂仁の「おし」の皇子の話など。これらは、出雲の神の祟りとされ、祟りを鎮めるための祭祀をおこなったとされる。しかし、実態は、託宣政治からの脱却をはかったため、祟りとみなす意識がでてきたのではなかろうか。

伊勢神宮ができても、宮中には賢所という鏡のレプリカを祭る祭所は残された。残余のヒメ祭祀は、皇后により行われたとも言われる。また、祭祀を司る女性が天皇となる例も後世にある。(女性が天皇となる場合には、斎王は置かれなかった。)しかし、祭政の緩やかな分離による合理的統治体制を整えたヤマト国家は、その後順調な発展を遂げていったのでないか。垂仁の子は景行天皇、その子はヤマトタケルです。まさに全国統一がなされた時期だ。

統治体制の合理化は図られても、精神的支柱たる伊勢神宮は残された。仏教渡来以降、神道教理も整備され、神仏習合理論も発展する。神道は、すべての日本人民の宗教基盤となった。ゆるやかな、祭政一致体制は、国家危機の場合には、祭の部分が表面化し、国家のアイデンティティーを維持に貢献した。列強に植民地化されず明治維新を迎えられた遠因も、この緩やかな祭政一致・分離思想にありそうだ。その意味で、崇神の業績は大きい。


捏造の古代史

2007-08-28 14:10:07 | 文化
2007/4/12(木) 午後 11:15

古代史での論争の一つに欠史8代というものがある。戦前、津田左右吉が唱えた説で、神武の次の第2代から第8台の崇神の前の天皇は、実在しなかったというのだ。津田の基本的思考は、記紀は、天皇制を神格化するために記述されたもので、神代編の神話は捏造、人代の記述も信ずるにたりない。その典型例が、欠史8代というのだ。津田の著書は、戦前に不敬罪の廉で発禁となたが、戦後は古代史の主流となり、1949年には文化勲章をうけた。

この、考えを受け継いだ大御所に直木功次郎という学者がいる。河内王朝説の創始者として知られる。直木は言う。戦前海軍で教官をしていた時の戦争責任をいくらかでも償いたい。そのために、皇国史観の根拠となった記紀の支配者による改竄を明らかにするのが使命だと。

津田の欠史8代の根拠は、8代が直系の系図のみで、事跡の記載がまったくないことによっていた。直木は、さらに、天皇の和風諡号の分析からそれを補強した。例えば、神武と崇神が同じハツクニシラス・スメラミコトとされることから、同一人物ではないかとしたのである。

日本神話も、天皇制を合理化するための支配層のプロパガンダであり、神話ですらないという。日本神話は、皇室の由来を首尾一貫整然としており、民衆の思想信仰から生まれたものではない。民衆に伝えれれる神話は地域と時代に従い、不統一の形をとる、という。

しかし、直木の論理は理解に苦しむ。ハツクニシラス・スメラミコトは訓で、漢字は異なる。それぞれ始馭天下之天皇、御肇国天皇と記す。神武は、国を治め始めた天皇、崇神は、初めて国を治めた天皇という意味となり、諡号ベースでも同じではなく区別されている。また、本来、カムヤマトイワレヒコ、ミマキイリヒコという別々の生前名をもっている二天皇を後世の和風諡号が同じだから同一人という結論はどこから出てくるのか。

1978年、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣は、この戦後民主主義史学の常識を打ち砕くことになった。剣には金象嵌の115文字が刻まれており、通説では、天皇に先祖代々として杖刀人使えたオワケの古墳であり、埋葬時期は、雄略朝の471年とされる。記紀より約250年早い時期の同時代国内文献である。始祖はオオヒコとされ、直系で8代の系図が記されている。

始祖オオヒコとは誰か。第10代崇神天皇は地方に4道将軍を派遣した。北陸道に派遣されたのが第8代孝元天皇の子大彦とされる。また、東海道に派遣されたのが大彦の子武渟川別命(タケヌナカワワケ)。両者は、会津の地で合流し、その地を会津を名づけたという。つまり、欠史の天皇の子の一族の系譜が最古の同時代資料として出てきたのである。しかも、崇神から雄略まで世代で数えると9代、時代間隔もあっている。

これに対して、直木はなんといっているか。「鉄剣が作られてから、200年後に、欠史8代の天皇が造作され、その後皇族と無関係のオオヒコが孝元天皇の皇子に位置付けられた。」

冗談もやすみやすみ言ってほしい。いったい、どうして鉄剣埋納200年後に無関係の見ず知らずのオオヒコを、記紀編集者が皇族にするのか。オワケも記紀編纂時には忘れ去られた人物であろう。4月9日現在のWIKIPEDIAは、もっとすごい意見も載っている。5世紀の東国の小首長が自身の系譜を造作したという。皇族と無関係のオオヒコが250年後に記紀に取り上げられる予測したことになる。

つまり、戦後民主主義史観によれば、自己の先入観に合わないどんな同時代資料がでても捏造になってしまうのである。これでは、学問とはいえない。

捏造史観といえば、和光大学名誉教授の在日考古学者、李 進煕が有名である。氏は、1972年、「近代日本 の半島進出を正当化するため、都合のいいように旧陸軍が改変した」と主張。日本、中国、韓国、 北朝鮮4か国の研究者の間で大論争となった。

公開土王碑によれば、「百済、新羅は、高句麗の属民であったが、391年来、海を渡り倭が来襲し、百済、OO,新羅を破り臣民とした」とある。李 進煕は、これを日本軍参謀による捏造・改竄とし、本来は高句麗が倭を侵攻したとした。公開土王碑の文章は明瞭な対句表現をとっており、もともとこんな李氏のアクロバティックな読みは成立しないが、つい最近チャイナで日本軍の拓本以前の拓本が発見され、捏造がなかったことが確定し、捏造は李氏の捏造と確定した。

李 進煕と同様捏造を推し進めた在日作家が、金達寿 氏である。氏は、皇別の蘇我氏を単に渡来氏族の一人に名前が類似している人がいるということのみで、蘇我氏を渡来系氏族とした。いわば、語呂合わせの史学である。韓国語との語呂合わせもしている。ワッソが日本語の「わっしょい」の語源だという語呂合わせをしたのが氏である。天王寺ワッソといういまではれっきとしたイベントが大阪にある。この説が元となり、「90年、在日韓国人系金融機関の関西興銀が中心になり、 在日コリアンの「自分さがし」のイベントとして始まった」とされる。

ハングルの成立は、15世紀である。朝鮮では、それまで自国語を記述する言語を持たず、漢文ですべてを記述した。高麗時代、一部万葉仮名類似の吏読があったが、利用は限定されていた。韓国文は、一部例外を除いて、それまで基本的に存在せず、たった25首の郷歌を除いて韓国語文学も存在しない。古代韓国語も資料が乏しく復元困難である。現代韓国語のワッソから「わっしょい」を導き出すことは、冗談以外のなにものでもない。

金達寿 氏の上を行くのが、藤村由加氏である。万葉集は、韓国語で読めるとし、NHKまでが番組でとりあげた。これは、トンデモ学説としてまじめに取り上げる学者はいない。もし本当なら、万葉集や古事記から古代韓国語を復元できるはずだ。ぜひやって欲しい。言語学によれば、日本語と朝鮮語は関係の薄い言語であるのが常識となっている。

古代史について、単なる空想に基づいた珍説が氾濫している。いったい、なぜこんな自体が生じたのか。その大本は、明らかに、捏造史観がまっとうな歴史学であるとした津田左右吉にある。資料の細部の齟齬に目をつけ、全体を捏造とする。かわりに、同じ資料の都合のいい部分のみを断片的に繋ぎ合わせ、語呂合わせを加えて、自分の感想やイデオロギーで勝手に歴史を創造する。日本史学は、この津田史学の呪縛を振りほどく必要がある。

それでは、合理的なアプローチとはどういうものか。スタートとして、まず、記紀資料について真正推定から出発すべきである。伝承には、誇張、脚色、デフォルメ、間違いが数多く含まれることは間違いない。しかし、古代に関しては、文献資料が決定的に限定される。記紀、万葉集等の国内資料と若干の外国文献に限られる。資料作成者による意図的脚色や誇張は、現代の新聞記事ですら顕著だ。古代文献でも当然あるだろう。だから、音韻・文体・書体研究等にようる文献批判に加え作成責任者の意図の推定は重要です。

問題は、最初から、特定の立場にたって安易に捏造を想定することだ。津田が確かな根拠に基づいて捏造を主張しているとは到底考えられない。思いつきと語呂合わせが根拠だ。直木に至っては、皇国史観を否定するためだと公言している。部分ではなく根幹ストーリーを否定するだけの十分な客観的証明がされた時のみに、そのストーリーは捏造と否定すべきでしょう。

文献に関しては、国内同時代資料の価値が優先する。稲荷山鉄剣はもっとも価値の高い。次に同時代外国文献です。日本では、記紀がプロパガンダであるというプロパガンダが浸透しており外国資料への過信がある。しかし、外国資料の限界を強調する必要があろう。現代ですら外国人の日本観察は玉石混交です。荒唐無稽な間違いは現在でも数多い。日本史学では、石から無意味な論理展開をする例が多いのではないか。まず、文献批判により、玉と石の分離が必要であろう。

次は、文献の解釈です。現代人の論理で資料を解釈しても無意味だあり、古代人の心で解釈する必要がある。古代人は、どのような世界観をもっていたか。これを明らかにする手がかりが神話です。神話は、この世界はどういうものであるかにたいする古代人の解答です。文献の理解は、古代人の世界観に基づかなければならない。神話は、世界観再構築の手段です。

記紀神代巻を読むと、全体が皇国史観を植え付ける目的で構成されたとは思われない。書紀では、11にも上る異本の諸説が掲載されており、それらの間に齟齬がある。首尾一貫しているとは、到底いえない。これらは、各種の言い伝えをできるだけ忠実に復元しようとした証拠である。

また、神話の大部分は、皇室とは無関係で、最後にとってつけたように天孫降臨場面がある。天孫族が天孫降臨以前を捏造する理由はまったくない。また、降臨の正当性も不明で、単に命令があったからとなっている。当然イズモは反抗したが、反抗神タケミナカタは、蟄居を条件に諏訪の地へ安堵されている。

神話の素直に読めば、国土と生命の成り立ちの説明と地・海をトーテムとするイズモ族と天をトーテムとする天孫族の抗争の物語だ。天孫族自体も海をトーテムとする海人族との合流で成立している。支配の正当化なら、こんな稚拙な話はつくらないだろう。降臨以前の神話は、日本民族の世界観の源といってよい。降臨後は、天孫族特有の始祖伝説であるが、兄弟喧嘩など素朴な物語が多く、立派な神話でしょう。

資料の解釈で重要な概念の一つは、血統です。古代の支配制度として氏姓がある。人々は、同じ血族の集団である氏に属し、その氏は、姓(かばね)により格付けされた。格付けの基準は、天皇家との血縁関係の遠近です。

記紀人代巻は、神武以降の歴史が主題です。特徴的なのは、各種物語が豪族の始祖伝承と結びついていること。記紀全体が氏族の系図の解説となっているといっても過言ではない。古代においては、どの氏姓に属するかが、社会的地位を決定する最重要要因であった。また、氏姓の明確化が政治の最重要課題でもあった。血統は複雑なネットワークを形成しており、なおかつ、社会の主要関心事として監視状況も厳しかった。江戸時代と違って、系図の偽造は極めて困難であっただろう。古代史の解釈では、系図に意義を理解して行うことが肝要だ。古代人は系図に命をかけた。

資料解釈でのもう一つの重要概念は、神祇です。古代人にとって、天神地祇は実在し、恵み、のろい、託宣する存在です。祭政一致体制は、こうしてとられた。後の律令制では、唐にならった一般行政を行う太政官と日本独自の神祇を祀る神祇官が、平行した最高国家機関として置かれた。崇神より前には、ヒメ・ヒコ体制で、託宣政治が行われてと推測できる。律令制は、崇神により行われた祭政の部分分離を、神祇官を設け制度化ものだ。

文献以上に重要なのは、考古学資料です。言葉はうそをつくが、考古資料はうそをつくことは少ない。奴国の位置は、金印で一発でわかる。伝承を否定できる証明は考古資料が最良です。残念ながら、考古資料のみで再構成できる歴史事実は、極めてすくない。むしろ、考古学資料は、伝承事実の補強として機能が大きい。遺跡があれば事実があったといえるが、遺跡がないからといって、必ずしも事実がなかったとはいえない。事実が遺跡として残りかつ発見される場合はむしろ例外でしょう。

結論は極めて常識的です。記紀には古代人の世界観・歴史伝承が反映している。記紀の伝承を否定するなら、根拠をはっきりする。資料の理解は、古代人の心でする。考古学は役に立つが限界もある。間違っても、津田左右吉のように歴史を捏造してはいけない。


謎の出雲 

2007-08-28 14:05:28 | 文化
2007/4/23(月) 午後 6:35生活その他文化活動 古代の出雲は謎である。

神話によれば、高天原で狼藉を働いたスサノオは、出雲の地に下った。ここで、ヤマタノオロチを退治し、生贄として捧げられようとしていたクシイナダヒメを救う。スサノオは、クシイナダヒメと結婚し、出雲に宮殿を建てて住んだという。クシイナダヒメとの間にできた子(あるいは6世の孫)が、オオクニヌシとなる。スサノオは、多くの妻を娶り多くの子を産んだ。例えば、オオイチヒメとの間の子ウカノミタマノカミは、伏見稲荷の主祭神であり、農業神として全国の稲荷で祭られている。

神話の主役は、スサノオの死後オオクニヌシに移る。オオクニヌシは、因幡の八上姫と結婚しようとするが、兄弟の数々の妨害に遇う。そこで、根堅洲国(ねのかたすのくに) にスサノオのを訪ねる。そこで、スサノオの娘スセリヒメと恋に落ち、スサノオの課す数々の試練を乗り越え駆け落ちに成功する。オオクニヌシは、スサノオから奪った太刀と弓矢で兄弟を打ち破り、八上姫とも結婚する。八上姫との間に生まれた子が、木俣神で、木と泉の神という。オオクニヌシも、多くの妻との間に多数の子をもうけた。越のヌナカワヒメとの間には、後の諏訪に封じられるタケミナカタを産んだ。

オオクニヌシは、国つくりの神である。蛾の皮を着てミホの岬に流れ着いたスクナビコナ神と協力して、国土開拓、農業、医療、温泉、酒造に尽力したという。後、スクナビコナは、粟の茎にのぼりその弾力ではじき飛ばされるように常世の国に渡ったとも、熊野の御碕から常世の国に帰ったともいう。

スクナビコナが去った後、今後の国つくりを案じていると、海を照らしてやってくる神がいた。その神は、私を祭れば国つくりに協力する、と託宣。そこで、オオクニヌシは、、「大和の青垣なす東の山の上に斎き祭れ」との託宣に従い、この神を三輪山に祀った。書紀によれば、 この神は大蛇でオオクニヌシ神の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)であるという、また、「大三輪の神」であるともされている。

この後、国譲りの神話が始まる。豊葦原中津国=瑞穂の国を平らげるため、アマテラスは、最初、アメノホヒを使者として送る。しかし、ホヒは、オオクニヌシと取り込まれ帰って来ない。そこで、アメノワカヒコを使わしたが、ワカヒコは、オオクニヌシの娘シタテル姫と結婚し8年も帰らなかった。そこで、偵察に雉のナキメを使わしたところ、ワカヒコは、矢で雉を殺してしまう。射抜いた矢は高天原にまで届いた。高木の神が投げ返すと、矢は、ワカヒコを殺してしまったという。

最後にタケミカズチが、十柄の剣をもって、オオクニヌシの許に降臨し、国譲りを迫った。オオクニヌシは、子の意見に従うと答えた。事代主は国譲りに同意したが、タケミナカタは力比べを挑んだ。しかし、簡単に敗れ、諏訪に逃れた。そこで、オオクニヌシは、幽界を支配し丁重に祀られることを条件に、国譲りを行った。

神話は、出雲と熊野の近縁性も強調している。スサノオには、イソタケルという子がおり、高天原から木種をもって下り、しばらく韓国に滞在したが韓国には蒔かず、紀国にわたり木種を蒔いたという。イソタケルは、紀伊の国一宮伊太祁曾(イタキソ)神社 に鎮座する。イソタケルは、オオクニヌシをスサノオの国へ導いてもいる。熊野神社は熊野の地に3山があるが、出雲の地にも出雲一宮として存在し、出雲大社祭祀にも重要な関わりを持つ。熊野神社の祭神は、イズモの始祖スサノオである。また、出雲も熊野も根堅洲国(常世)への入り口があると信じられていた。なぜ、地理的にはなれた出雲と熊野が結びついているのだろうか。

以上が出雲神話の概略であるが、この神話はいかに解釈すべきか。素朴に考えれば、これはオオクニヌシが天孫族に敗れ国土を奪われる話である。しかし、敗れた側の神話が勝者の神話に残るものであろうか。神話は、それを祀る集団によって語り継がれる。記紀神話は、ヤマトの支配層によって語り継がれてきた。出雲大社を祀るのは、現在も天孫族のアメノホヒの子孫を名乗る出雲国造家である。そうすると、出雲神話が敗者の神話であるという素朴な考え方には問題がありそうだ。

出雲神話には人代の後日談がある。

ヤマトの三輪山の神は、オオモノヌシという。前述のように、この神はオオクニヌシと同神です。第十代崇神天皇の御世、疫病が流行った。三輪の神は、オオタタネコをして三輪の神を祀らしめよと託宣した。天皇は、オオタタネコを探し出し祭祀をさせると収まったという。オオタタネコの出自は、オオモノヌシがイクタマヨリ姫と結婚して生まれたクシミカタの子孫であるという。

実は、神武天皇は、東征してヤマトを制圧した後、同じくオオモノヌシの子とされるイケスヨリヒメと結婚している。イケスヨリヒメが三輪の神の子というのは、実際には、三輪の祭祀を司る巫女だったことを示しているのではないか。つまり、神武はヒメを娶ることによって三輪の祭祀権を得て、ヤマトの初代支配者となった、と記紀は言っているように読める。男系のクシミカタの一派がオオタタネコの代になって復活し、大三輪神社を祀る事となった。タネコは、大神(ミワ)氏、鴨(賀茂、加茂=「神」の語の転化ともいう)氏の祖という。賀茂氏には別伝もあり、ヤタガラスに変身して神武東征を導いた賀茂タケツヌミ命がその祖だともいう。いずれにしても、神武は、オオクニヌシに代表される国つ神系氏族を組み入れてヤマト政権を樹立した。出雲神話は、鴨氏が奉じた神話という可能性がある。

神武のヤマト制圧に関しては、更に物語がある。記紀によれば、ヤマトの先住支配者ナガスネヒコは、神武に頑強に抵抗した。このため、神武は熊野経由でヤマトに攻め入らざるを得なかった。それでも、なかなかナガスネヒコに勝利することは困難であった。ところが、最後は、ナガスネヒコの主君が同じ天孫族のニギハヤヒ(アメノホアカリ命、ニニギの兄、物部氏、尾張氏の祖)であることが判明し、ニギハヤヒがナガスネヒコを裏切って殺し、神武に帰順する。こうして、神武はあっけなく勝利してしまう。つまり、ヤマトの地は、神武以前に既に天孫族が支配していたと言うのである。

この記述に従えば、神武東征は、同族間の指導者交代クーデターで、それ以前のヤマト支配者はむしろニギハヤヒということになる。ニギハヤヒは、徹底抗戦を主張するナガスネヒコを切り、神武と妥協し重臣となる道を選んだ。ニギハヤヒの子孫は、神武の妃を出した鴨系氏族と並んで、ヤマト政権で有力氏族として活躍することとなった。

三輪の神に関する後日談が崇神朝に語られる。崇神天皇は皇太子を三輪の神の託宣で決定した。天皇は、皇子の豊城命(トヨキノミコト)と活目尊(イクメノミコト)に命じ、三輪山で沐浴して身を清めた上で、それぞれ夢をみさせた。兄は「自ら御諸山(三輪山)に登り、東方に向かって八回槍を突きだし、八回矛を突きだし、八回刀を打ち振った」との夢をみ、弟は「自ら御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き渡し、粟を食べていた雀を追い払った」との夢をみた。崇神天皇は夢占いにより、「兄は東方にだけ向いていた。だから東国を治めるがよい。弟は四方に臨んでいた。まさに私の跡を継ぐのに相応しい」と判断。そこで活目尊を皇太子に立て(垂仁天皇)、また、豊城命は東国に旅立ち、上毛野君(カミツケノキミ)、下毛野君(シモツケノキミ)の始祖となった。豊城命は、三輪の神を奉じ関東各地で祀ったという。関東に氷川神社などの出雲系の神社が多いのはそのためともいう。

また、崇神朝では、天皇が、出雲国造に対し、出雲の神宝の献上を命じたところ、国造出雲フルネは不在で弟のイイイリネが独断で献上した。フルネは、弟を責め殺害する。これに対し、崇神は、四道将軍の吉備津彦と武淳河別(タケヌナカワワケ) を派遣し、フルネを滅ぼしたという話がある。(類似の話は、ヤマトタケルの段でも語られる。)

さらに、垂仁朝には、皇子ホムチワケの「おし」が、オオクニヌシを祀る事により解消した話がある。垂仁は、御礼として、出雲大社の社殿を新築した。

時代は下り、壬申の乱の折には、大海人皇子方の高市県シコメに事代主神が突然に憑依して「神武天皇の陵に馬と兵器を奉れ」と告げ、大海人皇子は、神武天皇陵で戦勝を祈ったとされる。

以上を考えれば、神武と三輪の神は皇室の創始にかかわり、以後、皇室の守護神という観念があったことが明らかです。天神を代表するのがアマテラスであり、伊勢に鎮座した。地祇であるスサノオ、オオクニヌシ、蛇神、、穀霊、海神は出雲の神であり、三輪に鎮まった。この両神が相俟って、皇室を守護するというのが、記紀の神話体系と考えられます。

出雲神話は、天孫族と出雲族の抗争の物語とも言えるが、むしろ協力の物語ではないか。天地の合体である。そして、それは、神武政権が、まず、日向での天神と海神、隼人の連合からスタートし、東進後、熊野で出雲系部族を糾合し、さらに、最終段階で別系統の天神族との連携により成立した歴史の反映として成立したことを象徴するものであろう。

記紀の記述からは、これ以上の情報を得ることは難しい。以上の話も記紀を相当簡略にまとめた物です。異伝も多く、おおまかな筋は追えても、詳細は、神代を含め相当記紀の記述に齟齬がある。おそらく、天皇家および関連する各氏の始祖伝承を寄せ集め、あまり編集せず記録したものでしょう。記紀捏造論者のいうように、統一した思想で作文・編集されたとは到底思えない。


それでは、出雲神話と現実の出雲国との関係はどう捉えたらいいのか。

出雲国は神代に登場するが、神武東征では登場しない。考古学では、かつて、古代出雲は、弥生遺跡上では見るべきものがなくほとんど無視された存在でした。ところが、神庭荒神谷遺跡で大量の銅剣が発見されてからイメージが変わりました。これらの青銅器は紀元前1-2世紀頃製作され、紀元1世紀頃埋納されたと推定されています。 『出雲国風土記』によると、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町周辺は、古くは、天下造大神(アメノシタツクラシしオオカミ)の宝を積み置いた所とされる。また、加茂のつく地名はは、鴨氏ゆかりの地であることをも示している。。この遺跡では、平安時代頃まで、火を利用した祭祀が行われていたことが確認されている。つまり、BC1世紀の祭祀が平安まで継続していたのである。

また、1世紀頃から弥生末まで、山陰地方では、弥生としては最大規模の環濠集落が出現します。また、これらの環濠集落では、山陰特有の墓制として四隅突出型墳丘墓が営まれます。この型の墳丘墓は、出雲を中心として山陰、北陸まで広がりを見せている。弥生後期には、出雲は北九州から新潟までの日本海沿岸にわたる共通文化の中心だったようだ。これは、オオクニヌシの通婚範囲と一致する。四隅の突出は結界を示すとの説があり、それは諏訪大社の4本の御柱と共通性を持つものかもしれない。4世紀古墳時代にも、この伝統は続き、多くの方墳が営まれた。ただ、このころには、ヤマト政権の支配下にあったらしく、荒神谷近くに神原神社古墳(方墳)では、三角縁神獣鏡が発見されている。以上をまとめれば、出雲は弥生の先進地域であったものの、畿内へ進出していたとの証拠は現時点では見つかっていない。

出雲神話の疑問のひとつは、国譲りの対象である葦原中国、瑞穂国と出雲国との関係です。天孫降臨命令の対象は、瑞穂の国全体だ。しかし、国譲りは、出雲しか対象としていない。出雲は、出雲国だけではなくヤマトを含む国全体ではなかったのか。そこから、ヤマト全体が出雲と呼ばれ、その支配者はオオクニヌシであったのではないかという考えが登場する。そして、この説は三輪でオオクニヌシが祀られるという事実と整合的である。しかし、その場合山陰の出雲国との関連を解決しなければならない。

考古学的には、山陰勢力が弥生後期にヤマトに進出したという痕跡はない。出雲大社は、記紀によれば、オオクニヌシの荒魂を祀るとされる。合理的に解釈すれば、出雲大社は、畿内の神武・三輪連合政権が、オオクニヌシの荒魂を分離し、常世にもっとも近いと観念された出雲国に分祀したと推測される。出雲大社の創建は不明であるが、仮に社伝にあるとおり垂仁が新築したとすば、垂仁は、伊勢神宮とセットで出雲大社を新設し、宗教改革を完成させたことになる。また、常世概念の共通性から、神武ゆかりの熊野神をも出雲に勧請したのではないか。出雲大社の地は、以前から出雲地域の聖地とされていたのでしょう。

この考えの欠点は、出雲神話が山陰の地域性の極めて濃い話に彩られていることです。神話の場所はヤマトではなく、あきらかに出雲国です。また、人代の話ではなく、あくまでも神武より前の神代の話です。諏訪の話も説明困難です。国譲り神話は、分祀にあたり、ヤマト政権による後世の出雲国征服説話をからませたのか。また、荒神谷の銅剣等は、何なのか。

ここで、考慮すべきは、もう一つのい謎、ニギハヤヒです。

突如寝返って神武に勝利をもたらしたもう一人の天孫族。仮に、ニギハヤヒが神武以前の畿内の支配者であり、その時代に出雲国を征服していたと仮定すれば、それは神代の話です。その神話を神武は受け継いだ。これは、完全にフィクションの世界ですが・・・・・

ニギハヤヒの謎はそれに留まらない。ニギハヤヒは本当に天孫族だったのか。物部氏(尾張氏)は、ニギハヤヒは河内に天下ったとされていますが、ニギハヤヒを主祭神とする丹後一ノ宮籠神社を守る海部氏は、丹後に天下ったとの伝承を持っています。丹後は、海神の伝統が強いところです。籠神社の系図は、「昭和五十一年六月に、現存する日本最古の系図として国宝に指定された。同系図は平安時代初期貞観年中に書寫された所謂祝部系図(本系図)と、江戸時代初期に書寫された勘注系図(丹波国造本記)とから成る。本系図は始祖彦火明命から平安時代初期に至る迄縦一本に、世襲した直系の當主名と在位年月だけを簡潔に記した所謂宗主系図であり、稲荷山鉄剣銘とよく似た様式で、竪系図の最も古い形を伝えたものと云われる。」(欠史8代も同じ形式の系図)

さらに、驚くべきことに、この神社は、BC1世紀とAD1世紀の前漢鏡と後漢鏡を神宝としている。「昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えた之の二鏡は、元伊勢の祀職たる海部直の神殿の奥深くに無二の神宝として安置されて、當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され來ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替り毎に 、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。」世界の歴史を見渡しても、2千年の伝世というのは、例を見ないでしょう。

海部家は、天皇家、出雲国造家と並ぶ日本最古の由緒氏族ということになります。また、その伝世鏡は、荒神谷の銅剣埋納時期を重なります。丹後の国は山陰の有力地域です。ニギハヤヒと出雲とはどういう関係があったのか。

残念ながら、これらの謎を解くことは小生には無理です。ただ、明らかなのは、神武政権は、天孫族、海神族、出雲族の複雑な相互作用の結果成立したこと。漢書によれば、倭は、倭人と呼ばれた共通の言語と文化を持つ人が国を形成していた。100余国があるということが解っていることは、それらの国の間に相互交流があったということです。既に、韓とはまったく異なった言葉と風習をもっていた。記紀では、アメノヒボコ伝承に見られるように、韓を明確に区別しています。韓との会話を含め国際語は、ブロークン・チャイニーズだったでしょう。倭と韓との間の交流は蜜だったでしょうが、同一民族とは間違ってもいえない。国境がなかったというような説は、捏造です。倭人の環濠集落間ですら、戦闘があった。鏡に鋳造したような漢字は、倭人は既に理解できた。記紀は、そんな時代の統合国家の成立過程を反映していることは確かでしょう。

(本稿をまとめるにあたり、各種書籍、サイトを参照した。古代史サイトは、膨大なものがあり、楽しませていただいたが、津田左右吉創始のトンデモサイトの多さにも閉口した。記紀を全面否定しながら、なおかつ記紀から都合のいい部分だけを取り出して勝手に歴史を捏造する。ただ、本稿は、証拠に基づかない論考をした部分もあり、記紀の引用も、本体に齟齬があるためおおまかにならざるを得なかった。また、空想に及ぶ部分はご容赦願いたい。参考になったサイトは以下のとおり。

http://www.motoise.jp/main/top/index.html 
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/index.html
http://www.kenkenfukuyo.org/index.html 
http://jinja-kikou.net/kamigami.html



卑弥呼幻想 

2007-08-28 14:01:33 | 文化

2007/5/15(火) 午後 10:30生活歴史

今回は、古代史の謎、邪馬台国(発音はヤマタイではなくヤマト)。いったいヤマト国はどこにあったか。江戸時代以来、議論百出である。素人が出る幕がさそうであるが、支持する考えを紹介します。。

まず、ヤマト国の位地に関して、これだけ議論していても決定打が出ないということは、魏志倭人伝をいくら検討しても位地問題を解決できないということでしょう。距離・方角に矛盾があり、しかもそれぞれが不正確ということだ。解決の方向は、位地情報以外から証拠を探すことにつきる。

とりあえず、魏志倭人伝を確認しよう。

「倭国にはもともと男王がいた。七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になり、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。そこで、一人の女性を王として共立した。卑弥呼という。年齢は既に高かったが夫はいなかった。弟がいて、政務を手伝っていた。王となって以来、(卑弥呼に)会えるものは少なかった。下女千人を側に置いていた。出入りできるのはただ一人の男子だけであり、食事を持っていったり言葉を伝えたりした。住んでいる所には宮殿・楼閣・城柵を厳かに設け、常に人がいて武器をもって警備していた。」

「景初三年(239年)の六月、倭の女王が大夫難升米等を派遣し(帯方)郡に詣り、(魏の)天使に朝貢したいと申し出てきた。(帯方郡の)太守劉夏は、文官と武官を付けて(魏都)洛陽に送った。これに対し、その年の十二月、詔書が倭の女王宛に出された。 卑弥呼を親魏倭王となし、金印・紫綬を帯方太守を通して汝に授ける、また、使者である難升米を率善中郎將に、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を授ける、と。」

まず問題は、この魏への遣使は、卑弥呼の共立後どれくらいたっていたのかということです。

当時の倭は、チャイナの冊封国です。奴国以来の伝統です。冊封国に変化があれば、即座に挨拶に伺うのが義務でしょう。多分、共立後早期に魏に遣使したと想定されます。日本の新任総理が、米国大統領に挨拶に赴くようなものでしょう。

即位に関する通説は、180年頃共立されたとするものです。この180年頃というのは、後漢書に見える『桓霊之間(147-189)、倭国大乱』という記述に基づいています。卑弥呼が共立されたのもこの乱の終だろうという推測です。しかし、国際儀礼から推測すれば、共立は239年の少し前となる。180年説では、共立時既に年長大な卑弥呼が何十年も統治するのは無理でしょう。

更に倭人伝は続く。

「247年(正始8年)、新しい帯方太守着任に際し、ヤマトは使節を送り、狗奴国との紛争について説明した。太守は、塞曹掾史の張政を倭に派遣し、大夫難升米に対し、詔書・黄幢(軍旗)を与え告諭した。そのあと、卑弥呼が死んだ。大いに冢を作った。径百余歩で、殉葬者は百余人。次に男王が立つが、国中が従わず、互いに誅殺しあい千余人を殺した。」

この文章は、ヤマトが帯方郡に救援を求めたと理解していましたが、原文にあたると、着任挨拶の服属儀礼が妥当のように思えます。また、詔書が難升米に与えられているのも注目です。卑弥呼が表にでないのは、なんらかの病に冒され、儀式に出られなかった可能性があります。あるいは、託宣を行う巫女は神聖であり接触が許されなかったという理由もあるかもしれません。卑弥呼と難升米は、ヤマトを共同統治していた可能性もある。卑弥呼の死亡時期は不明ですが、247年後まもなくなことは確かでしょう。

「(死後)卑弥呼の一族である十三歳の少女台与を立てて王としたところ、ようやく国中が定まった。張政らは檄により台与に告喩した。告諭を受けた台与は、(新任挨拶として)、今度は、洛陽に、張政等が還るのを送るとともに、倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を派遣し、男女生口三十人、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を献上した。」

卑弥呼が死んだ後も、張政はヤマトに留まっていた。宗主国代表として、卑弥呼から台与への政権移行に深く関与したことは間違いない。そして、今度は台与に対し告諭している。台与は、面会を断れなかったようだ。13歳の少女に政治実務が可能な筈はない。これも、巫女であり、いかに託宣がヤマトの政治の要となっていたかがわかる。

また、いつにまにか掖邪狗が難升米に変わって率善中郎將に魏から任命されてしまっているが、これは派遣後に任命されたのでしょう。

以上の記事からわかることは、確実な卑弥呼時代は239-247年ということです。

では、その頃の考古学資料はどうなっているか。近年の考古学の成果は著しい。大和盆地には、二つの大遺跡がある。唐子・鍵遺跡と巻向遺跡です。

(唐子・鍵遺跡)
唐子・鍵遺跡は、BC3C頃からAD3C頃まで続く大遺跡で、平成3年、 渦巻き状の屋根飾りのついた楼閣を描いたBC1世紀とされる土器が出たことで有名です。平成11年からの調査では、BC3世紀とされる50畳以上の広さの大規模建物が見つかり、同時期の北九州地方に劣らない発展性が示された。つまり、畿内の集落も「百余国」の前史の段階で九州と肩を並べる力を持っていたことがあきらかとなった。

田原町の調査報告書サイト(http://www.begin.or.jp/sakura/karako2.htm)では、次のように書く。

「3つのムラがクニに
市場/テクノポリス/石器工房 600年の盛衰 「メトロポリス・纒向」の台頭
 弥生時代を通じて栄えた唐古・鍵は、邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)にも近い。600年の盛衰の歴史に、ムラからクニヘと発展した弥生・古墳時代の社会が見えてくる。
 唐古・鍵は当初、西、南、北の3集落に分かれ、最も古い紀元前3世紀の遺構がある西地区を同町教委は「クニの祖先が住んでいた『父祖の地』」とみている。建物の発見はここ、三つのムラは同2世紀、直径400m前後の大環濠に囲まれるが、大型建物が造られたのはそれ以前だった。
 西地区では祭り用井戸が多く見つかっており、祭祀が行われる所でもあったようだ。そこに巨大な建物が建っていたことに、同県立橿原考古学研究所の寺沢薫調査第1課長は「3地区の中でも力のあるリーダーが西地区にいたのだろう。後に大集落を作る勢力も西から出たのでは」と推測する。
 大環濠時代に入ると、3集落は機能を分け持ったらしい。西地区では瀬戸内から東海の土器が出ており、各地の物産が集散した「市場」。銅鐸や鋳造炉跡が多い南地区は「テクノポリス」。北地区は石器の材料となるサヌカイトの原石が出土しに「石器工房」。職人を従え、交易をつかさどる強力なリーダーの存在が見える。
 紀元前1世紀には、土器に描かれた中国風の高層建物「楼閣」がそびえていただろう。そのころの唐古・鍵は物流や手工業生産の大拠点として都市機能を持ち、大和盆地に圧倒的な勢力を築いていたとみる専門家もいる。ムラを脱し、クニと言える存在にまで成長していたのかもしれない。
 邪馬台国の時代の3世紀、東南4キロにある浄水や祭祀の施設を備えた「メトロポリス・纒向」が台頭。唐古・鍵は4世紀、歴史の主舞台から消えた。」

纒向遺跡は、桜井市の北部、北は天理市と境を接し烏田川と巻向川に挟まれた東西2km、南北1.5kmに及ぶ広大な遺跡の総称である運河や祭祀跡が整然と並びまた纒向古墳群という最古の古墳群を擁している。纒向古墳群は、前方後円の形をしているものの、前方部が短く未発達なため特に「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。定型化した前方後円墳が造られる前の墳丘形式とされ、このため、纒向古墳群は我が国最古の古墳群とされる。また、史上発の前方後円墳とされる全長280mの箸墓古墳も存在する。

纒向遺跡は大集落遺跡といいながら、ムラを構成する住居址や倉庫址は発見されておらず、遺跡を囲む環濠もない。しかも、弥生時代の集落は存在せず、古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀)になって急激に発展し、周辺の古墳群の築造が終わる頃には衰退する。一帯は、弥生時代には未開発地域であったと思われ、3世紀初めになると、急に村落が形成されはじめ、やがて大集落に発展していったようである。だが、およそ150年後の4世紀中頃には、大集落が消滅してしまった。

纒向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものである。中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。

また、遺跡の西側にかたまってある石塚、矢塚、勝山の古墳群から、昭和46年に、幅5m、深さ1m、長さは南北200mにわたった運河とおぼしき大溝が発見された。溝にはヒノキ板で護岸工事が施されていた。溝を延長していくと一方は初瀬川に、もう一方は箸墓に伸びていると言う。幅5m、総延長2600mの大溝が遺跡内を人字形に通じていて、集水施設もつくられていた。

纒向遺跡は、あらゆる観点からみて従来の弥生遺跡とはレベルが異なる遺跡です。まさにメトロポリスと呼ばれるべきものでしょう。この遺跡の絶対年代が最近示された。古墳群の一つ勝山古墳出土の木製品を年輪年代方で測定したところ、199年プラス12年以内と言う結果が出た。勝山古墳は箸墓に先行するので、箸墓が卑弥呼の在位年代239-247年とぴったり重なる可能性が大ということです。

つまり、考古学的資料によれば、ヤマト国はその時期と遺跡の性格からして纒向以外には考えられない。現在では、考古学者の90%はヤマト国畿内説と言われるのも頷ける。

(記紀)
では、記紀の記述はどうなっているのか。記紀では、箸墓は、明確に倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされている。崇神天皇の大叔母で、崇人朝に数々の託宣を行ったことが伝えられている。三輪山の蛇神と結婚したが、その姿に驚き、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまったという。 また、箸墓は、「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。

箸墓は、史上最初の大規模前方後円墳です。 古代人にも、その記憶が強烈に残ったと考えられます。これほどの伝承を否定することはよほどの明確な証拠が必要ですが、そんな証拠はありません。考古学は、記紀の記述と矛盾するどころか記紀の記述を支持する方向で発見が進展しているといえるでしょう。

箸墓のような巨大かつ前例のない古墳をい築いたということは、ヤマトトトヒモモソヒメは、天皇に匹敵する地位を有していたということでしょう。卑弥呼という事です。男弟は、崇神でしょうか。

考古資料と倭人伝、記紀を総合すれば、倭人伝の時代は箸墓の築造年代の250年前後と一致し、記紀のヤマトトトヒモモソヒメが箸墓に葬られたという記事と重なる。つまり、卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメです。

また、ヤマトトトヒモモソヒメは崇神朝に死んだことになっているので、247年は崇神朝。記紀のこの時代の絶対年代は信用できないことは明らかですが、没年干支を信用すれば、崇神の没年は、258年ということになる。台与は、崇神の娘トヨスキイリヒメではないでしょうか。

以上、ヤマト国畿内説を紹介しましたが、小生は神武東征も事実の可能性が高いと考えています。その時期を推測すると、子供が成長して王位を継ぐまでに仮に平均15年とすれば、神武は150年前のAD100年頃、即位したことになる。

ただ、これは、宮崎から進入し、鍵。唐子の勢力を制圧したに留まるものでしょう。神武は北九州の勢力の一派が宮崎に定着したもので、それ以前に北九州から畿内に進出していたニギハヤヒと連合したのかもしれない。そして、纒向の地に首都の建設を開始した。その後は、チャイナの史書にあるとおり、政権混乱の時期もあったでしょう。宮崎の西都原古墳群には、纒向と同じAD3C初頭と見られる最古の形式の古墳があるとの報告もある。宮崎に残留したグループとの関連が推測されます。

学会では、皇室の日向神話を信用する考えはこれまで歯牙にもかけられていない。宮崎のような辺境からヤマトの征服者が出るはずはない、捏造だというのである。しかし、むしろ、辺境から英雄がでるのではないか。アレクサンダーがいい例でしょう。神武東征ルートの拠点には、地名に和田という名称がつくなど、海人集団の根拠地があったことが知られていいます。天孫プラス隼人プラス海人集団の破壊力は相当なものであったのではないか。すくなくとも、神武東征を否定する考古学上の証拠は発見されてはいない。むしろ、今後の考古学の発見は、記紀の伝承を実証するような資料がでてくるのではなかろうか。古代人の能力を過小評価してはいけない。

日本の自己認識

2007-08-28 13:59:12 | 文化
久しぶりに故郷名古屋に帰り、名東区の藤森、守山の竜泉寺あたりをドライブした。40年程前、このあたりは一面の田んぼ。舗装されていない道沿いには、農家が点在していた。ススキに縁取られた用水には、フナやドジョウがいた。6月の夜には、見渡す限り一面蛍が乱舞していました。

いまあるのは、市内どこにでもある変哲もない道路と町並み。この間の変化の激しさに、改めて驚きました。蛍自体が農薬で全滅してしまったいま、かつて、日本全国の農村にあったに違いない満天の星と地を埋め尽くした蛍の光の感動を伝えることは、不可能に近い。逆にいえば、団塊の小生の世代が、昔の農村の風景を知っている最後の世代ともいえる。

いったい、その光景は、何時ごろから続いてきていたのだろうか。少なくとも、稲作が始まった縄文晩期まで遡るに違いない。約3000年である。3000年の歴史が、たった40年でまったく跡形もなく消滅してしまった。

消えてしまったのは、蛍だけではない。祖母の家では、毎日、仏壇にお供えをしてから、家族の食事が始まった。たぶん、祖母の世代までは、日本中で、先祖に毎日手を合わせていたに違いない。この習慣もたぶん3000年以上続いた後、いまほとんど途絶しようとしている。

日本人の3000年にわたる生き方の根幹は、この祖霊崇拝でしょう。家庭の中心に仏間があり、毎日神仏にいのる。祖先を供養し、立身出世して、子孫を繁栄させる。これが、日本人の根源的な価値観でした。すべての日本文化は、そこから生まれた。子供の教育にも迷いはなかった。先祖に恥ずかしくない生き方をさせる。そこから、向上心や努力、道を極める意識が生まれてきたのでしょう。

また、人材育成のしくみも整っていた。小生の小学生低学年の頃は、TVはまだなく町内の多年齢の子供は、きまった遊び場に集合して年長者が仕切り役となって遊んでいた。メンコやチャンバラ、ときに集団で遠征した。グループ行動とリーダーシップ、そして伝統遊戯の伝承をかねた仕組みだった。こうした仕組みは、学校教育よりもはるかに影響力が大きかったのではないか。いじめなどは、リーダーが抑えていた。日本の村に伝統的な年齢階梯的若年組織が、1964年以前には、名古屋市内でも息づいていた。

これらの伝統システムの崩壊の基本要因は、戦後の経済成長でしょう。貧しい時代を支えてきた社会システムが、豊かな時代とともに役割を失った。しかし、明治以降敗戦までの経済発展では、表面的な変化はあったものの、伝統的価値観の中核は維持された。戦後の変化の特徴は、我々自身が戦後の混乱のなかで、中核的価値基盤を破壊してしまったことでしょう。

敗戦後、米国は、戦後憲法により、軍国主義とあわせ伝統すべてを封建的なイエ制度として破壊した。変わって、個人の自由を価値の中心にすえた。個人の自由な価値選択をいうなら同時にその方法論を教えなければならなかった。しかし、自分で,ゼロから価値選択の基準を考えることは、大多数の人にとって至難のことでしょう。戦後の日本人は、このことを深く考えることをせず、先延ばししてきた。

また、生活環境の変化も伝統の破壊に威力を発揮した。特に影響が大きかったのは、TVでしょう。これで、腕白集団は消滅した。家庭で、子供のカウチポテト生活が始まったのである。さらに、TVゲームが、これに輪をかけた。小生自身がTVゲーマーなので、この抗し難い魅力はよくわかる。現代の子供は、ゲームの興奮のかわりに、かつて存在していた子供による自治社会運営による教育システムを失った。


現在、様々な社会問題が噴出して来ている。これまでは、まだ、伝統的な価値観を体現した人は残っていた。その人達のおかげで、表面的には、これまで問題なく社会を運営できたのでしょう。ここにきて世代交代により、いじめによる自殺、異様な少年犯罪、学力低下、信じられない手抜き事故など、社会の基本にゆがみがでている。日本人の劣化といってもいいでしょう。これらは、3000年来、日本を支えてきた基本的価値観の崩壊が現実化し、社会全体がアノミー(価値崩壊による自己喪失)状況にあることの表面化と捕らえるべきでしょう。

「自由からの逃走」という本があります。選択の自由に対処することは人間にとって恐怖であり、これが意思決定の全面委任という形の全体主義をもたらしたという。現在の日本はどうか。選択の自由に直面して、思考停止と短絡的な欲望のみを志向する退行現象をおこしているのではないか。

教育改革の動きは、この退行現象に歯止めをかけようとする努力と認識しますが、効果は限られるでしょう。なぜなら、これは教育の問題ではない。個人の生存目的とその反映たる社会全体の支配的な価値体系の問題だからです。自身を振り返ってみても、一度壊れてしまった祖霊信仰に基づくエートスの復活は絶望的でしょう。自分のために自分勝手に生きる、しかし自分が何を目指しているのかわからない。親がわからないのに子供がわかる訳はない。かくて劣化の再生産が進む。

社会的アノミーから脱却するには、社会的自己認識により自己を取り戻すしかない。日本とは何か、日本人とは何か。それを考えることから、日本、日本人がこれから何をするべきかが見えてくる。目標が明らかになれば、社会的アノミーからの脱却が見えてくるでしょう。

豊かな世界において、かつての単純な統一された富国強兵、立身出世の価値体系を維持することは、もはや不可能だ。個人の価値追求の自由は抑えるべくもない。しかし、人間は、価値自由な空間に無限定に生まれてくることはない。人間は普遍的、科学的な原理とともに、特定の社会的,文化的な歴史を背負って生まれてくる。われわれは、歴史を背景に普遍的原理に立ち向かい、将来の歴史を形成する存在です。これは、社会でも個人でも同じでしょう。

戦後失われたものは、日本、日本人の自己認識(アイデンティティーと言ってもいい)です。日本人が自己を取り戻すためには、日本の歴史と文化の原点に立ち戻って考える必要があるでしょう。