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フィクション:大物の交渉人(2)

2009-08-11 | フィクション:大物の交渉人


 デレクはクリトン元大統領との話の行方が見えると,目で国務長官を促したが,興奮からか国務長官はそれに気づかなかった。仕方なくデレクは置かれたままのワイングラスを手に取り,国務長官に手渡した。国務長官はデレクの催促で仕事がまだ残っていることを思い出した。おもむろにワインを飲み干すと,「ビリーありがとう」と妻らしい愛情で謝意を示し「まだ仕事の続きがあるの」と言った。クリトン元大統領はこんな深夜に仕事に戻るのかといぶかった。するとデレクが,この吉報を待っている人がいるとだけ答えた。そして,先に車に戻っていると国務長官に告げて部屋を出て行った。ヒラルーはビリーの耳元に顔を寄せ「あなたには神の栄光がある。愛しているわ」とささやき,くるりと背を向けドアへ向かった。ドアを開け「では週末のディナーを楽しみにしているわ」と言い残し去っていた。

 クリトン元大統領は一人になると,ふーと大きく息を吐いた。緊張していたことに自分で驚きテレを感じた。あの二人は私が緊張していたことに気づいたかなと考えながら,窓の方へ足を運び外を確かめた。ヒラルーが車に向かって歩くのが見えた。そして護衛の数が普段どおりなのを確かめると窓辺を離れた。大役を頼まれた割に心は弾まなかった。不安があったわけでもないが,何かしっくりこなかった。霧の中に置き去りにされたような思いだった。祝杯には程遠い思いで元大統領も部屋を後にした。ヒラルーの飲み干したワイングラスがテーブルに残った。

 車に戻った国務長官はデレクを軽く労った。デレクは小さく手を上げて応えた。車にはもう一人先に戻っていた人物がいた。元大統領が二人のほかに誰かいるのではと,おぼろげに感じたことは間違いではなかった。ここでのやり取りを息を潜めて確かめていた人物がいた。デレクはその人物に,官邸までお送りしますと声をかけた。運転手は無言で車を発進させた。国務長官は「お待ちいただいた甲斐がありました」と声をかけた。男は堂々としていたが尊大ではなかった。

 静かに待っていたその人物は、「こちらこそ、無理に同行をお願いし御迷惑だったでしょう」そういう言って人懐こい笑顔を見せた。流暢な英語を話すが、顔は間違いなく東洋人だった。この人当たりの良い東洋人から国務長官とデレクは華僑を連想していた。中国大使館から派遣されていることを知らなかったら、大使館員と思わないだろうと二人とも思っていた。アメリカ人の東洋人に対するイメージはその程度である。または、おしゃべりで人懐こいから日本人ではないと思う程度である。英語が流暢な中国系アメリカ人は珍しくない、もしかして彼はアメリカ人ではないかと思っていたのはデレクである。

 デレクは「ミスター・チョウ。英語がお上手ですね。こちらに来られて長いのですか」と尋ねた。東洋人らしいチョウ大使館員は「学生の時からですから、かれこれ15年になります」とさりげなく答えた。「そうですか、もうネイティブと変わりありませんね」とデレクは相槌を打ったが、心の中ではウソつきめと罵った。彼はどう見ても30代前半、14・5歳からアメリカに留学していたというのか、いい加減なことを言っている、油断ならない奴だとデレクは思った。

 二人の会話を隣で聞いていたヒラルー国務長官は、別な思いを抱いていた。自分が何をしているのか自問自答していた。チョウ大使館員は、中国大使から同行を強く要望された。北朝鮮との口利きの条件という感じで、半ば強引に要望された。これまで一面識もない人物である。大使から直々に引き合わされなければ、決して同行などあり得ない人物だった。それ以外にも国務長官は大きな不安と同席していた。デレクである。実は、デレクは政府の人間ではない。CIAから派遣された北朝鮮特別交渉担当官だった。こちらもCIA長官が直々に数日前ホワイトハウスに連れてきて任務に就いた人物だった。ヒラルーはCIAなんて、掴みどころがない亡霊のような組織と思っていた。予想通り、デレクは感情のない正義がスーツを着たような男だった。ヒラルーにとって、二人の会話はこの世のものでなかった。死者の国へ自分を連れに来た二人の死神に体を両方から引き裂かれる恐怖だけを抱いていた。

 中国大使館へ向かう車は、二度と同じ道を通らない。ドライバーはどれだけ道を知っているのだろう。それともナビが優秀なのか、一切迷うことなく、一定の速度ですいた道を選んで走り続ける。到着間際チョウは、どこかに短い電話をした。夜遅く大使館の前に車は到着したが、門はすぐに開いた。チョウが電話をしたのは大使館だったのだろう。国務長官は「リュウ大使によろしく伝えてください」とチョウに言った。チョウは「分かりました。スタートは快調でしたね。大使も御機嫌でしょう」と明るく応じて車から身軽に降りた。運転手は長居はできないことを心得ていた。チョウが降りて建物に消えると、滑るように静かに大使館を後にした。誰にも気づかれてはならない行動だった。

 大使館を後にした車は夜の闇を疾走した。デレクは軽い疲れを覚えた。彼は自分でも疲れたのだから、国務長官はさぞ疲れたことだろうと思ったが、ねぎらいの言葉をかけるような男ではなかった。静かに目を閉じると彼の頭脳は、これまでの事を仔細に確認し始めた。ヒラルー国務長官は安堵の思いと共に、冷静な自分を取り戻していた。彼女の頭脳もまた人並み外れた能力で状況の分析を始めていた。彼女は、デレクの想像をはるかに超える鉄の女だった。目を閉じて思索を巡らせていたデレクに対して、国務長官は驚くことを言った。「これであなたの役目は終わり、デレク、CIAに戻っていいわ」と低い声で言った。

 デレクは耳を疑った。一体この女は状況が分かっているのかと思った。思ったとおりが言葉になった。「国務長官、状況がお分かりですか。この件は、私たちがここまでこぎつけたものですよ。政府になにができるというんです」と荒い口調でデレクは言い放った。冷静な彼が初めて感情を見せた。国務長官は静かに言った。「これから先、あなた方に何ができるの。CIAでやってみたら。私も大統領も降りるわ」。彼女の声は冷たかった。「CIAが政府に協力するという意思が明確になければ、私たちはもう動かない。長官に伝えて」。デレクは突然追い詰められた。
 これからの展開を暗示するように、二人を乗せた車は、この激しいやり取りに動揺することなく夜を疾走して行った。


杜人

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