憂国の花束

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大礼服と宮中服 メモ

2022-01-11 11:18:08 | 皇室
1月1日 悠仁殿下が和服を召して皇居宮殿、仙洞御所へ新年の祝賀に行かれた件。
某所では皇族方の羽織袴姿の古い写真を上げて、皇族が礼装として羽織袴を着用するのは正しいかのように解説している。
そうだろうか。某所の写真の皇族方もそうだが、こちらの久邇宮邦彦王殿下(香淳皇后父)は平常着、日常着せいぜい私的訪問の訪問着として着ているとしか見えない。



大礼服、通常礼服が定められていた時代、皇族の礼装は洋服であり、羽織袴は平常着だった。

明治期に制定された服装に関わる「令」が戦後廃されて以後、皇族の礼装は一般人化して行く傾向がある。

例えば以前は宮中では黒は用いないとされて、女性の礼装は色紋付きが慣例だったが、高円宮久子さまは典子女王、絢子女王の結婚行事では一般人と同じく黒留め袖をお召しであった。
弱冠15歳の悠仁殿下が和服を召して公の場におでかけになるのも、皇族の礼装が一般人化して行く一つの現われなのかもしれない。
それが良いことかどうかは別にして。

wikiには
1954年(昭和29年)7月1日、第5次吉田内閣(吉田茂首相)下で制定された「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」(昭和29年7月1日法律第203号)[6]により明治以来の服装令は廃止された。
その後は、女性皇族の任意により、着用する衣服は柔軟に変化するようになった。

法律第二百三号(昭二九・七・一)

  ◎内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律
 左の各号に掲げる法令は、廃止する。
 一 大礼服及通常礼服を定め衣冠を祭服と為す等の件(明治五年太政官布告第三百三十九号)
 二 大礼服及通常礼服着用日の件(明治五年太政官布告第三百七十三号)
<以下略>

😐 何でもありなのだろう。
雅子さまのドレスがどうの、悠仁さまの和服がどうの、と取り沙汰する時代ではなくなっているのでしょう。

しかし。私は、悠仁さまが今後も紋付き羽織袴で国賓を迎えたり祝賀の儀等にお出ましなるのならイヤだなと思う。


資料

明治5年11月12日太政官布告第339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)
 

・第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの燕尾服が通常礼服とされた。通常礼服は小礼服とも呼ばれ、民間人などの大礼服が制定されていない者はこれを正装とした。そして、通常服はフロックコートであった。 

・明治10年太政官達によって判任官以下の者は羽織袴を以て代用することが出来ることとなった平常着であった羽織袴がここで公けの礼服とし認められることとなった 
(明治時代に太政官令で礼装を定めた際には「五つ紋の黒紋付羽織袴」が採用された。 )

・大礼服を着用するのは「新年朝拝、元始祭、新年宴会、伊勢両例祭、神武天皇即位日[2月11日]神武天皇例祭、孝明天皇例祭、外国公使参朝の節」とされていた。[明治5年12月29日太政官布告、第373号、諸省府県局廻し、および6年改正]
 この規定の他、大正、昭和の天皇即位の大礼時にも用いられている。



高円宮さまは、羽織袴で宮中へ参内しているというが、故高円宮憲仁親王は昭和29年(1954)年12月29日生まれ、明治以来の服装令は既に廃されている。香淳皇后が公の場で和服をお召しになったのは1952年厚子内親王の婚儀が初とされている。
高円宮殿下が羽織袴で参内された33年は4歳。34年は5歳。幼児である。
添えられた百合子さまの日記を読むと私的な参内だったようだ。

私的な集まりで和服を召されるのは悪くないと私も思う。
ブータン国王訪問、新年祝賀の儀のような公の場で羽織袴を召されることに違和感を感じる。
歴史的にみれば、羽織袴は天皇のものではないから。

明治以来の服装令は廃令になってしまったことだし、公家の装束を祭服に留めず礼服として復活させたらどうかしら?

ただし、装束で小用は足しにくいらしい。

昭和天皇
令和の天皇

未成年の装束である闕腋袍 (けってきのほう)
未成年のかぶり物 空頂黒幘(くうちょうこくさく)



羽織袴が大人の入り口に入られた将来の天皇の礼服にしては、お手軽感満載とわかるだろうか、わっかんないだろうなー😵