憂国の花束

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天皇の教育 メモ

2022-01-20 23:27:15 | 天皇
悠仁殿下の進学について、巷では何のかんのと取り沙汰する。
将来の天皇という特別なかたが、特別の教育を受けることに何の文句があるのかと私は訝しい。

「文藝春秋」2月号では元宮内庁書陵部編修課長の米田雄介氏 が古代から現代まで歴代の天皇が受けてきた教育について簡単に解説し、悠仁殿下の帝王教育が直面する問題点について前編、後編に分けて述べている。

前編
悠仁さま15歳は即位前にいかなる教育を受けるべきか〈“名門校・筑波大学附属高校へのご進学問題”より重要な視点とは〉
#1

後編
高校ご進学直前、悠仁さまの“帝王教育”に動きづらい深刻な理由〈今後“皇籍を離脱したい”と願う皇族が現れたら…〉
#2




昭和天皇と秩父宮

*制度
 8世紀初め(701年)『大宝令』。東宮(皇太子)に対して、東宮傅(とうぐうふ)を1人置くと規定。
東宮傅とは「道徳を以て東宮を輔け導く」、つまり天皇になるにふさわしい人格を形成させるための“人間教育”を担う立場。
天皇に対する太政大臣のような位置づけ。 

*東宮傅の下に実際に学問を教える東宮学士が2人置かれた。
 皇太子の兄弟姉妹である親王や内親王には、それぞれに1人ずつ、文学という教育担当者が置かれた。
 東宮学士と文学は明確にランクが違う。これらの制度はやがて形骸化していったが、皇太子とそれ以外の方の教育に差をつける形式は残っていく。

*当時の教科書は中国から伝来した書物。
『群書治要 』帝王の政治に必要な名文を抜き書きしてまとめた もの。

宇多天皇(867~931) 皇太子敦仁親王(後の醍醐天皇) が書き与えた『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』 に
 「唯『群書治要』のみ早く誦習すべし」。早くこの教科書を暗誦できるほど学習しなさい 

善政を行った唐の太宗と臣下との問答をまとめた『貞観政要』という教科書は、近代になっても、明治天皇や大正天皇が学んだことが確認されている。

*中国伝来の書物は儒教の教えが前面に出ている。
日本の天皇制の底流には天照大神のような神話、伝説があるという事情がある。

*平安時代、この事情を踏まえ天皇が心得るべき重要事項として神事を扱う教科書が登場。
順徳天皇(1197~1242)著『禁秘抄(きんぴしょう)』
 天皇の日常的な心得や儀式についてまとめたもの。
冒頭「およそ禁中(宮中)の作法、神事を先にし、他事を後にす」
日々神を敬うことを怠るな、という考え方。
「諸芸能事」
「第一、御学問なり。それ学ばざれば、即ち古道に明らかならず」 
 平安末期から鎌倉、室町時代において、天皇が政治的な権限をほとんど持たなかったことが背景にあります。学問に精を出すことで、自らの存在意義を守る面もあったでしょう。(米田氏)
「第二は管絃、第三に和歌 」

一般社会ではほとんど消えてしまっている伝統文化でも、皇室があることによって引き継がれ、維持されているものがあるのです。
 歌会始は、まさに典型例です。人々が集まって共通のお題で歌を詠み、披露する「歌会」は、奈良時代以降行われていた伝統文化です。他にも宮中では、様々な年中行事が行われています。私は直接タッチしたことはありませんが、関係者の話を聞くと、祭祀が行われる日には、伝統に則った準備をし、お供えすべきものをお供えするということを維持しているそうです。だからこそ、禁秘抄の教えが現代まで生きているとも言えるわけです

😇 天皇と学問の切っても切れない関係は、古代から続いているのですね。
勉強になりました。
紀子さまを「学歴にこだわっている」と批判することがいかに的外れか解るでしょう。

後半は現代の天皇がたの教育事情について書かれている。
大正天皇、昭和天皇が受けられた帝王教育の過酷さに比べたら、今上の帝王教育など遊んでいたようなものだろう。

<つづく>