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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

モカ珈琲の歌:寺山修司の短歌

2010年10月31日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・ふるさとの訛(なまり)なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし・

 「空には本」所収。1958年(昭和33年)刊。角川文庫の「寺山修司青春歌集」では巻末の「初期歌篇」に収められている。何故かはわからぬが、或は編集の都合かも知れない。

 集団就職という言葉が現実のものだった時代である。地方出身者が次第に故郷の訛をなくして「都会人」になっていくのを、さめた目で見ている作者。それを主観語使わずに「珈琲の苦さ」に象徴させているところに、一首の核があろう。

 こういったモチーフは、「木綿のハンカチーフ」「帰ってこいよ」などの歌謡曲にもあるが、下の句の表現と「なくせし」という文語が5句31音の定型を守ることによって新鮮な感覚の詩となり短歌となった。

 「ふるさとの訛」といえば、石川啄木の次の一首が浮かぶ。


 ふるさとの訛なつかし

 停車場の人ごみの中に

 そを聞きにゆく    (「一握の砂」)


 「停車場」は上野駅であり、「訛」が東北弁であることは自明のことだが、啄木の一首が「望郷の念」を詠っているのに対し、寺山の一首は「都会化していく地方出身者に対する、あるいは出身者としての冷めた目」がある。その面で寺山の一首は「非啄木的」である。

 と同時に、寺山もまた地方出身者というものを、自分のアイデンティティにしており、それを「訛」という日常的なものに託しているという面で、「啄木的」である。

 石川啄木は岩手県・寺山修司は青森県出身。二人の作品に東北出身者の気質のようなものを感じるのは、僕だけだろうか。





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