・ふるさとの訛(なまり)なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし・
「空には本」所収。1958年(昭和33年)刊。角川文庫の「寺山修司青春歌集」では巻末の「初期歌篇」に収められている。何故かはわからぬが、或は編集の都合かも知れない。
集団就職という言葉が現実のものだった時代である。地方出身者が次第に故郷の訛をなくして「都会人」になっていくのを、さめた目で見ている作者。それを主観語使わずに「珈琲の苦さ」に象徴させているところに、一首の核があろう。
こういったモチーフは、「木綿のハンカチーフ」「帰ってこいよ」などの歌謡曲にもあるが、下の句の表現と「なくせし」という文語が5句31音の定型を守ることによって新鮮な感覚の詩となり短歌となった。
「ふるさとの訛」といえば、石川啄木の次の一首が浮かぶ。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく (「一握の砂」)
「停車場」は上野駅であり、「訛」が東北弁であることは自明のことだが、啄木の一首が「望郷の念」を詠っているのに対し、寺山の一首は「都会化していく地方出身者に対する、あるいは出身者としての冷めた目」がある。その面で寺山の一首は「非啄木的」である。
と同時に、寺山もまた地方出身者というものを、自分のアイデンティティにしており、それを「訛」という日常的なものに託しているという面で、「啄木的」である。
石川啄木は岩手県・寺山修司は青森県出身。二人の作品に東北出身者の気質のようなものを感じるのは、僕だけだろうか。
