本書の序章に印象深い言葉が見られる。
「すべての歴史は現代史である。」「歴史を描くとは、過去を語ると同時に、それが現在に生きる人々にとってもつ意味を問うことであり、できうれば未来への展望を示すことである。」
少なくない「現代史」「戦後史」が、高度経済成長期で終わったり、石油ショックで終わったり、ソ連崩壊で終わるという場合が多いなかで、本書は21世紀初頭まで叙述される。巻末の年表には、2005年(平成17年)まで記載されている。
本書は近現代史を専門領域とする研究者の叙述であるが、社会学などの成果や、「聞き書き」「著者の回想」なども主たる叙述を構成している。
まさに著者にとっても、読者にとっても「同時代史」が展開するのである。「バブル経済は何故発生したか」「バブル経済はどのように終わったか」「地下鉄サリン事件は現代にどういう意味をもつか」「9・11同時多発テロは世界に何をもたらしたか」「憲法改正問題」「湾岸戦争、イラク戦争」といった今まさに生きている、読者に直結する「歴史」が叙述される。
しかもそれが、1945年の敗戦から、一貫した視点で叙述される。このブログで紹介した「朝鮮史」(講談社現代新書)は好著だが、戦後の部分はやや古い。本書はそうしたことを補う意味でも特別な意味がある。
本書は6章から構成されている。表題と簡単な内容を紹介しよう。
・序章「戦後史」をどのように描くか
冒頭の印象深い言葉はここで出てくる。
・第1章「『戦後』の成立(1945年~1960年)」
敗戦、占領と新憲法、冷戦のはじまり、冷戦下のアジア、単独講和と独立日本、1955年体制の成立
・第2章「『戦後』の基本的枠組みの定着(1960年~1073年)」
高度経済声調の時代、大衆消費社会の成立、1960年代の文化と思想、
ベトナム戦争、未刊の戦後処理(日韓国交正常化・沖縄返還・日中国交回復)。
・第3章「『戦後』のゆらぎ(1973年~1990年)」
「列島改造論」とオイルショック、新中間層のゆらぎ、保守本流とは何か、
忘却の中の戦争ーアジアから問われる戦争責任、バブル経済の発生、昭和の終焉。
・第4章「『戦後』の終焉(1990年~2000年)
湾岸戦争の衝撃ー国際貢献への呪縛、バブル経済の崩壊、農業・農村の崩壊、
新国家主義の台頭ー「戦争」「歴史」「教科書」、地下鉄サリン事件。
・終章「新しい戦争の中でー『戦後』とは何だったのか
9・11同時多発テロとアフガン戦争、イラク戦争、「戦争のできる国家」へ、
小泉内閣は何をしてきたか、憲法改正問題、戦後とは何だったのか。
第4章より、印象深い記述を引用する。
「『(教科書を)作る会』の最大の弱点は、あまりにも自己中心的で国際性がないことにあると考えている。朝鮮植民地支配を美化し、『大東亜戦争』は侵略戦争ではなく、自衛・解放の面もあったとか国際的にはほとんど通用しない叙述を重ねている。」「『自虐』と自己批判違う。自己批判は自己満足の反対で、自己変革をとげていく高度に知的で心理的な作用なのである。」「失敗それ自体が恥なのではない。むしろ恥ずべきことは、過去の失敗に学ぼうとしないばかりか、過去を改ざんし、日本人の歴史認識を歪めようとすることである。」
そして著者は「あとがき」の中に次のような一文を残している。
「いま日本は、戦後60年で最大の岐路に立っている。私はそれを『戦争への道』か『平和への道』かの岐路と表現したが、まさしく現在は、1950年代初めの朝鮮戦争、講和論争のときを彷彿とさせる状況である。かつて歴史家の家永三郎氏は、新憲法の真価を理解できるようになったのは、憲法制定時ではなく、むしろ1950年~51年頃、すなわち朝鮮戦争と逆コースの時代であったと記している(『歴史学者の歩み』)。危機の時代にかえって歴史意識は研ぎすまされ、政治批判意識が先鋭化するのであろう。」
現代を生きるのに、必読の一冊である。