岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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信濃路に春を待つ歌:島木赤彦の短歌

2010年08月26日 23時59分59秒 | 私が選んだ近現代の短歌
・信濃路はいつ春にならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ・

 「柿蔭集」所収。(大正15年)刊。大正15年作。

 故郷の諏訪で病気療養中の作である。アララギの編集発行人は齊藤茂吉に交代していた。交代したまさにその年が大正15年であり、同年3月には永眠しているから「辞世」と考えていいだろう。

 歌意「この信濃の国はいつになったら春がやって来るのだろう。遠い西空に日没後の余光がしばらく残っている。しみじみと春が待たれることだ。」

 島木赤彦の絶詠としては、「隣室に書(ふみ)よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり」が有名だが、掲出の作品の方が、初句と二句が心情の表現、三句目以降が叙景という工夫・二句切れの強みがあるように思う。

 ともあれ静かな切実さが、景に象徴的に託されている。静かなるがゆえに一層こころを打つ。


 ほかの写生派・写実派歌人の「絶詠」「老いの歌」と比べてみよう。


・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす・(正岡子規)

  病床にありながら庭の景色を凝視している。下の句が主情的で子規としては珍しい。


・今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅の光(伊藤左千夫)

  左千夫晩年の心境があらわれている。晩年の心労がこの歌を生んだとも言われる。


・茫々としたるこころの中にゐてゆくへも知らぬ遠のこがらし・(斎藤茂吉)

  意識朦朧。塚本邦雄は秀歌として選んでいない。写実派との評価の違いが際立つ。


・杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと何時人は言ふ・(佐藤佐太郎)

  きびしく自分を客観視している。佐太郎短歌の特徴である。




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