岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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雪の降る前の静寂の歌:斎藤茂吉の短歌

2011年11月21日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・にほひたる紅葉(もみぢ)のいろのすがるれば雪ふるまへの山のしづまり・

「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」191ページ。

 先ずは語註。

「すがるれば」(「素枯る=枯れるの已然形」+「助動詞『ば』)は末枯れる頃となったので、の意。

 次に茂吉の自註。

「これは初冬伊香保で出月軍医の独逸行を祝した時に作った。・・・『雪ふる前の山のしづまり』はこれまでも幾度もこの観察をしたのであるが、此処でもそれを見て居る。」(「作歌40年」)

 短い自註だが、雪ふる予感を寒さではなく「山のしづまり」に感じたところに、僕は注目した。これも主観表現である。紅葉、色、山と「客観写生」のように見えながら、そこには作者の主観がはっきり表現されている。

「寒さ」と「雪ふるまへ」では即き過ぎている。しかし上の句の「すがるれば」はやや声調がよくないが、声調・語感は時代により、個人により差があるから、茂吉自身はさほど気にしなかったのだろう。

 このときには別に、

・笹むらは峡(かひ)をひろごりしづかなる色としなれば冬は来むかふ・

・もみぢばはすでにすがれて伊香保呂の山の木立に雪きゆるおと・

・黄にとほる松楊(ちさ)のひろ葉のもみぢ葉は現身(うつせみ)見ずて鳥は見るべし・

などの作品がある。ニ首目の「雪きゆるおと」の結句。雪が溶けて葉から落ちる音だが、これは聴覚を活かしている。「雪おつる音」でなく「きゆる音」としたのが、詩的把握である。

 この二首目の自註が注目に値する。

「その時には伊香保の山に雪が降り、一夜明けて日光が差すと雪が盛に解けた(ママ)その時の趣である。この歌は重厚なところがあっておもしろい。『木立に雪消ゆる音』は全くそのとほりであった。」(「作歌40年」)

 僕が注目するのは「全くそのとほり」の部分だ。「写実」という方法で事実を述べながら、詩としての表現の工夫がある。「暁紅」にはこのような洗練された叙景歌が多い。

 岡井隆はこう言う。

「茂吉がいちばんリアルになって、写実に近くなってきたの『暁紅』『寒雲』などの戦中期で、『赤光』『あらたま』『つゆじも』のころなどは全然違いますよ。」(岡井隆・小池光・永田和宏「斎藤茂吉ーその迷宮に遊ぶ」)




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