岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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斎藤茂吉49歳:泥酔する歌

2011年01月23日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・相よりてこよひは酒を飲みしかど泥のごとくに酔ふこともなし・

 「石泉」所収。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」P153。

 「泥のごとくに」という表現は、「泥酔」という漢語からの連想からきたものだろう。「酔ふ」は「ゑふ」と読む。

 茂吉の自註。「作歌四十年」「石泉・後記」ともにない。では他にはどうか。塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉まで」、佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」のいずれにもとりあげられていない。

 多作で生涯に1万数千首の短歌を詠んだ茂吉(佐太郎は8000余首)の作品の中には平凡な作品も多い。それでも当時としては斬新なものも多かった。これもそのひとつだろう。

 しかし僕がこの作品に注目そたのは、佐藤佐太郎に次の一首があるからである。

・電車にて酒店加六に行きしかどそれより後は泥のごとしも・(「歩道」)

 この二首を比べて見ると、茂吉と佐太郎の違いがわかる。佐太郎の作品は「酒を飲む」が省略されている。一人で行ったのか、誰かと連れ立ったのかそれも言わない。「酒店」に「行った」とだけ言って、下の句によって泥酔したことを暗示している。「電車にて」は「帰りはどうやって帰ったのだろう」という連想を呼ぶ。

 つまり佐太郎のほうが「省略・単純化・表現の限定」がよりすすんでいるのである。茂吉の作品は「相よりて」の初句により、連れだって酒を飲みに行ったことが分かるが、佐太郎の作品にはそれがない。茂吉は「こよひ」によって夜の街に飲みにいったことが明示されているが、佐太郎の作品にはそれがない。昼間から酒を飲み歩く人はまれだからである。茂吉の「酒を飲む」のかわりに、佐太郎は「酒店加六」。固有名詞が有効に使われている。なぜならこの一語によって、「夜」「酒を飲む」が暗示されるからだ。茂吉の「酔う(ゑふ)こともなし」は、「いろは歌」の「酔ひもせず(ゑひもせす)」を連想させるから、佐太郎の方が斬新である。

 期せずして、「・・・がない」を二か所使った。言葉では明言しない。これが「表現の限定」である。明言しないかわりにあるのは「暗示」。これで逆に、印象は「固定化」されず、広がりを見せる。

 佐藤佐太郎は茂吉の作品をよく読んでいたから、冒頭の一首が念頭にあったか記憶の隅にあったかどちらかだろう。つまり、佐太郎は茂吉の歌業のうえに「新」を積んだのであり、斬新さの理由はそこにある。

 その意味で冒頭の茂吉の一首は平凡ではあるが、佐太郎の代表歌のひとつの祖形とは言えまいか。




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