岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

匿名社会がやってくる

2011年01月22日 23時59分59秒 | 日本語をめぐって
匿名。これが必要なときもある。例えば、不正行為の内部告発などの場合。内部告発をした人を保護する法律だけでなく、社会全体が「告発者」を守るのを当たり前としている国もある。

 ただし基本的に発言には責任の裏打ちが必要。告発や批判という名の中傷となりかねない場合もある。いくつかのブログを見てまわり、ツイッターの「ささやき」もいくつか確認したが、特定の個人に対する批判が匿名でなされていた。これでは批判にならない。なぜなら反論ができないからだ。

 新聞や週刊誌の記事に対して、欧米では反論権が認められている。批判に対する反論を無料で掲載することを求める権利だ。議論はそのように行われなければならない。そうでなければアンフェアだ。「少数意見の尊重」というものが民主主義の原則のひとつになっているのもここに理由がある。

 民主主義は多数決だとまるで常識のように思われているが、多数意見が必ずしも正しいとは限らない。例えばガリレオ。彼は地動説を唱えたために裁判にかけられた。教会の教えに反するというのがその理由。「多数決」の結果、彼は死刑を言い渡された。ガリレオは裁判で「それでも地球はまわっている」と述べたそうだが、「多数意見」はそれを斥けた。どちらが間違っていたかは、今では明らかだろう。

 「少数意見の尊重」とは、十分な議論通じて、「少数意見が多数意見になる機会をしっかり保障する」ということだ。その上で当面の決定すべきことがらを多数決で決めるのである。少数意見の切り捨てのための多数決は数の横暴だ。

 「民主主義は数だ」と言ってはばからない政治家がいるが、とんでもない「勘違い」だ。むしろ「多数の横暴」という場合さえありうる。

 少し話がそれたが、議論の保障が民主主義の根底にある。集団の意思決定に不可欠だが、それには「誰がどのような意見を言ったか」の確認が基本的に必要となる。(ただし微妙な問題をことを荒立てないように匿名で意見表明するのはありうる。)

 短歌の世界も同じだ。結社の運営には以上のような原則が必要だ。活発に活動している結社ほど、そういう気質のようなものがある。(例えば、岡井隆著「私の戦後短歌史」P170~P172)

 一方ブログの世界。ほとんどのブログが匿名だ。記事の内容にも問題の提起のようなものも多い。その場合、匿名のブログに匿名でコメントを入れることになる。匿名のブログが悪いとは言わないが、なかには自分のブログに自分でコメントを寄せていたものもあった。自作自演はいかがなものかと思う。

 極端な例になるが、仮にどこかの宗教団体・政治団体・組織が、検索を「命令」(「指導」「導き」「おすすめ」であっても、異論をはさめない雰囲気と場であれば、それはまぎれもなく「命令」である)したとしたら、また、その「命令」にツイッターが利用されたとしたら、ブログは内容の如何にかかわらず、検索数があがる。ネット上の「世論調査」にもおなじことが言えるのではないか。ひとりで複数のパソコン・メルアドを使い、複数のブログを管理している人も稀ではない。

 いまネット上にツイッターなどを含めると匿名情報があふれている。いつの間にか特定の個人に対する中傷が広がっていたなどということはないと果たして言い切れるだろうか。

 斎藤茂吉は患者の死に際し「人間の世」に戦いた(おののいた)が、いま僕は「ネット社会の匿名性」に戦いている。



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