岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

記憶にも補正やあらんこの春に思い出ずるはみな美しき

2010年01月07日 23時59分59秒 | 岩田亨の作品紹介
ここで言う「春」とはご存知の通り、新年のこと。(「夜の林檎」所収)

ある歌人がいる。父親は出版関係の人で、俳人としても有名。娘であるその歌人がテレビで語っていた。

「私が短歌を選んだのは、父の真似をしたくなかったのと、一番苦しい時に歌に助けられたからです。」

 簡潔な言葉だが、短歌と俳句の本質的相違をあらわしているようで心に残っている。


 また、ある研究会で紹介された人は、詩人であり俳人であった。熱心なキリスト者であったそうだ。その詩人が神経を病んだ。入院することになった。そう長期間ではなかったが、「非常に苦しかった」。

 その期間、「口語自由詩・俳句は全く作れなくなった。そのかわり、短歌があとからあとから出来た。そして病が癒えたとき、あれほどあふれ出て来ていた短歌がピタッと出来なくなった。」と書き残している。

 これも短歌と俳句の違いのポイントをついていると思う。「岡井隆のホメロスの歌」を紹介した記事の中でもふれたが、ある種の物語性を込め、感情を直接的に表現できるのが短歌の特質のひとつではないかと思う。



 また、ある国文学者は言う。

「俳句は言葉の突き合わせ。短歌は情を表現するもの。」


 様々な言い方がされているが、言い方が違うだけで結局同じことを言っているように思える。死者に対する挽歌・愛する人への相聞歌はあるが、それに相当する俳句を僕は知らない。辞世の俳句はある。

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」(正岡子規)

 お断りして置くが、詩形の優劣を論じているのではない。そこをお汲みとり頂きたい。



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