1923年(大正12年)9月1日。相模湾を震源とする大地震が起こった。まさに首都壊滅という状況だったそうだが、茂吉はこれを留学先で聞き作品に残している。
・大地震の焔に燃ゆるありさまを日々にをののきせむ術なしも・
・東京の滅びたらむとおもはえば部屋に立ちつつ何をか為さむ・
・わが親も妻子も子らも過ぎしと心に思へ涙もいでず・
・ゾルフ大使の無事を報ぜるかたはらに死者五十万余と註せる・
岩波文庫「斎藤茂吉歌集」には収録されず。「斎藤茂吉全集」第一巻589ページより抜粋した。「遍歴」所収。
先ず読みから。:「大地震=おほなゐ」「焔=ほのほ」「妻子=めこ」。
関東大震災のとき、茂吉はヨーロッパ留学中だった。震災のことは9月3日(月)の夕刊で知ったと詞書にある。茂吉自身が「旅日記程度」(「遍歴・後記」)という通り、日常報告・雑報の域をでていない作品だと僕も思う。
岩波文庫「斎藤茂吉歌集」は、茂吉の作品一万数千首のなかから、茂吉の三人の弟子、山口茂吉、柴生田稔・佐藤佐太郎の三人のうち、原則として二人以上がとったものを収録している。
おそらくこの四首は三人の選者の賛同をえられなかったのか、その選からもれている。その理由を考えると社会的事件を題材にする難しさがわかる。
その1。題材が伝聞で間接的なのである。これが一番大きい。茂吉の戦争詠・時事詠の評価が低いのと同じであろう。
その2。1と関連するが、詠み方がどこか他人事なのだ。「われ」へのひきつけが弱い。
それを茂吉が歌集「遍歴」に収録したのは、茂吉自身が年代順に作品を歌集にして体系化するということにこだわったことが理由のひとつに挙げられるのではないかと僕は思う。「遍歴」の作品の制作年代は1923年(大正12年)から1924年(大正13年)だが、出版は、1947年(昭和22年)である。こうした例は「つゆじも」「遠遊」「遍歴」「ともしび」「たかはら」「連山」「石泉」にも共通する。(岡井隆「茂吉の短歌を読む」に詳しい。)また「石泉・後記」には「はじめて私の歌集は連続することとなる。」(1951年・昭和26年)とある。
なぜこれにこだわったか。これには当時のアララギの事情がからんでいるのではないかと僕は思う。戦後のアララギは土屋文明中心に動き始めていたが、斎藤茂吉といえばアララギの顔。是非とも「歌集の出版」が必要だったのではないか。広告塔の役目である。また茂吉の弟子たちにすれば、「茂吉の健在ぶり」を示すことは特別な意味があっただろうし、戦後の出版界の要請もあっただろう。「つゆじも」から「石泉」までの後記に佐藤佐太郎や編集者の名前が多く見られるのはその傍証だろう。
ところで震災に関する短歌作品だが、9月13日に「家族は無事」(Your famiry safe)という英文電報を受け取ったあとの次の作品の方が完成度としては高い。(岩波文庫「斎藤茂吉歌集」96ページ。)
・体ぢゅうが空になりしごと楽にして途中靴墨とマッチとを買ふ・
大震災・地震を直接詠んだものではないが、実感がこもっている。下の句の作者の所作により「われ」の体験と心情が接近しているのだ。「われ」への引きつけに成功していると言える。