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岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

土屋文明・小論

2011年06月22日 23時59分59秒 | 作家論・小論
斎藤茂吉の作品に次のようなものがある。

・ものみなの饐(す)ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞こゆ・「赤光」

  岩波文庫「斎藤茂吉歌集」(38ページ)「土屋文明へ」と詞書があり、「全集」には他に七首ある。そのうち三首を挙げる。

・おのが身をあはれとおもひ山みづに涙落としし君を偲ばむ・「赤光」

・夕さればむらがりて来る油むし汗あへにつつ殺すなりけり・「同」

・秋ぐさの花さきにけり幾朝(いくあさ)をみづ遣りしかとおもほゆるかも・「同」

1912年(大正元年)の作で土屋文明がアララギに入会して間もないころだから、さしずめ「歓迎の歌」だろうか。時に斎藤茂吉三十歳、土屋文明二十二歳。年の離れた「弟」へ贈る歌というところ。


 一方の土屋文明の作品には次のようなものがある。

・死後のことなど語り合ひたる記憶なく獏々として相さかりゆく・

・ただまねび従ひて来し四十年一つのほのほ目守(まも)るごとくに・

・近づけぬ近づき難きあり方も或る日思へばしおしおとして・

 岩波文庫「土屋文明歌集」209ページ・210ページ。「追悼斎藤茂吉」の詞書がある。

 斎藤茂吉は土屋文明にとって、「年の離れた先輩」「あるときは近づき難い存在」だったのだろう。「アララギ」(戦後は実質的に土屋文明の単独指導だったが)にも「斎藤茂吉追悼号」が出ている。

 だが作風はかなり違う。

「山谷集」で文明は「鶴見臨港鉄道」などにより、時代を見据えた作品をのこしている。

・横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ・

1933年昭和8年。国際連盟を脱退した日本は中国での戦闘を拡大していく。そのニュース映画を見て茂吉が「まなぶた熱くなりて」と詠嘆していたころ。土屋文明が「リアリズム歌人」になっていったのはこのころだ。

 戦後の「青南集」では、

・白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾憶這ひゆくらむか・

・旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ・

と「ビキニ水爆実験」や「安保闘争」を詠んだ。

 土屋文明にとって戦前の「山谷集」、戦後の「青南集」が代表歌集とすれば、文明は「リアリズム写生」の歌人だったと言える。「汎神論的写生」の茂吉とはかなりの距離があるが、こういう態度が戦後アララギの方向性となった。近藤芳美・岡井隆が「文明門下」から出た理由もわかる。近藤・岡井は「リアリズム」を一歩進めて「思想詠」に達したからだ。

 しかしそのリアリスト土屋文明も、日米開戦にあたっては、

・東京に天の下しらしめす天皇の大詔(おおみことのり)に世界は震ふ・

と詠んだ。思想統制がいかに激しかったかがわかる。

 その土屋文明は「アララギ」の編集発行人を長くつとめ、その牽引車となった。1991年(平成3年)に没するとほどなく「アララギ」は終刊となった。思えば島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明と伊藤左千夫の直弟子がリレーをしながら続いた「アララギ」のアンカーが土屋文明だったともいえるだろう。






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