斎藤茂吉は1912年(大正元年)から1913年(大正二年)にかけて後期印象派の絵画に親しみ、白樺派の絵画展を見に行ったという。(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)後に書かれた歌論の中でも「印象鮮明なるがよし」とも「写生とは西洋の絵でいえば印象派のようなものである」と述べている。このブログの別の記事に、「ゴッホ< 舞台・炎の人 >」というものを書いたが、齊藤茂吉が印象派の絵画を意識したのはたしかなようだ。作品にも次のようなものがある。
・ゴオガンの自画像見ればみちのくに山蠱(やまこ)殺ししその日おもほゆ・
印象が鮮明である。それも暖色系の原色のもつかなり強い印象である。これを「写生」というなら、長塚節や伊藤左千夫の「写生」とはかなり違う。衝撃的ともいえる作品である。
しかも例によって「ゴオガンの自画像」と「山蠱(やまこ)=山繭を殺したこと」がなぜ結びつくのか。それは強烈な妖艶な印象である。この一種独特の印象によって、ふたつがかたく結びつく。論理的には結びつけられない。しかし、「論理的に結びつくかどうかは、科学者の発想であって、詩の発想ではない。」とは、茂吉自身の言であったか。
こういう詠み方はそれまでの誰もなしとげなかったし、リアリズムを連想させる「写生」より、「象徴詩」に近い。もともと斎藤茂吉の「写生」は汎神論的な性格を持つから、こういう傾向は驚きをもって迎えられた。その意味で、「斎藤茂吉の< 写生 >は近代における前衛短歌であった」ともいえる。
さまざまな意味で考えさせられる一首である。