かまくら歌会2020年8月 @ネット上にて
SNSの環境の関係だろうか、数人参加できない人がいる。コロナがはやく終息してほしいものだ。
作品の出来は良かったと思う。洒落過ぎたり、飾り過ぎたり、意味がストレートに取れないものはなかった。僕の批評。深く掘り下げた作品は少なかったが、情感は出ていた。
「相聞。情感は出ている」「子どもを詠った短歌。子どもの様子がよく表現されている。」
「コロナ禍の歌。人を励ますものになっている。」「コロナ禍の歌。着眼点が面白い」
「悲しい記憶の歌。日を遡って現在形で表現されているので、一字明けが効いている」
「山手線内の歌。現代社会の切り取りとしては面白い」「忘却と幸福の歌。ルビに無理あり」
「鳥の歌。鳥の珍しい言葉に引っかかって声に出しにくくなっている。」「実感がでている」
「薩摩切子の歌。場面が目に浮かぶ。」「境涯詠。キリリとした決意が感じられる」
「歩道を歩む歌。着眼点がよい。」「宅配の若者の歌。若者への愛おしみが感じられる」
「日記的だが、肉親への愛おしみがある」「佐太郎の本歌取りだが、言葉の工夫が必要。」
だが気になったのは、日常報告的、日記的なものがまだ多い。
これは表現するときの捨象、そぎ落としが不十分なのだ。余剰を捨象している作品をまえに「曖昧だ」「一般的だ」という批評の言葉が飛び交う。無理もない。捨象というのは、大学の哲学の難解書を何度も読んで、やっと理解できた代物。これを実作に活かすには力量がいる。
大学で哲学書を苦労して読んだことがこんなところで生きている。僕としては感無量だ。
佐太郎の言葉で言えば「事実に引っ張られている。事実にしがみついている。」のだ。
