・峡(かひ)のみづしぶきをあげてもろ木々のいたいたしきまでに風はとほりぬ・
「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。
茂吉の自註。この作品に関する事のみ書き出す。
「白骨温泉は谷間にあるので、そのうへに高い山が聳えてゐる。・・・山をおろして来る強風の・・・山に突当りながら進むありさまである。」(「作歌40年」)
冒頭の作品の自註ではないので、もの言いがややずれているが、あたりの状況はよくわかる。
さらに塚本邦雄も作品の背景を次のように書く。
「十月下旬の白骨温泉は、何しろ千四百米の高地のこととて、吹く風も寒風と異なるまい。・・・所は信州南安曇郡、梓川の支流湯川を渡った湯沢に臨む。」(塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」)
長沢一作もこう言う。
「(白骨温泉50首のⅡ以降は)いずれも厳しい山のあらしを歌っている。自注にもそのすさまじさをいう一節がある。・・・一切を峻拒する荒くきびしい自然そのものが、いま眼前に吹きあれている。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
佐藤佐太郎も同様の評価だ。(「茂吉秀歌・下」)
ここまで書いて来て思うこと多々ある。
一つは、自然の厳しさを詠うこと、戦後の最上川一連の作につながるものではないかということ。「赤光」とはまるで別世界だ。
次に目に見える自然を表現しながら、客観ばかりか作者の心理、この場合自然への畏れのようなものをあらわしている。岡井隆が言いたいもの(「目に見えるものを写すことによって、作者の心理も表現出来る」)もこのことだろう。更にこの一首、「いたいたしきまで」の語が効いている。佐太郎はこれを「虚語」と言った。
最後に茂吉はこの白骨の一連50首を「写生が出来ている」(「作歌40年」)という。ここから茂吉の写生がどのようなものか分かる。「汎神論的写生」である。
