オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

何も考えない世代

2006年05月02日 | Weblog


またもや未成年者による殺人事件が起こった。

 今のところ、動機は「先生に怒られてむしゃくしゃしたから」「相手は誰でもよかった」と言うことらしい。誰でもよかったと言われて殺された被害者はたまったものではない。誰を殺すかぐらい自分でしっかりと考えて行動に移してもらいたいと言うのはあながち冗談で言っているわけではない。誰を殺すかと考えることは、何のために殺すかという目的を明確にする必要がある。目的を明確にすることで自分のやろうとしていることがいかに無意味なことかに気付くはずである。結局は何も考えていない結果、衝動的かつ感情的、その場の成り行きにまかせて行動してしまうのだろう。少しは頭を使って考える能力を鍛えて欲しいものである。

記憶や知識は直接行動に結びつかない。

 記憶や知識を駆使して自分の頭を使って考えて、自分で判断し、自分で決断し行動に移す。反対に周囲の人はその人の行動から思考能力、判断や決断能力、人格(記憶・知識)を知ることができる。自分で考え、自分で判断し、自分で決断する能力が極端に低いと、記憶や知識のまま行動してしまうし、正常な判断や決断がなされないまま感情的・衝動的に行動してしまう。自分の行動にはしっかりと責任を持つ必要があり、責任を取れない行動はやってはいけないのである。周囲の人達も本人の行った行動にはしっかりと責任をとらせる毅然とした態度が必要になる。その環境が正しい思考力を育て理性ある善良な市民を育てる。些細なことでも間違った悪意の行動を見逃す環境は、何も考えない安易で怠惰な思考能力の欠落した人種を培養してしまう。

民主主義(Democracy)とは、人民(Demos)が権力(Kratia)を所有することである。

 基本的には人民を敵にした一対多数の関係では一個人は権力に従わざるを得ないのであり、人民のために一個人が抹殺されることも常態なのである。大多数の人民と一個人がうまく付き合ってゆく関係が理想の民主主義である。もし、一個人が大多数の人民と敵対したら相当の犠牲を覚悟しなければならない。相手は多数の人民であり、一人一人を説得できないと自分の意思を通すことはできない。この関係で一個人が最終的に勝利したらこの個人は大英雄となるだろう。独裁主義では独裁者個人とうまくやってゆけば問題ないし、一個人としては一対一の関係であるので与しやすい(独裁者個人の良し悪しはあるが・・・)。

本来は、民主主義は多数の人民のために個人を抹殺できる仕組みである。

 個人が優先されるわけではない。前述の殺人を犯した少年は酷だけれども、本来であれば多数の人民のために抹殺される運命にある。そうならないために、早い時期から多数の人民のために貢献する善良な市民として育て・教育すべきなのである。善良な市民としての教育は等閑にして、個人の自由を最優先した教育に専念するため、このような事態になってしまう。日本では自分達(国民)が善良な市民を育てるという意識がないため、どうしても違和感を感じてしまうし、反対に国(政治)が善良な市民を育てようとすると拒絶反応を起こしてしまう。当然、一個人が一方的に抹殺されるわけではなく、性善説、自由平和主義、博愛主義などに擁護されてはいるが、基本的な原理は変わらないことを再認識すべきである。民主主義は冷厳なのである。


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