オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「親の考察」再び

2019年02月15日 | Weblog

親の考察で述べたけれども、

 「親」とはある個人の近しい人たちの存在である。その近しい人達に囲まれてある個人が生活している。まずはこの近しい人たちがその個人に対して行動を起こすべきだということを提起したものである。そのつながりがなくなりつつあるのではないかという危惧をぶつけた記事でもある。ただ、近しい人達に問題があるだけでなく、そのつながりを持つ個人も相互不信に陥っているのがさらに問題である。お互いに不信感を持っているのである。

隣近所に誰が住んでいるのかを全く関心がない。

 ひどい場合は隣近所が全くの他人である。例えば、お隣さんに問題があった場合、直接お隣さんに交渉することはない。公的機関に通報して対処してもらう。考えてみると、自分のお隣さんなのに、それよりも遠くの関係である公的機関に解決を要請するのである。例えば、お隣で児童虐待の兆候があれば、自分で対処するのでなく公的機関に通報して問題解決を図るのである。そんな考え方が身についてしまっている。

通報される側にとっては、

 子供を泣かせると隣近所から児童虐待と通報されるかもしれないという恐怖感を持ちながら子育てをしなければならない。むやみやたらに子供を泣かせることもできない環境が出来上がっている。近所に保育園や幼稚園ができるというと、子供の声がうるさいからと言って建設反対を主張する人がいる。電車で赤ちゃんが泣くと「うるさい、何とかしろ」と怒り狂う人達がいる。何となく余裕がないなぁと思ってしまうが、これが通常になりつつある。

自治会、PTA、子供会が機能しなくなりつつある。

 戦後の隣組みたいな関係は薄くなりつつある。隣近所との利害関係がなくなりつつあるのである。ほとんどの国民はサラリーマンで、利害関係は会社としか存在しない。会社は隣近所にはなく通常通勤距離内の別の地域にある。ほとんどが隣近所にお世話になっていないのである。利害のほとんどは会社との関係にしかない。自治会、PTA、子供会に期待する利害関係はほとんどないのである。

それなのに、自治会、PTA、子供会の負担はのしかかる。

 これでは誰も積極的に参加しようとは思わない。当然その活動は衰退するばかりである。何が悪いんだろう。はっきり言うと、隣近所の利害関係を復活すればいいと思う。隣近所の付き合いにより利害関係が増大すれば、隣近所との利害関係がなければ生活できない状況があれば、その存在感を再度見直すのだろう。そのためには、国がこれらの活動に予算を投入する必要があるんだろう。

国は地方創生と掛け声だけは言うが具体的な方策は迷走している。

 是非、自治会、PTA、子供会の振興に予算を投入してもらいたい。今のままの任意団体としての組織ではなく、国の一機関として、国の機能として有効に働く団体として国費を投入して育てていくことが必要だと思う。国費が有効に投入されれば少なくとも隣近所の利害関係が新たに生まれるであろう。自治会、PTA、子供会に参加することに大いなるメリットが生まれ、これこそ地方創世の原動力となるのではないかと思う。

昔は隣近所に個人営業の業者がいた。

 この業者は、隣近所との関係が大切であり、この関係を良好に保つことが商売繁盛につながった。そのために隣近所の付き合いに積極的であり、自治会やPTAや子供会にも積極的に協力した。ところが今は会社組織になりチェーンストアとなりで隣近所とのつながりが薄くなっている。住人も隣近所と関係ない地域と利害関係がある。これでは隣近所との付き合いは廃れるばかりである。

今は24時間営業のコンビニエンスストアがあり、深夜営業の店がたくさんある。

 隣近所に足りない物を借りに行くこともない。「コンビニで買いなさいよ」と言われそうである。会社や企業でも平気で残業や深夜労働を課す。昔であれば帰宅が遅くなれば店は閉まっていて買い物ができなかった。早く帰るのが当然だったのである。昔であれば個人の家に呼んで気楽に夕食会などもあったが、今では便利な外食で済ましてしまってそんな光景も珍しくなった。便利なのは良いが、家族同士や隣近所の付き合いも遠のくばかりである。いっその事深夜営業を止めてしまったら人間関係改善の余裕と機会と時間が生まれるのではと思ったりもする。

社会主義と民主主義の考え方がある。

 社会主義は性善説に基づいている。民主主義は性悪説に基づいている。どちらがいいとか悪いとかは言わないが、性善説に基づく社会主義が能力に関係ない平等主義のため衰退し、民主主義が弱肉強食の競争社会で極端な貧富の差を生じて崩壊しつつある現代にあって、それぞれの折衷する部分について解決策があるのではないかと思う。隣近所の中での社会主義も必要なのではないかと思う。

隣近所の力が強化されれば、

 高齢者対策も教育も災害対策も防犯も相互扶助も行政も円滑に行われる可能性を秘めている。少なくとも、何でもかんでも行政に委ねることはなくなる。そのぶん行政の負担も軽減される。問題解決のため補助金をばらまくよりももっと効果があると思われる。何もかも行政に依存するのは間違っている。国に何をしてもらうかを要求するのではなく、国のためにどのような貢献ができるかを目指す社会が望まれるのだろう。


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