オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

競争社会と再配分

2006年12月04日 | Weblog

民主主義は基本的には競争社会であり、

 自由競争ができる環境を作り出し、権力に抑圧されない社会を築き上げるのが目標である。従って社会主義が批判するように民主主義においてはそのまま放っていると貧富の差が増大し極端な金持ちと貧乏人に2局分離する。見方によっては金持ちが貧乏人を搾取しているようにも見え、貧乏人の犠牲の上に金持ちの豊かな生活が築かれていると言うこともできる。民主主義の理論で言えば自由競争の結果がもたらしたもので能力のある強者は冨み、能力のない弱者は貧しい生活を余儀なくされる。ただし、この貧富の差は制度的なものではなくあくまで自由競争の下に生じたものであるが、民主主義経済は富むものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなる社会を生み出す。その状況を打破するために貧民を中心とした「革命」思想が芽生えて行き、一旦破壊してしまわないと状況は改善されないという切羽詰まった暴力的な行動にでる。そしてこの不平不満の力を政治的な活動に利用する者が現れる。

極端な貧富の差が生じるのは民主主義社会の欠陥である。

 その欠陥を是正するのが「再配分」である。富める者はその一部を貧しい者に再配分しなければならない。この再配分の機能が働かないと貧富の差が増大し最下級の貧しい者は生死をかけて「革命」「暴動」「テロ」を起こすしかなくなる。これは富める者にとっても貧しい者にとっても不幸である。冨を独り占めすることは多くの敵を生み出すことでもあるが、これを再配分すれば敵を作ることはなくなる。再配分と言っても「冨を手放せ」と言っているわけではない。経済活動の目的を金儲けだけでなく再配分にも重点を置く考え方が必要だと言っているのである。会社を起こせば社員への再配分を考え、雇用を増大し、貧しい者への再配分を考えながら会社経営をするのである。会社が再配分機能だけで運営されても存在意義は十分にある。金儲けは二の次であり、会社の利潤を再配分しても経済競争には生き残ることができる(経営はできる)。

しかしながら、再配分を前提として民主主義が成り立つわけではない。

 あくまでも再配分は民主主義の調整機能に過ぎない。貧しい者が再配分を強要することは強奪行為に近いし、その不満を「テロ」という形で表出すれば脅迫行為、暴力行為である。再配分の調整機能を活用して貧しい者もしっかりと自立できる基盤を築かなければならない。自立を助けるための再配分であり、再配分に依存しきってしまうことは本来の目的ではないし、「やってくれない」「十分でない」「もっと欲しい」といった不満をぶちまけるのは本末転倒でもある。最も理想的な形は、富める者が自主積極的に再配分に協力することであり、自分の冨を社会に還元しさらなる発展のために貢献することはすばらしいことであり、そのこと自体が最終目標ではなかろうか。ある程度の蓄えは必要であるが、それ以上は冨を抱え込んでいても社会の発展には何も役立たない。

事業を起こして経営すること自体が冨の再配分である。

 その事業によって創出された雇用は多くの人達に冨を還元する。儲けはなくてもこの事業を維持するだけで社会的な貢献をしていることになる。当然ながらこの労働によって生み出された製品は多くの人に幸福をもたらす。結局社会に有意義な事業を行うことは二重の貢献をしていることになる。これが金儲け主義に走ると、労働者を搾取し、金儲けさえできれば社会的貢献なんて目もくれないという経営に陥って行く。このような悪徳な事業は多くの敵を作り社会から見放されることになる。何のために金儲けに突っ走らなければならないのだろうか?金の魔力であろうか?

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