オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

道徳とか倫理とか常識とか理性とか

2022年04月09日 | Weblog

家事の分担で私としては違和感がある。

 夫婦二人だけになって、分担も何もないのだけれども、私としては決めつけてしまうことに違和感がある。やっていることは義務感と強制であることにやっていて嫌になる感じがある。一体なんだろう。それぞれの育ちの違いもあるだろうし、考え方の違いもあるのだろう。元々が他人であった夫婦であるので、お互い別の個性を持っていることに異論はないが、その個性が衝突するのである。

私の考え方では、目の前にやるべきことがあったら当然やるべきと思っている。

 ところが私の糟糠の妻は、自分がやることと、やってもらうことを条件をつけて計画的に最初から決めて、その通りにやろうとする。仕方ないのでその通りに従っているが、やっている方としては何か変であるという気持ちのままである。何が変なのかというと、私は生まれた時から、男の仕事と女の仕事が区分された環境で育った。そして、男も女も最大限自分の領域の仕事を一生懸命こなしていたのである。

そして、自分の領域の仕事ができなくなった状況で、男も女も領域を超えて仕事に手を出すことになる。

 その時、男も女もちゃんとそれなりに仕事をこなすのである。目の前に困った状況があれば男であろうと女であろうとその仕事をこなすのである。そのような環境で小さい頃から育った記憶がある。女の人が女の人の仕事の領分で一生懸命頑張っていることに感謝こそすれ、手を出すことはない。男の人の仕事についても同じである。そんな感じでお互いの領分が決まっていた気がする。

ところが、現代の夫婦の役割分担はちょっと変わっている。

 家事は何でも分担すべきだという考え方から出発している。家事は女のやるべき領分であるが、男も当然分担すべきだと思っている。そして夫婦で和気あいあいと家事をしているのが理想とされる。なんか違うのではないかと思う。もしかしたら男としてすべき仕事をあまりやっていないために少しは家事もやれという女側からの主張かもしれない。それにしても男の仕事をちゃんとこなしている私には違和感がある。

そして、義務的に分担作業をこなしている時に何か虚無感がある。

 その時、我が糟糠の妻は全く気にもしないで当然のごとくゆったりとソファで寛いでいるのである。そうだったら自分でやれよ、といつも思いながら妻のために我慢して家事をこなしている。それでは、男の仕事を妻が分担しているかというと、全く任せっぱなしで手を出すことはない。最初から無理だと諦めている。義務感だけでやるのは虚しいものである。目の前にやるべき仕事があってその仕事をこなしたことに対して感謝の言葉があった時嬉しい気持ちが生じる。

何でも同じだが、

 目の前にやるべき仕事があって誰もやる人がいない時、率先してやることが素晴らしいのであって、義務感だけでやっては苦痛以外の何者でもない。その時は損得勘定も何もなく、たぶん困っている人がいるだろうからやっているのであり、困っていた人に感謝されればそれだけでいいのである。何故やるかというと、困った人がいるからである。困った人を助けるためである。助けられる人が助けてやるだけである。何度も言うが決して義務感ではない。

例えば電車の座席で考えてみると、

 優先席があるが、優先席だから席を譲れと言うのもなんかおかしい。優先席でなくても目の前に困っている人があれば率先して席を譲るのが通常である。優先席ではないから困っている人を前にして席を譲らない行爲はなんだかおかしい。私なんか、電車に乗って座っている時は周囲に困っている人はないかと気を配って、何かあったら即座に対応しようと思いながら過ごしている。これは一方的な私の思い込みかもしれないが、自然の行爲である。

義務感にしてしまうと、やる方もやられる方も白けた状況になる。

 やる方はイヤイヤだし、やってもらう方も当然だと思ってしまう。なんか味気ない。そうなんです、味気ないんです。だから私として違和感があるんです。やってやっても感謝の言葉もないんです。これってなんかおかしくないですか?何よりも「やってやる」という感覚でさえおかしい。やってやる、やってもらうの感覚ではないだろう。自発的にやって、その行為に感謝してもらうことが最高である。ただし、感謝の言葉がないこともある。それでも他人のために貢献したことで十分なのである。

ちょっとした夫婦間の違和感から発展したが、

 重要なことのように思う。いろいろなことで義務感から発して行動していることが多いが、是非その前の何のために行動を起こしているのか、何故行動を起こしているのかをもう一度考えてみてほしい。そして、目に見えない道徳とか倫理とか常識とか理性とかは結局は義務感ではないことである。目の前に困っているであろう人のために自分が何らかの貢献をしてやることに対する現実的な行為なのである。その行爲に対して受ける側は是非感謝の意を表してもらいたいものである。


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