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あんなこと。こんなことがありました。

NTT労組退職者の会神奈川県支部協議会の活動状況をご報告致します。

児童労働撲滅キャンペーンPRチームと学ぶスタディツアーに参加して

2012年09月25日 | Weblog

 

 

       NTT労組 神奈川グループ連絡協議会

    フィリピンフィールドワーク 2012 に参加して

             (9月8日~9月13日)

 

フィリピンの国ってどんな歴史があるのでしょう

イスラム時代 1450年~1564

1543年      スペイン船団、サマール島とレイテ島に到着、これら諸島をフェリベス 

皇太子にちなみラス・イスラム・フェリピナスと命名

 

スペイン植民地時代  1565年~1901年   

1565年 ミゲル・ロペス・デ・レガスビの遠征隊、メキシコからセブ島に到着し占領

スペイン植民地確立

1762年   イギリス、東インド会社の軍がマニラ占領

1898年      米西戦争勃発、米軍マニラ占領。エミリオ・アギナルド・カビーテでフィリピン

独立を宣言。パリ条約でスペイン、フィリピンを米国に売却

1901年      民政府発足、タフト初代総督。エミリオ・アギナルド逮捕。フィリピンはアメリカ

の主権の下におかれる。

 

アメリカ植民地時代  1902年~1934

1902年      米会議にて、フィリピン組織法成立。ルーズベルト大統領、フィリピン平定宣言。

 

独立準備政府(コモンウエルス)時代 1935年~1945

1935年      米自治領政府(独立準備政府、フィリピン・コモンウエルス)発足

1941年      フィリピン軍、米極東軍(USAFFE)に統合。日米開戦

1942年      日本軍マニラ占領。マニュエル・ケソン、コレヒドールを脱出し米で亡命政府樹立

バターン陥落(バターン死の行進)。コレヒドール陥落。ウエインライト将軍、降伏宣言。

1943年      フィリピン共和国(第2次共和国)成立。ホセ・P・ラウレル大統領

1944年      レイテ沖海戦。米軍レイテ島へ上陸。マニュエル・ケソン死去、セルヒオ・オスメニャ

亡命政府大統領に。

1945年      米軍マニラ占領(コモンウエルス政府マニラへ)日本無条件降伏。

     ホセ・P・ラウレル、亡命先の日本で共和国を解散。米自治領政府復活。

■第二次世界大戦、フィリピンと日本の関係

 バギオ島と北ルソンは第二次世界大戦の激戦地と日本軍の降伏の地として知られています。

■  フィリピンと日本(太平洋戦争)

バターン死の行進は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島で

日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が収容所に移動するときに多数死亡

したことを言う。

 

 9月8日   成田(JL741/9:30発) マニラに向けフライト

          文教大学 堀内先生がマニラ空港にて迎いて下さり、それより

          プレダ基金に向かいました。オロンガポ市到着(宿泊地)

         (ここの管理をなさっています牧師さんに挨拶に伺う)

※ (プレダ基金とは:最も古くから行っている、中間生産者団体であり、この上にWFTOがおかれている)

        ※ WFTOの定義:パートナー・尊敬・国際・生産者との貿易環境問題

          これらに達した団体が加盟している。

         ※ WFTOの組織

         1、 生産者と貿易の手段

         2、 75カ国 450名のメンバーで構成

         3、 小企業の生産者の改善

         4、 マーケティングにつなぐ役割

           その他に10の原則とかいろいろな条件があります。

 9月9日   プレダ基金よりフェアトレード工場見学

 ※ フェアトレードとは(1974年にヨーロッパの支援により立ち上げた施設)

         1、市場へのアクセスの活動・マーケットを作る・バイヤーの発掘(共同組合組織)

         2、第3世界のバイヤー発見(アジアの中で)セールスのミッション発掘

         3、フェアトレードの促進

         ※ 日本はフェアトレードに加盟しておりません。

         工場とはいえ、貧困層の女性が働く場であって(ジュースの空き袋を再利用しバッグをつくりプレダに納品する)

ジュースの空き袋

 

上の写真の袋がバックになりました

         見学後、少数先住民族のすむMAO村に向かいます。

         途中、村人に食事の提供をするため、市場で買出しを行いました。

村に持参する食料の買い出し

         その後ジムニーという車に揺られること何時間あったでしょうか?

         隣のに行くには幅の広い川を横断します。(私はカラバオで渡りました)

         村に到着

村の子供達

         電気も無い・水道も無い・風呂も無い・・ないないづくしの世界     

         まず村内を見学・小学校・幼稚園(土間に椅子があり屋根は草葺き)

民家

 

小学校

         日本の戦前の様子:私の世代でも図り知れない世界でした。

         学校終了後の、子供たちにおかゆを提供し、おなべの底のおこげまできれいさっぱりたいらげました、

         日本からの菓子も大変喜ばれました。

         夜はホストファミリーとお酒を交わしこうりゅうをはかりました。

 9月10日 村の見学をし、提供された図書館の建物を見に行き、扉をあけ中にはいる。

工事中の図書館

        工事進行中の様子、 NTTからの図書の贈呈式を行いました。地元の工事の方々が

        コンクリートを塗る作業をしており、着々と進めている様子。

        午後MAO村を出発、これよりプレダ基金が支援する少年が保護されている施設を訪問しました。(青少年の家と呼びます)

        ※フィリピンには少年院はなく低年齢でも処罰を受けた子供は刑務所行きとなる。

         プレダ基金が、この子供たちを刑務所から救い、ここで自立できるよう指導する。

         (青少年の家にいられる期間は8ヶ月~12ヶ月まで)

青少年の家

         この建物はドイツのNPOが作ったそうです、とても明るくて、洋風の素敵なつくりです。

         日本の少年院のような厳格な指導はなく開放的でした。

         ※ 刑務所に入る大きな原因は

         貧困による人身売買・売春・買春がウエイトを示しているようです。

         見学後 プレダ基金にもどり宿泊する。

  9月11日 午前 プレダ基金よりマニラに戻る(移動時間は車の渋滞により想像を絶する)

        午後 スモーキーマウンテン見学・スラム街視察

        ここで貧困層の生活を肌で感じ、実際にお宅を訪問し話を伺う

        政府がゴミの山で生活していた住民に建てたアパートにも立ち寄り話を伺うことが出来た。

        ここにも沢山の問題が残されておりました。

        また、日本大使館に行くことも(石橋議員のはからい)でき、フィリピンの行政・経済等について伺いました。

        夜は元ILOフィリピン政府高官カメロ氏を囲んで夕食会が開かれました。

 9月12日 午前 フェアトレード見学、フェアトレードについて学習をした。

        (日本で販売するための商品を買い求める)

        午後 MANOMANOの戦没者の公園に寄る。

                   夕食:解散式

 9月13日 午前 ホテルを出発マニラ国際空港へと向かい帰国となる。

 

       このスタディツアーは本当に実のあるものでした。個人では経験の出来ないことが沢山あり

       おくの深い体験学習の場でした。この体験を一人でも多くの人々に語り、支援の道を開きたい

       と望まずにはいられません。帰国後いろいろな場所で広め活動しようと思います。

                                          

                                                退職者の会    明珍記

 

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