嘉手納基地(嘉手納飛行場)
1944年に旧日本陸軍航空本部中飛行場として開設されたが、1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍は」ただちに同飛行場を占領。その後整備拡張を行い、大型爆撃機が離発着できる滑走路を完成させた。それ以降、再編統合や部隊の配備、撤退は繰り返され、現在は陸軍、空軍、海兵隊、四軍全部の任務を支援しています。
嘉手納飛行場は、沖縄本島中部の嘉手納町、北谷町、沖縄市にまたがる地域で、AB2本の滑走路(A滑走路3689m、B滑走路3689m)有し、面積は羽田航空の1.6倍、極東で最大かつ活発な米軍基地である。
かまぼこ形の建物はジェット機(F-15イーグル戦闘機等の格納庫)
ベトナム戦争の激戦期には、B52戦略爆撃機がナパーム弾や枯葉剤を含んだ爆弾で、ベトナム人を苦境に陥れ原爆にも匹敵する大きな被害を出しました。現在でも、枯葉剤による影響で、奇形児が生まれ、両親を不安に陥れています。
F-15イーグル戦闘機や特殊作戦機の離着陸で、その騒音は壮絶なものでした。
普天間飛行場
宜野湾市の中央部に位置する普天間飛行場は、戦前、集落が点在するのどかな農村地帯だった。しかし、1945年4月、米軍による沖縄占領と同時に強制収用され、米陸軍工兵隊が日本本土決戦に備え滑走路を建設した。戦後は基地の周辺に元地主が周囲に張り付くように住宅を建て住んでいる。現在ではヘリ部隊が中心として配備された。さらに、米軍の一方的にオスプレイが配備され格納庫右側に1機だけオスプレイが見える。
住宅地のど真ん中に位置する普天間飛行場、沖縄国際大学ヘリ墜落事故でも分かるように、墜落事故が発生すると、沖縄住民に多大な被害が被ることから沖縄県民の猛反対にあい、政府は辺野古への移設を決定したが、県民の多数は反対しており、私たちも辺野古への建設は絶対反対の立場で沖縄県民とともに行動を盛り上げなければと強く感じました。
私たちは翌26日、沖縄から帰ってきましたが、その日の夕刊を見て目を疑りました。自民党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」での発言には怒り心頭です。私(73才)より若い議員が戦争体験もないのに、ああいう発言は如何なものか。自民党の重鎮は何してる!若手議員は沖縄の置かれている環境をどう思っている?沖縄の戦跡を巡って、あの戦争を辿ってみれば、あのような発言はできないはずだ!
たまたま戦跡めぐりで、九州や島根県の中、高校生が修学旅行で戦跡を訪問していました。その中の数名の子供たちに感想を聞いてみましたが、戦争の悲惨さ、残酷さ、怖さとの感想は聞きましたが、これから戦争にならないためにはどうしたらいいの?と聞きましたが困った様子でした。一人の男子学生は「集団的自衛権はないほうがいい」とのことでした。
(写真・文責久保川)自民党云々の部分は私個人の感想です。不都合があれば削除します。コメントの大半は、「第23回沖縄ピースすて~じ」の学習資料から要約して転載しました。