あんなこと。こんなことがありました。

NTT労組退職者の会神奈川県支部協議会の活動状況をご報告致します。

情報労連2015沖縄ピースすてーじに参加しました(米軍基地編)

2015年06月30日 | Weblog

嘉手納基地(嘉手納飛行場)

1944年に旧日本陸軍航空本部中飛行場として開設されたが、1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍は」ただちに同飛行場を占領。その後整備拡張を行い、大型爆撃機が離発着できる滑走路を完成させた。それ以降、再編統合や部隊の配備、撤退は繰り返され、現在は陸軍、空軍、海兵隊、四軍全部の任務を支援しています。

 

嘉手納飛行場は、沖縄本島中部の嘉手納町、北谷町、沖縄市にまたがる地域で、AB2本の滑走路(A滑走路3689m、B滑走路3689m)有し、面積は羽田航空の1.6倍、極東で最大かつ活発な米軍基地である。

かまぼこ形の建物はジェット機(F-15イーグル戦闘機等の格納庫)

ベトナム戦争の激戦期には、B52戦略爆撃機がナパーム弾や枯葉剤を含んだ爆弾で、ベトナム人を苦境に陥れ原爆にも匹敵する大きな被害を出しました。現在でも、枯葉剤による影響で、奇形児が生まれ、両親を不安に陥れています。

F-15イーグル戦闘機や特殊作戦機の離着陸で、その騒音は壮絶なものでした。

普天間飛行場 

宜野湾市の中央部に位置する普天間飛行場は、戦前、集落が点在するのどかな農村地帯だった。しかし、1945年4月、米軍による沖縄占領と同時に強制収用され、米陸軍工兵隊が日本本土決戦に備え滑走路を建設した。戦後は基地の周辺に元地主が周囲に張り付くように住宅を建て住んでいる。現在ではヘリ部隊が中心として配備された。さらに、米軍の一方的にオスプレイが配備され格納庫右側に1機だけオスプレイが見える。

住宅地のど真ん中に位置する普天間飛行場、沖縄国際大学ヘリ墜落事故でも分かるように、墜落事故が発生すると、沖縄住民に多大な被害が被ることから沖縄県民の猛反対にあい、政府は辺野古への移設を決定したが、県民の多数は反対しており、私たちも辺野古への建設は絶対反対の立場で沖縄県民とともに行動を盛り上げなければと強く感じました。

私たちは翌26日、沖縄から帰ってきましたが、その日の夕刊を見て目を疑りました。自民党の若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」での発言には怒り心頭です。私(73才)より若い議員が戦争体験もないのに、ああいう発言は如何なものか。自民党の重鎮は何してる!若手議員は沖縄の置かれている環境をどう思っている?沖縄の戦跡を巡って、あの戦争を辿ってみれば、あのような発言はできないはずだ!

たまたま戦跡めぐりで、九州や島根県の中、高校生が修学旅行で戦跡を訪問していました。その中の数名の子供たちに感想を聞いてみましたが、戦争の悲惨さ、残酷さ、怖さとの感想は聞きましたが、これから戦争にならないためにはどうしたらいいの?と聞きましたが困った様子でした。一人の男子学生は「集団的自衛権はないほうがいい」とのことでした。

(写真・文責久保川)自民党云々の部分は私個人の感想です。不都合があれば削除します。コメントの大半は、「第23回沖縄ピースすて~じ」の学習資料から要約して転載しました。

 

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情報労連2015沖縄ピースすてーじに参加しました(戦跡めぐり)

2015年06月29日 | Weblog

 嘉手納基地周回行動も予定通り12時には昼食休憩地(八重島公園)に到着、昼食休憩になりました。私たち退職者の会メンバー9人(大阪地区協の退職者の会メンバー2名が合流)は午後体調を考慮し別行動をとりました。

沖縄戦とは1945年3月下旬から8月までの戦いをいう。3月23日、米艦隊」が沖縄本島の南海上に出現、激しい空爆を開始、翌日から徹底的な砲爆撃をあびせた。特に座間味・慶留間・渡嘉敷の島々では住民の集団自決が発生、孤島の戦闘の惨劇がはやくもあらわれた。4月1日以降沖縄本島南部を攻撃した。この間、守備軍の主力は宜野湾~浦添の丘陵地帯に地下深く陣地を構えて息を潜めていた。守備軍は首里城に司令部を置き、主力部隊を首里周辺に配置していたが、2カ月の激戦の末、守備軍の主力部隊は壊滅状態となり、5月末、首里城は陥落した。だが、残存部隊はなお島の南端まで退いて抵抗したが、6月初旬、東西7Kmの喜屋武半島には約3万の残存兵と避難住民が袋のネズミになっていた。6月18日に米軍のバクナー中将が牛島司令官に降伏告状を送ったが、牛島司令官はこれを拒否した。しかし、司令官は第10方面軍宛に決別電報を打電、19日には「各部隊は各地における生存者の中の上級者を指揮し最後まで敢闘し、悠々の大儀に生くべし(天皇のために死ね)」という軍命令を下し自決した。日本側の戦没者18万8136人、県外出身日本兵戦没者6万5908人、沖縄県出身軍人軍属2万8228人、戦闘協力者住民5万5246人一般住民3万8754人、米軍の戦没者1万2520人であった。

旧海軍司令部壕 戦争中の昭和19年(1944年)に日本海軍設営隊によって掘られた施設で、かまぼこ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固められた地下陣地には4000人の兵士が収容された。

資料展示館

壕内部

壕内部医療室

 

嘉数高地の戦闘(嘉数高台公園) 日本軍は、嘉数高地に防衛拠点のひとつとして、強固な洞窟~トンネル~トーチか陣地を構築していた。4月8日からこの嘉数・西原で待ち構えていた日本軍の激しい抵抗にあい、以後16日間も一進一帯の攻防戦を展開した。

 

生死を分けたガマ(壕)

糸数壕(アブチラガマ) もともと糸数集落の避難指定壕だったものが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、米軍上陸には南風原陸軍病院の分室となった。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270m壕は600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。全長270mもある糸数壕には小川も流れており、軍は壕の中間辺りに井戸を掘り大かまど6個も作り、長期戦に備えた。しかし、部隊は米軍上陸を予期し、部隊は中部戦線に移動。放置された地下陣地は付近の住民の避難壕としてりようされた。糸数壕は軍の食糧、軍靴などの大倉庫ともなっており、数名の兵士がその管理にあたった。4月24日には、糸数壕は南風原の陸軍病院・糸数分室としても利用されることになり、軍医・ひめゆり学徒とともに重症患者が多数担ぎ込まれてきた。壕内には集落内の製糖工場を分解してきて2階建ての病室などが作ってあった。負傷兵の数は増していき、1000名近い患者たちで地獄のようなありさまだった。

5月25日ごろ、米軍が南下。病院は解散。重症患者などは青酸カリで処置。病院が撤退したあとは、糸数の住民役200人と生き残った負傷兵、日本兵がガマで雑居。

6月1日前後 米軍の馬乗り攻撃(注 地下陣地や壕の上を乗っ取り、洞口から爆雷を投入したり、洞口に向けて火炎放射するなどの攻撃戦法)にあう。年寄り、子供に多数の死者が出た。糸数壕内では、米軍が洞窟内まで進出してきたら200名近い軍民は全員自爆する予定で爆雷を準備していた。

8月22日 生き残った住民200人と負傷兵は、米軍の投降勧告に従って壕を出た。

私たちは、この壕を見学し無言のまま壕を出て来ました。あまりにも無残で残酷な仕打ちを、旧日本軍が行った行為に腹立ちさを覚えやりきれない気持ちとなりました。(このような壕のため亡くなった御霊に対しカメラを向けることができませんでした。壕内が撮影禁止となってますが・・・)

ひめゆりの塔

第三外科壕跡

沖縄県立師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒たちによって編成された看護部隊「ひめゆり学徒隊」。彼女たちは軍とともに最後まで行動し、献身的に看護活動にあたった。激戦のなかで、多くの生徒が砲弾に倒れ、あるいは自決を余儀なくされた。終戦後まもなくの1946年4月に第三外科壕跡に良好の戦没者が祀られた。

平和祈念公園

沖縄復帰記念事業の一環で、沖縄戦跡国定公園の中心として整備された。敷地内には沖縄平和祈念堂、沖縄県平和祈念資料館や平和に礎、慰霊碑などを有する緑豊かな祈りの場。

毎年、6月23日、沖縄「慰霊の日」と定めて慰霊祭が催されている。

魔文仁丘

沖縄戦跡国定公園の中の魔文仁丘周辺は平和祈念公園として整備されている。その中心を成すのが魔文仁以下である。ここは沖縄守備軍が最後に軍司令部を置いたところで牛島満司令官と長勇参謀長が自決した所。いわば帝国陸軍の最期を象徴するような戦跡である。

平和の礎(へいわのいしじ)

平和の礎には、沖縄戦で犠牲となった沖縄県民、国内外すべての人々の氏名が刻まれている。

平和の礎の植栽

沖縄の方言では「クファディーサー」と呼ばれているモモタマナ。最近では街路樹とした植栽されているが、昔はお墓のみに植えられていた。「ハガキー」とも呼ばれている。ここには各都道府県の慰霊塔・碑が建立されている。

逓魂の塔(慰霊祭)

沖縄戦で犠牲となった逓信職員428柱を祀る逓魂之碑。

慰霊祭は参加者全員で、恒久平和を実現するため黙祷を捧げた後、主催者を代表して、春木中央本部書記長より「平和は誰かが創ってくれるものではありません。一人ほとりがその気にならないと絶対に訪れません。今日参加されたみなさま方は本当にその思いを持ち続けて頂くこと。そして行動に移していくことをこの『逓魂之塔』に捧げていただきたい」との挨拶があった。引きつづき代表者による焼香と献花を行い、各組織代表より献鶴台へ千羽鶴。(退職者の会では久保川さんと星さん(宮城協議会)が献鶴した。)

退職者の会参加者全員で記念撮影を行いました。

戦跡めぐりは体力的にも疲れましたが、精神的なプレッシャー大きかったです。

 

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情報労連2015沖縄ピースすてーじに参加しました。その1

2015年06月27日 | Weblog

 6月23日、「2015沖縄ピースすてーじ」が開幕した。午後3時から 連合「2015沖縄平和集会」が開かれ冒頭、語り部の中山さんから、沖縄戦における婦女子の悲惨な行動など15分のビデオ報告がありました。

第1部「これからの平和運動と次世代への継承を考える」をテーマにコーディネータと4名のパネラーから取り組みについての報告提案が行われました。

第2部では参加者全員が戦争で亡くなられた御霊に対し黙祷を捧げました。

 

続いて主催者を代表して古賀連合会長から「戦争の悲劇について次の世代へと語り継ぎ、二度と戦争の悲劇を繰り返さないと固く誓いあいたい「とあいさつがありました。

また、地元沖縄を代表して、連合大城会長から「いろいろな経験をして、それぞれの地域における平和行動に生かしてほしいとのあいさつがありました。

平和集会終了後、那覇市民会館中ホールにおいて「2015沖縄ピースすてーじ」が開幕し、全国の情報労連傘下構成員330名(退職者の会からは7名が参加)参加した。戦後70年祈念講演では、NTT-OBの「照屋恒」さんから「学徒疎開船対馬丸の悲劇」と題してビデオ(海よいのちよ)と沈没事件の証言者としての講演が行われました。講演では照屋さんが母とあねを亡くした沈没事件の真相に全員が熱心に聞き入っていました。

団結式は、石渡中央本部執行委員の司会ではじまり野田中央執行委員長から、「観光地ではない沖縄の姿を目で・耳で・肌で感じ、家族・職場に伝えていただきたい」等のあいさつがありました。

続いて地元を代表して、砂川実行委員長は「戦後70年の今年は、これまで築いてきた平和主義を守るのか?それとも捨て去ってしまうのか?大きな岐路に立っています。「2015沖縄ピースすてーじ」を通じて『戦争の悲惨さ、平和の尊さ』を全国に発信していきましょうとあいさつがあり、

吉川さおり参議院議員から国会の情勢報告と「これからの3日間の行動を通じて平和を考えるとともに、政治にも目を向けてほしい」とのあいさつがありました。

最後に、野田中央執行委員長の「平和!平和!平和のため、情報労連一致団結してがんばろう!」と力強い団結ガンバロウでい日目の行動が終了しました。

2日目は、「嘉手納基地集会行動・慰霊祭」の日程でデモ行進と慰霊祭の開催です。午前8時那覇市内のホテルから8台のバスに分乗、嘉手納町の米軍嘉手納基地に隣接する兼久海浜公園へ。8時50分出発式があり、行動の説明と団結ガンバロウのあと更新に移りました。

平和行動は全行程17Kmですが、退職者の会の行動は約10Kmで午後の行動は別行動となりました。残念ですが行進の写真は固く禁じられたため撮影することが出来ませんでした。(写真、文責久保川)                        

 

 

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しんがりは横須賀地区です(交流会報告)

2015年06月21日 | Weblog

3月の横浜・川地区から始まった地区交流会、最後は6月20日(土)の

横須賀地区交流会です。

梅雨の時期ですがお天気に恵まれ、85名の参加者が会場となった平成町の教育会館に

集まりました。内容は前の3地区と同じなのでなるべくダブらないように報告します。

交流会は井上横須賀地区副会長の司会で進められ、最初にNTT労組退職者の会

神奈川県協議会、磯村会長より主催者を代表して挨拶がありました。

井上副会長の司会で進行

磯村会長の挨拶

①東日本大震災の復興はまだまだ継続した支援が必要、私たちも福島の産品を

 購入するなどあらゆる機会を捉えて復興支援に協力していこう。

②戦後70年、天皇皇后がパラオを訪問したり、瀬戸内寂聴さんが最近の日本の状況は

 怖い戦争にどんどん近づいているような気がするなどと安全保障関連法案に抗議するなどの中

 安倍首相の行動は許すわけには行かない

③来年から選挙権が18歳に変更された、来年の参議院選挙では孫にも呼びかけて

 「石橋みちひろ」を必ず当選させよう

などと挨拶がありました。

続いてNTT労組神奈川グループ協議会、宮城事務局長よりNTT東日本を取り巻く

現状などについてあいさつがありました

挨拶する宮城事務局長

来賓挨拶は、先の地方自治体選挙で2期目の当選を果たした長谷川昇市会議員(長谷川顧問の

お子さん)から御礼とこれからの活躍を誓う挨拶がありました

 

報告・連絡事項は徳永事務局長より①東日本大震災の復興支援 ②平成27年度の年金額に

ついて ③ボランティア「小さな愛の会」について ④その他・1000万署名の集約結果・戦争体験

記事の募集・石橋みちひろ2期目当選に向けての協力依頼などの報告が行われました。

報告・連絡事項は徳永事務局長

 

小休憩の後は今年の学習会テーマは「相続・生前贈与における保険活用の効果」と題し

テルウェルライフアシストの「下條彩夏」さんを講師にパワーポイントを使い平成27年1月1日より

相続税及び贈与税の税制改正により相続税の基礎控除が引き下げられ非課税となる金額が4割も

引き下げられたので、相続税対策を考えておく必要があるなど1時間にわたり話を聞きました。

相続の話は一人ひとり内容が異なるので聞きたいことはテルウェルライフアシスト(0120-415476)に

電話して相談しましょう。

学習会の講師は「下條彩夏」さん

学習会の後はお楽しみの懇親会、会場の準備で少し休憩した後に開始

懇親会の司会は横須賀地区担当の松永幹事、乾杯の挨拶は及川顧問にお願いしました。

懇親会の司会をする松永幹事

乾杯の音頭は及川顧問

参加者の皆さんは昔の仲間との楽しい話に話も弾んでいました

楽しい懇親会の光景

楽しい時間はすぐに過ぎるもの、1時間30分の交流会はあっという間に閉会の時間

閉会の挨拶は「長谷川顧問」にお願いしました

閉会のあいさつをする長谷川顧問

横須賀交流会の会場は平成町の教育会館、会場の整理から後片付けまですべて自前でやります

閉会後みんなで協力し、午後5時無事に今年度の横須賀地区交流会をお開きにすることが出来ました。

 

 

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連合神奈川 労働者派遣法 強行採決に対する抗議行動へ参加

2015年06月20日 | Weblog

連合神奈川より昨日衆議院本会議で、自民、公明と次世代の賛成多数で可決された労働者派遣法改正案に抗議する行動に神奈川シニア連合へ参加要請があり神奈川シニア連合から5名が参加しました。6月20日(土)11時から横浜駅西口・高島屋前街頭で「労働者保護ルール改悪STOP」のビラ配布と連合神奈川・柏木会長、民主党神奈川県連・金子代表、民主党神奈川県連・牧山副代表、神奈川県会議員・松崎淳(情報労連組織内)議員他多くの地方議員、民主党総支部長、弁護士等がマイクを握り、今回の改悪法案は◎派遣はずっと派遣のままで働く仕組みの導入!本来、派遣は臨時的・一時的であるべきところ、政府は派遣社員をずっと派遣のまま働かせる仕組みを導入しよとしている。◎派遣社員の根本的な処遇改善策が講じられていない!派遣先の社員と同じ仕事をしている派遣社員は、賃金などの労働条件が派遣先の社員と同じであるべきである。この「均等待遇原則」は韓国や中国にある派遣労働者の共通ルールだが、政府は「日本では無理」とあっさり見送っている。このままでは若者の仕事は派遣社員ばかりになってしまう。不安定雇用・低賃金の派遣労働者をこれ以上増やすべきでは無い等。そして、この法案可決の内容が本日の新聞に掲載されている良く読んで欲しいと訴えました。私達の孫が就職する時に派遣の職場しか無いことには絶対してはなりません。

神奈川シニア連合の応援行動(他に1名の方は街頭でビラを配布しました)

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第2回撮影会を行いました

2015年06月13日 | Weblog

 6月11日、暦のうえでは「入梅」となっていますが、天気は高曇り。ときどき日が差す蒸し暑い日でしたが、JR衣笠駅には、写真愛好家ら11名が集いました。「横須賀しょうぶ園」での撮影会です。

衣笠駅からしょうぶ園までは約3Km10名が歩くことにしました。35分でしょうぶ園に到着し、入園料を払って入園、2時間の撮影時間をとり、各々が花しょうぶ撮影を目的に散っていきました。

しょうぶ苑には菅笠に着物、たすき掛けの娘?さんが咲き終わった花を摘んでいるポーズは、多くのアマチュアカメラマンの注目の的。

花しょうぶは見ごろを迎えています。平日というのにかなりの人だかりです。

存分に花しょうぶをお楽しみいただけたでしょうか。12時30分には撮影会終了。休憩所で昼食の時間。

昼食休憩後、1時には解散となりました。

今後の予定  7月3日(金)湘南平塚七夕祭り撮影会

          8月上旬(場所未定)会員同士の写真講評会。終了後暑気払いを予定

会員の皆様にはメール、手紙により御案内いたします。

 

 

 

 

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神奈川シニア連合施設見学交流会に参加しました

2015年06月05日 | Weblog

6月4日に神奈川シニア連合の役員を主体とした今年の施設見学交流会を44名(NTT労祖退職者の会からは派遣役員4名と磯村会長)が参加し実施しました。9時に横浜駅西口・天理ビル前をバスで出発し、バスの中で新田会長から「今、国会で新安保法制が審議されているが、東アジアの安全保障はどうなるのか現行の安全保障条約をも一度良く読んで欲しい」等の挨拶がありました。バスは最初の見学先の神奈川県が管理する2級河川「帷子川」の横浜市旭区白根1丁目にあるの帷子川分水路取水庭に9時30分に到着。早速、神奈川県の担当課長から「保土ヶ谷区、西区を流れる帷子川は過去に大雨の時に氾濫しそれを防ぐ為にここに分水路(トンネル)を作り、横浜駅西口・横浜モアーズ裏の新田間川に流れ出る」等の説明がありました。

担当課長の説明を聴く

帷子川から入り口の水門

分水路トンネル内を少し歩く

分水路トンネル入り口で

帷子川分水路を見学後、新保土ヶ谷バイパス、国道1号線を経由して昼食・交流の場所の茅ヶ崎市香川にあるレストラン「MOKICHI TORATTORIA」でバジル風味のサルシッチャ、パート包み焼き、緑のガスパチョソース 、パンと湘南ビール1杯、コーヒーで1時間20分亘り親睦・交流を行いました。

昼食後、バスで15分位の所の寒川町にある神奈川県企業庁寒川浄水場を見学。企業庁の担当者から「水源である相模川は、その源は富士山麓で山梨県の桂川を経て神奈川県で相模川となり、給水地域は平塚市、鎌倉市、藤沢市、小田原市(一部)茅ヶ崎市、逗子市、厚木市、大和市、伊勢原市、海老名市、綾瀬市、葉山町、寒川町、大磯町、二宮町に相模川から取水し浄水し給水している」等の説明がありました。

急速攪拌池

沈砂池

水が注入直後のろ過池

数分後の同所

15時20分頃寒川浄水場内の見学を終了しましたが、何となく日常飲んで、使っている水道水にはこのような過程があることが判り流し放しなど無駄には出来ないと痛感しました。その後、最後の見学先の寒川神社に15分程度立ち寄り16時15分に茅ヶ崎中央公園前でバスを下車しここで施設見学交流会は終了となりました。(野中美久 記)(写真提供 久保川昭一さん)

 

 

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神奈川シニア連合施設見学交流会を実施しました

2015年06月05日 | Weblog

 前文の続きで写真のみ掲載します。一部重複の写真がありますがご容赦下さい。

 

帷子川取水庭

 

 

説明する藤崎課長

 

 

トンネル入り口で

 

 

 

 

 

 

 

沈砂池

 

ろ過池を見ている

 

 

 

 

寒川浄水場で

 

寒川神社

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