1991年9月退職者の会中国旅行に56名参加の帰りのグリーン車で河内さんと私
退職者の会HPで河内一明顧問の訃報を知りました。
河内さんと私とのお付き合いは、現役の分会長当時からです。河内さんとは年齢は一廻り違いますが、私は昭和23年に14歳で逓信講習所採用。河内さんは昭和16年軍隊に招集され、近衛高射砲連隊に配属、敗戦の時は陸軍高射砲学校の兵長でした。
河内さんが執筆された1997年12月全電通退職者の会関東地方協議会が発刊して戦争体験記「殴られてきた青春」を読むと河内さんは幹部候補生試験を受験放棄し、やさしい兵隊さんのようでした。
そして昭和23年に当時の神奈電気通信部に採用され逓信省では私が12歳年齢は若かったが同期の桜でした。
昭和53年10月23日の電電公社の永年勤続30年表彰の式典が新宿のホテルであり河内さんとご一緒し、帰りの小田急ロマンスカーは飲みながら藤沢迄でした。
河内さんが全電通神奈川通信部分会役員を何時から初めたのかは定かでありませんが、私が知っている範疇では長らく通信部分会長を務めた後に大和電報電話局に転勤し大和分会長をされました。
私は昭和34年の箱根全山改式闘争の時から小田原分会役員をスタートし小田原分会長、昭和48年から通信部分会長を4年務め昭和53年9月の第41回神奈川支部大会で特別決議として河内さんが分会役員21年で後任に託すので退任、私は分会役員17年で退任し、45歳で電電公社を退職し電気通信共済会に組合派遣として行くことで河内さんと私の2名に対し永年の労働組合活動に対する労を報いる為にこの大会で感謝状を頂きました。
又、昭和53年1月10日から24日迄全電通関東第1回訪中団として神奈川支部から分会役員を長くやっていた当時の大和分会長・河内さん、厚木分会長・徳岡さん、横須賀分会長・長谷川さん、通信部分会長の私が参加し4人組追放後の中国社会と社会主義国家等を学習するため北京・南京・無錫・上海を訪問し電話局・病院・学校・工場・人民公社等で見聞して来ました。
河内さんと私に取ってはその後の退職者の会神奈川支部協の行事の海外旅行へと繋がり私は退職者の会の仲間等と44回の中国を旅することになりましたし、河内さんは漢詩に造詣があり一人で何回か他のツアーに入り中国を旅していました。退職者の会の行事としての参加は平成10年迄毎回参加されていました。
地域では俳句の会を主宰し「退職者の会ニュース」の編集後記には俳句が良く載っておりました。
私は昭和54年1月に電電公社を退職し2月に全電通退職者の会神奈川支部協議会の第2回総会が5年ぶりに開催され会長に選ばれてしまいました。河内さんは当時、大和地区労の議長を長く務めておられ電電公社退職後も大和地区労に関わっていたのでその間は退職者の会は事務局長をお願いし、その後平成元年11月から横浜支部協と統合する平成11年2月まで神奈川支部協会長の任に就いて頂き私は事務局長として共に活動しました。平成11年2月に横浜支部協と統合から平成13年10月迄は神奈川県支部協副会長をお願いし同時に退任後は顧問を委嘱し、先の退職者の会ニュース100号でもご紹介したように在る時期までは神奈川支部協時代の「支部協通信」そして「退職者の会ニュース」の編集は全部をお願いしていました。現役時代の神奈川支部大会の議長プロフィールに河内さんは「職場ニュース・カベ新聞等の編集技術は全電通の中でも右にでるものはいない」とかかれていました。
既に多くの私より一廻り年齢の上の方は黄泉へ旅たたれましたが集まれば良くカラオケで歌いました。河内さんの得意は「麦畑」でした。
改めて河内さんと私との関係についてご冥福を祈りつつ思い出すままに書かせて頂きました。 合掌