浜田マハ / キネマの神様

いい本に出会えた。
映画好きの僕にぴったりの、映画の力を、映画を愛する人たちの力を信じられる、そんな本。

DVDのおかげで、僕も家のテレビで、通勤電車の中で、映画を便利に見ているわけだけど、やっぱり映画館のあの真っ暗な空間の中でドキドキしながら映画が始まるのを待ち、いざ始まればアッという間に映画の世界にどっぷりと浸って、泣いて笑って驚いて、あの特別な体験は映画館の中で映画を見たときだけに味わえるもの。いいよねぇ、映画館で見る映画。

この本は、映画を愛する人たちが、その映画愛によって救われ、停滞していた場所から前に進み始める物語。
そんなにうまく行くわけないだろ!って思いつつも、映画を見ているときのように、どうかこのままうまくいってください!と願いながら読み進めてしまった。うん、それでいいのだ。主人公たちに声援を送って、主人公たちと一緒に笑い泣く、それが映画だ。あ、これは小説だけど。

とはいえ、フィールド・オブ・ドリームス、硫黄島からの手紙、ニューシネマ・パラダイスの3本だけは、この本を読む前に読んでおいたほうがいいんだよなぁ。まだ見ていない映画のあらすじを小説の中で知ってしまうなんて、そんなつまらないことはないわけで…。

というわけで、硫黄島からの手紙をまだ見ていない僕は大変残念な思いをしたのでした。

残りの2本は大好きな映画だけど、この2本もまた見直したいなぁって思ったなぁ。

それも、映画館で。

どこかえ「キネマの神様 3本立て」ってなことをやってくれないものだろうか。この3本で。

いや~、いい話だった。
映画が好きでよかった。
映画バンザイ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

角田光代 / 空中庭園

で、最近読み終わったのがこの「空中庭園」。

複数の登場人物からの視点で描かれた短編(?)を読んでいくうちに全体像が浮き上がってくるという凝った構成の小説。

最初に思ったのは「ずいぶんと冷たい視点で描くなぁ」ってことかな。
人がある集団に属しているならば、その集団の中で波風を立てず他のみんなに迷惑をかけないために、ある程度「仮面」をかぶるのは当たり前のことなんじゃないかなと。それを、ことさら「ひどいこと」として描く必要があるのだろうか、という気持ちになったというのが最初の感想。
例えば中学生の男子が本人としてはかなり色々とツライ状況を抱えていたとしても、心配をかけちゃうし、そもそも家族にはどうせ解決できない問題だしってことで家族の前では「別に何も問題ありませんよ」って顔で通すのは、「裏切り」や「欺き」なのか。
「裏切り」や「欺き」という捉え方で物語を語ることもできるけど、家族に対する「思いやり」「気づかい」と捉えることだってできるじゃないか、と思ったのだ。

角田さん、この小説ではずいぶんと冷たい意地悪な視点で描いてるなぁって、そう思いましたね。

あいかわらず、各登場人物の描き方がリアルで素晴らしいんだけど、その分ほんとうに救いがないっていうか、「でもまぁ小説の中のことだし」って気分にさせてくれない。
おばあちゃんの章なんて、ほんとすごい。凄みがあってこわいぐらいだもんなぁ。
で、めちゃくちゃリアル。実在感がハンパないレベルで。
どこかの郊外のニュータウンに実在しそうな気にさせられてしまうからもう、本当に救いがないんだよなぁ。

家族ってものが、たまたまほんの20年ばかし同じ空間で過ごすメンバーって考えるのも、それもわからなくはない。
最後のバスも、たまたま同じバスに乗り合わせた人たちでしかないよっていうことなのかなぁ。

互いへの愛(というか気づかい?思いやり?)があるからこそ本当の本音は見せずにお互い接してるわけでしょう。
それはどこの家族でも、どこの集団でも、どこの組織でも、そういうもんだと思うんだけどなぁ。
その部分をことさら「嘘」「裏切り」「偽り」「欺き」と捉えて物語を紡ぐのは、うーん、とっても残酷だなぁ、冷たいなぁ、角田さん、と思いましたよ。

すごい作品だと思うけど、もうちょっと暖かい視点で描いても良かったんじゃないかなぁって気になりましたね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

角田光代 / 八日目の蝉

読み終わったのはだいぶ前だけど、読んだという記録のために一応書いておこう。

とにかく面白かった、ということ。
角田光代、すごいなぁってこと。

構成が見事。
前半の希和子の物語。後半の薫(恵理菜)の物語。そして…、という。
特に、すごいと思ったのは、希和子パートが、彼女自身の視点で描かれるから、記憶があいまいな部分がそのままあいまいなままになっていて、読者は実際には何が起こったのか本当のことを知らせてもらえない。
「興味の持続」というか、実際には何が起こったのかを知りたくて読者は後半の薫視点のパートを夢中で読んでしまう。
うまいなぁ。見事だなぁ。

角田光代という人がすごいのは、「きっとそういう行動を取ってしまうんだろうなぁ」という滑稽だし残酷だけどすごくリアルな描写だろうと思う。
リアルだからこそ、その残酷さが読者の胸に突き刺さる。
ひどい!ひどいけど、自分でもそういう顔をしてしまうんじゃないだろうか、そういうことを言ってしまうんじゃないだろうか、という。

最後もいいなぁ。
すばらしいエンディング。

小豆島、行きたくなった。
そういう島が、一番の楽園なのかもしれないと思える、思わせてくれる作品。

面白かったです。
もう一回読もうかなぁ。映画見ようかなぁ。
でも、本読んだあとに映画見たらやっぱりつまらなく感じちゃいそうだよなぁ。
永作でも。

でも、映画見たいかも。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

明日に向かって捨てろ!!



なにを捨てるか、いやそれ以前に、捨てるのか捨てないのか、そこにその人の生き方が反映される。モノを捨てるか捨てないか、何を捨てて何を残すか、どれぐらいのモノ(=過去)を背負って生きていくのか、そこにその人が生き方があらわれる。

だから、スチャダラパーのBOSEが大量のモノを捨てるだけのこの企画が面白い哲学的なテーマに行きあたってしまうわけなんだろうなぁ。そこがこの本のただ楽しいだけでなく興味深いところ。

大学生ぐらいのころは、小学校、中学校時代に自分が夢中になっていたものが、ものすごく恥ずかしく感じたり、あの頃の自分はどうかしてたんじゃないかと感じたりするものだけど、もっと歳を取っておじさん年齢になってくると、かつて自分が夢中になったものが全て肯定できて懐かしく感じられる、というような話が出てきたけど、まさにそうだよなぁって思うこの頃。
だって、河合奈保子を好きだった小学時代のことなんて、高校生ぐらいのころは無かったことにしたいぐらいだったわけだし。薬師丸ひろ子を好きだった中学時代についても、やっぱり大学生ぐらいのころは無かったことにしていた気がする。が、今はもう堂々と「愛おしい我が過去」と思えてしまう。
だから、その「無かったことにしてた時期」に思い切って捨てたものはいいのだけど、その時期に捨てそびれた過去の趣味関係のものというのは、これは今となってはもうなかなか捨てられないのは、そりゃあそうだよなぁ、と。だって馬鹿な過去の自分がもう愛おしいわけだから。
若気の至りで好きだったものも全て許せてしまえる歳になった今現在好きなPerfumeとかってのは、これはこの後、どういう感じで付き合っていくことになるのだろうか、興味しんしんだな。

最後にしまおまほさんの部屋が出てくると聞いていて、それを楽しみにしていたのだけど、勝手にしまおさんの暮らす一部屋が出てくるんだと思い込んでいたら、そうじゃなくて、しまおさんの実家(主に1階のリビングルームまわり)だった。これが期待以上のすごいもので、感動したなぁ。あそこに行ってみたいけど、BOSEとちがってしまおさんと友達じゃないからなぁ。行きたいなぁ、あそこ。すごいなぁ。
しまおさん関係の本は、このブログには全部は書いてないけど、女子高生ゴリコからほぼ全部をわざわざ買い集めて読破しているので、なおさら感慨深いものがありました。

こないだ、ときめかないモノを捨てまくったその直後にこれを読んだのは、タイミングとして良かったのか悪かったのか。それはよくわからない。ただ、僕はもう、シンプルに、今「好きだ!」って思えるもの以外は持たずに生きていこうと思ったのだ。その生き方を選択した。まぁ、もともとモノを一気に捨てちゃう性格なのだけど。

この本にもインタビュアー(?)側の人の言葉で、子供が産まれると迷わずにポンと捨てることができる、というようなことが書いてあったのだけど、遅れてそれをやっている状態かなぁ。つまり、大学生で一人暮らしの部屋を手に入れ、どんどん集めたモノに囲まれて生きてきたけど、妻もそうやってモノを買い集めて、そんな二人が一緒に暮らすようになって、二人分のモノがごっちゃりある家に住んでいるわけだけど、そろそろ子供たちも自分のモノを増やし始める時期になった。だから、もうこの家は、僕と妻が自分のモノを大量に蓄積しておく場所ではなくなったということ。子供たちにスペースを与えてあげたい。色々なモノに興味を持って、一生懸命選んで選んで、そうやって少ないこずかいを使って買ったもの、友達からもらったもの、大切な宝物や本やマンガを置く場所を彼らに与えるための、そのための自分のモノの大量廃棄だ。もう二度と読み返さない文庫本よりも、子供たちがキラキラした目で買ってきた彼らが今夢中になっているマンガを置きたい。
BOSEの言葉にもあったけど、今は、もう一度読みたいと思えばどこかで読めるし、もう一度見たいと思えばどこかで見られる、そういう時代なんじゃないだろうか。だから、自分の手元に置いておく必要はもうないんだ、きっと。

ただ、妻のモノはあいかわらずすごい大量にあるわけで、それこそが大問題なのだけど、さてどうしたものか。


ほとんど本の感想になっていないなぁ。
ウチの大量のモノを今後どうしようか、という話しかしていない。
ま、そういう本だな。

今の中学生が、ビートルズを聴くように過去のゲームをやっているという話がとてもよかった。
日本の若いソウルファンがカーティス・メイフィールドやダニー・ハサウェイを「かっこいい~」って言って愛聴しているってのが、アメリカの黒人さんたちにとってはとても変なことらしい。
昔、日本でスウェーデンポップが流行ったころに見たテレビ番組には、日本のGS(スパイダースとかタイガースとか)を「かっこいい~」って言って集めている20代のスウェーデン人男子が出てきた。
あんな世界がゲームの世界でももうあるんだってことだ。
ファミコンの昔のゲームがクラシックとして21世紀の若者に評価されている、という世界。


あー、また長くなってしまった。

さて、僕の捨てるキャンペーンはどこまでいけるのか。

自分でもよくわからないなぁ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人生がときめく片づけの魔法



出先で1時間ばかり時間をつぶさなければならなくて、ちょうど本屋があって、この本をなんとなく買った。「ときめく」かどうかで捨てる捨てないを決める、って話だけはラジオだったかなにかで聞いていて、へえ面白いことを思いつく人がいるもんだと思ってて、そして本屋でも「これがその本か」と手にとったというわけなのだ。

まぁ、こういう本によくあることなんだけど、前置きが長い。長すぎるぐらい。この人の言う片付け術をただ方法だけ列挙したらきっと20ページぐらいの薄っぺらい本になってしまうだろうし、きっとそれだけではやっぱり読んだ人はその通りに実践しないんだろうなぁ。
だから無駄に長く感じる前置きも決して無駄ではないのだ。
この人の世界にどっぷりと浸かるための長い長い道のりなのだ。
実際に、モノを擬人化して話すこの人の話しっぷりに途中でかなりうんざりしてくるのだけど、そうは言ってもこの人のこの世界観というか、この人なりのモノに対する姿勢を、その喋り口調も含めて理解してからじゃないと、やっぱりこの本の言うように「ときめかないモノは全部捨てる」なんておそろしいことは誰もやれないだろう。
というわけで、うんざりしてくるモノの擬人化(擬人化という言葉では言い表せていないほどの行き過ぎ感)も、この人の世界に浸るための道として我慢して読むしかありません。

で、すごく感化されたわけではないのですが、そうは言っても、「ときめかないモノに囲まれた生活って楽しいですか?」と聞かれたら、うーんやっぱり楽しくない。「ときめくモノだけに囲まれた生活って楽しそうでしょ?」と聞かれたら、うーん確かにそれはかなり楽しそう。

家にはもちろん僕のモノだけがあるわけじゃないのですが、ひとまずやってみよっかなという気持ちになりました。この本をせっかく買ったんだからやらないのはもったいない、という気持ちもあったのは確か。本を買った以上はやらないと元が取れないという貧乏根性でもあるわけですが。

とにかくやってみた。
この人が言うようにまずは服から。45リットルゴミ袋で8袋。
そして靴。15足ぐらい一気に捨てた。残った靴は好きな靴ばかりになったぞ!
そして本。大学時代に1年に100冊以上のペースで読んだ小説たち。大学時代に読んだ本だけで500冊を超える。実際に何度か読み返している本20冊ぐらいだけを残して小説は全部捨てた。読み返すほど好きな本だけが手元に残った。アウトドア系・キャンプ系・山歩き系の本は実際に使っているのだけ残して全部捨てた。旅行のガイドブックは、思い出のジャマイカ・ベトナム・タイの一人旅の時のだけ残して、あとは全部捨てた。京都・大阪・奈良・神戸、九州、箱根、伊豆、北海道、グアム、香港、あるわあるわ、全部捨てたぜ。

とりあえずここまで。
これでもかなりすっきりした。

あと、僕の課題はCDをどうするか、これに尽きる。2000枚はあるだろうか。おそらく二度と聞かないものがほとんど。でもなぁ、やっぱなぁ、取っておきたいかなぁ。だって買ったときは一枚一枚かなり悩んで買ったものだしなぁ。本とちがって聞きなおすのは簡単だしなぁ。本ほど絶対にもう一度使わないってわけでもないはず。本は読み返すのは大変だから。CDはほら、CDプレイヤーに入れれば音が鳴るわけだしさ、ね。いーじゃん、捨てなくてもいーじゃん。
なんて言い訳をしているとモノが捨てられないんだけど。
せめてCD棚に入る数に減らすべきか。悩むなぁ。。

やっべぇ、長文になっちゃった。
だらだらすみません。
ここまで読んでくれた人、サンキュ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ぼんやり小町 / しまおまほ

「まほちゃんの家」、「ガールフレンド」と読んだあとに読むと、この「ぼんやり小町」が一番軽く、若く、元気で楽しい、気楽に読める本。
エッセイっていうよりも、雑誌に載ってるコラムって感じで、ほんと、ただただその週とか月にあったことをダラダラと思ったままに書いている感じ。
それがとても良い。
その当時の空気がぎゅっと詰まった感じで。
楽しい。
この人が毎日ブログを書いてくれたら、毎日「更新されてないかなぁ?」って覗きに行ってしまうだろうけど、文章でお金をもらっている人は、そんな気楽に文章を垂れ流さないか。残念だよなぁ。

中学のときの日記は破壊力ありすぎ。
すげーなぁ、中学生って。
バカだよなぁ、中学生って。
バカだったよなぁ、中学生のころ。

日記書いてればよかったよ。
こんなに笑えるならば。

ところどころ、「お前、今書いているそのとおりになってるぜ!」と雑誌トゥ・ザ・フューチャー的につっこめました。
それも楽しかったなぁ。

いろんなミュージシャンとかと仕事で会っていて、かなり「業界人」な気分、「業界人じゃん! あたしって!!」っていう自意識、浮かれ気分が文章のあちこちにあらわれているのも、ほほえましいっていうか、おもしろいっていうか、とにかく楽しい。
そう、それぐらい調子に乗ってるほうが読んでるこっちも楽しい。
だって大学生なのに、有名ミュージシャンと友達なんだもんなぁ。そりゃあ浮かれるよなぁ。当然だよ。

調子に乗ってる若いしまおまほ がギュッとつまった1冊。


いろんな意味で楽しかった一冊。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ガールフレンド / しまおまほ

そして、あっという間に「ガールフレンド」も読み終わった。

「まほちゃんの家」よりも、やっぱりちょっと大人になった文体。
でもやっぱり、しまおまほ だな。
しまおまほ は、しまおまほ。

小学校1年と2年のときの小池先生との話。今でも嫉妬してしまう、ってのが面白い。
ずーっと前のことを、思い出して恥ずかしくなることや、思い出して頭にくることや、思い出して悲しくなることはあるけど、今でも嫉妬してしまうとは。でも、なるほどなぁって思う。なんとなく分かるようなその感覚。

「わたしは、わたしがいるところでしか生きていないんだな」という文章も。
うーん、なーんかわかる、っていうか、今までぼんやりと感じていた感覚をみごとに言い表してくれた文章って気がする。

世界を独特の感覚でとらえるセンスがありつつ、独特すぎない、というか、逆にあまりに普通だから驚いてしまうのかもしれないなぁ。
とっくの昔に捨ててしまった、失ってしまった、ごくごくあたりまえの普通の感覚をこの人は不思議なことにずーっと自然に持ち続けているからこそ、その文章に共感しつつハッとしてしまうのかもしれない。

あと、
単純に渋谷昔話みたいなのも楽しかった。
オクトパス・アーミーなんて単語、すっかり頭から消えてたよ。
ただ、センター街のHMVが無いこと、なのかぁって思ってしまった。
そこ、懐かしいポイントなのかぁ?と。
世代の差をやっぱり感じる。
あのHMVなんて、けっこうこないだ出来たような感じがしてたから。

そして今の高校生や大学生だと、あのツタヤなんだろうなぁ。
10年後ぐらいにあのツタヤがなくなると、「ツタヤが無いなんて…」ってツタヤのあった渋谷で楽しく過ごした青春時代を懐かしく思うのかもしれないなぁ。

などなど、いろいろと楽しく考えた一冊でした。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

まほちゃんの家 / しまおまほ

新刊「ガールフレンド」をネットで注文しようとして、そういえば、「まほちゃんの家」もいい本だって宇多丸さんが時々言ってるんだよなぁと思い、こっちもカートへ。
正しい順番としては、こっちを先に読んだほうがいいかなってことで、こっちを先に読みました。

この人のなんともいえない感性は、こんなふうに培われたのか。

色々印象に残る文章がありました。

サンタについて、
『今も「信じなくなった」というよりも、「来なくなった」という言葉のほうがしっくりきます。』とか。

初デートで、疲れるだけで面白くなくて、『それまでは実は男子ならだいたい誰でも好きな気がしていたので、そうじゃない自分を発見できて安心しました』とか。
そういう風に思う、というか思っていたのを覚えているのもすごいけど、それをこうやって書籍として世に出してしまうのも、さすが、しまおまほ、と。

『わたしはその頃から渋谷という街が好きです』という文を読み、最近渋谷を歩くのがめんどくさくなっているので、もう一度渋谷のよさを見つけてみようかと思ったりもしました。

思えば、まだタマフルという番組も知らず、病気で寝ていてあまりに暇なのでラジオをチャンネルを変えながら聴いていたら、宇多丸さんの映画評が聴こえ(それがどの映画だったか覚えていない)、面白くてそのまま聞いていたら、しまおまほさんが出てくるコーナーになり、トイレットペーパーをズボンから垂らしている女子の話になって、この女性はすごい話を普通にラジオでするなぁと驚いたのが僕が初めてしまおまほさんの声を聞いた瞬間でした。
かれこれ、それから5年ぐらい経つわけですけど、あいかわらず面白い感性で生きていらっしゃって、この本を読むと、なるほど、こういう家庭で育まれた個性なんだなぁと納得したり、ちょっとうらやましかったり。

さて、「ガールフレンド」が楽しみだ、と。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ブラスト公論



読み終わったのだいぶ前だけど、タマフルを聴きながら、ひとまずブログ書いとこうかな。

ほんと、友達と深夜のファミレスとか居酒屋とかで、ずーっとしゃべってるみたいな、そんなノリ。
楽しいなぁ。
こんなに「モテ」について語ったことはないけども。
でも、掘り下げなくても良いことを、ぐーっと掘り下げてしゃべっていく感じ。
掘り下げなくても良いことっていうけど、でも、ボンクラ男子にとっては実は最も大切なことだったりするんだから。

楽しいよ。
ほんと、楽しい。
学生のころまでは、こんなネタでずーっとしゃべっていられる友達も時間も持っていたかもしれないけど、社会人になってしばらくすると、もうそんな環境にはいないでしょう。
そんなそこのあなた、深夜のファミレスで青春の悩みの根源みたいなことについて友達とひたすらしゃべっているようなそんな気分になりたければ、買うと吉ですよ。

楽しかった。ほんと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

算数がメチャとくいになれる本―秋山仁のおもしろ授業

かつて受験生だったころ、駿台でこの人の授業を受けていた。
45分? 50分だったかな? とにかくそれぐらいの授業時間しかないのに、最初の30分ぐらいは「楽しいお話」をしていた。
残りの15分ぐらいで一気に「じゃ、やろうか」とか言ってその日の内容をざーっとやるのだ。
「楽しいお話」というのは、数学の話だったり、自分がアメリカに行ってタクシードライバーやりながら学生やってた話だったり、1+1が2じゃない証明をするよ、だったり色々だったんだけど、とにかく面白かった。
そして、本来その時間に教えるはずのこととは関係ないけど、この人の「楽しいお話」は、「人は一生に何回かは本気を出さなきゃいけない」というような話で、それは受験生の僕にとっては、どんな授業よりも貴重な話だったりしたのだ。
あと3ヶ月ぐらいで受験シーズンが始まるけどさ、この3ヶ月本気を出すのと出さないのとでだいぶちがうぜ、と。
本気なら出してますって君達は言うと思うけどね、例えば僕はある定理を証明しようと思ってうーんうーんって考えていてさ、それで夜2時ぐらいにひらめいて、それから夢中でトイレにも行かずに頑張ってやってやっと完成したんだよ。夜も明けていて、それで時計を見たら朝の7時だったんだ。でもなんかおかしいなぁって思ったら、次の日の朝7時だったんだよ。つまり29時間ずっとやってたんだね。本気で何かに打ち込むっていうのはそういうことだよ。
ま、僕は「良い大学」なんて言われている大学に入ることがそれほど価値のあることだとは思っていないんだけど、でも君達やるって決めたんだろう。それならあと3ヶ月、本気でやってみなよ。やる時はやらないとだめだぜ。
なんて話。

どんな授業よりも、価値があったんだよなぁ。ほんと。

なつかしいなぁ。



ま、昔話はこれぐらいにして。

この本は小学生向けなんだけど、なんかこの人独特の「全く新しい発想法」みたいなことが載ってないかと期待して買った。
通勤の往復で簡単に読めたけど、期待してたほどの面白いことは載ってなかった。

グラフ理論の話だけはちょっと引っかかった。何かに使えないかなぁ。

でも面白かったな。
高校ぐらいまでは数学は一番得意な科目で、得意なだけでなく大好きだった。
なんとなく、数学を大好きだった感覚を思い出したくなってるのです。
あわよくば仕事に役立たないかなぁという気持ちもちょっとあって。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ヤングトラウマ/ スチャダラパー

「明日に向かって捨てろ!!」も気になるところですが、まずはこっち。

ボーズの一個下、シンコの一個上という年齢ですから、そりゃあもう自分のトラウマものと重なる重なる。

以下、せっかくなので、読みながら重なったのをメモしたもの。

夕日が丘の総理大臣の藤谷美和子
Dr.スランプの絵の衝撃
ひろ子。 俺はWの悲劇までは見ている。ボーズの「年齢的にひろ子じゃなくて知世だった」発言は納得できない。
ドリフを見ていないという逆トラウマ。黒人音楽とかくやしい!
「クイズダービー」までは見ていたんだよなぁ。8時就寝。早すぎ。
欽ドン。裏番組だったのか。それすら知らない。
カックラキン大放送。これも8時には就寝。最初のちょっとしか見られない。
「マイナーなほうがカッコいい」という10代おわりにかかる病。まさに!
プロレススーパースター列伝。
ジュリー。
サザン。最初に買ったレコード。サザンを選んだ自分は偉かった。
ゴダイゴ。
宝島。戸川純。内田春菊。
ゲームウォッチ。ゲーム電卓ボクシング←これ忘れてたけど持ってたよなぁ。
ふぞろいの林檎たち。
「冗談画報」の影響は大きい。ほぼ毎回見ていた。ラジカル知ったのもここだ。
DCブランドからMA-1やアメカジへ。この変化、俺も付いていけなかったなぁ。

特に、ひろ子、宝島、ふぞろい は大きいなぁ。自分にとって。
ひろ子は、映画好きになったきっかけだ。
宝島は、吉祥寺の本屋で毎号立ち読みしてた。買ってなかった(と思う)けど影響はデカイ。
ふぞろい、というより、山田太一ドラマは、世の中を見る目というか自分の人格形成にかなりの影響を与えている。全てがうまくいく人生なんて無い的な諦観と、逆にだからこそ人生は面白いという感じ。


宇多丸さん(おそらく僕と完全に同い年)も言ってるけど、同じような雑誌にはまって、同じようなことに興味を持っていて、それでいながら、すっと正解に行けた人とヘンな方向に患っちゃった人・こじらせちゃった人。
やっぱり、スチャダラパーの3人は、10代でかかる病とか自分達でも言ってはいるけど、本当にまちがった方向に振り切れたりしないでここまで来てるような気がするんだよなぁ。
普通だと、やっぱり高校時代には夕焼けにゃんにゃんが、そうは言っても気になるし、チェックメイトとかポパイに踊らされて素っとん狂な格好をしちゃったりするものだと思うんだけど、この人達はなんかそこのところはするーっとうまく抜けてる感じがあるんだよなぁ。
で、宇多丸さんの「なんか、君達はいいよね~」的な意見に僕もなんとなく共感してしまう。のだが、宇多丸さんちょっと卑屈すぎ。そして、しゃべり過ぎ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

三浦和義事件 / 島田 荘司

900ページを超える文庫本。
ものすごい分量なのだけど、文章がうまくてぐいぐい読めてしまう。
ぐいぐい読めても、当然900ページ分の読書時間は必要なのだけど、とにかく飽きないし、そんなに長くも感じないで最後まで行けた。

前半はマスコミ視点(というか文春視点)で話が進む。もう一度、あの頃の熱狂をおさらい。ふむふむたしかにこんな感じだった。テレビをつければいつでも「三浦和義」「ロス疑惑」だった。

で、面白いのは次の「三浦和義の視界」だ。
彼が、金もコネも何も無いところから、文字通り身を粉にして働きまくって、成功をおさめていくストーリーは、ここだけ読んだら素晴らしい立身出世のお話だ。そして、彼の視点で見れば、本当に突然に文春による「告発」があって、あっという間にこの熱狂の中に放り込まれるのだ。

この本は、公平というよりは「三浦は無罪」でこの事件は「冤罪」というスタンスで書かれているので、もちろんフェアではないのだけど、当時の文春を含む日本中のマスコミの暴挙を考えれば、これぐらいの「調整」が無ければむしろアンフェアだろう。

とにかく、「百人の犯罪者が罪を逃れても、一人の冤罪者を出すまい」という、本来ならば最も基本的な司法ルールがこの日本という国では全く認識されていないし、警察も検察も、そして裁判官達も、おそらく日本では「とにかくちょっとでもあやしい奴らは全員犯罪者にしちまえ! それで少しばかり無実の野郎が刑務所に入ったって別にいいんじゃね。」と思っているのだ。
映画「それでも僕はやっていない」を見れば、この状況は今現在も全く変わっていないというのがよくわかる。

これはもう、本当にどうにか出来ないのだろうか?
小学校ぐらいから、「黒という証拠が無い限りは無罪」という精神、そして、逮捕されたからといって別に有罪と決まったわけじゃなく、有罪かどうかは裁判で決まるという当たり前のことを、もう少し国民に教えるべきじゃないのかなぁ。
逮捕されただけで、う完全に犯罪者あつかいというのは、本当にひどい話だ。

彼が完全に白だという証拠がこの本で示されているわけじゃない、けど、今までに集まった「証拠」を集めたところで、彼はせいぜい「うすい灰色」ぐらいなものだろう。
こんなんで有罪にされてしまうのでは、こわくて生活できないではないか。
「それでも僕はやっていない」を見てから、電車にこわくて乗れなくなってしまったけど、この本を読むと、こわくて生活できなくなるなぁ、ほんとに。

要するに、背が高くて色男で女にもてて会社社長で1億円の家に住んでてベンツに乗ってる奴は、もうそれだけで許せない、そいつを逮捕して有罪にしちまおう、というそういうヒステリーが日本中に蔓延したということだ。

興味深くそしておそろしい。

作者があとがきで書いているけど、これは「虐め」なのだ。そして学校ではなくむしろ大人社会でのそれのほうが陰惨でひどい日本での虐めというのは、国全体が護送船団方式で世界の中で浮上していくためには、軍隊式の規律が必要であり、その中で必然的に生まれてしまったものなのだろうけど、もうそろそろそういう軍隊式の雰囲気から脱却できてもよいのじゃないのかなぁ。

とはいえ、堀江貴文という人物がああいう形で表社会からひきずり下ろされたりしたのを目の当たりしてきたわけだし、あいかわらずこの国ではまだまだ無理なのかもしれないなぁ。

あやしいと目をつけられたら証拠を作り上げてでも有罪にしてしまうということをもう僕らは知ってしまったのだから、とにかくもうあやしいと思われないように、目をつけられないように、身を低くして、目立たないように、ひっそりと生きる以外には、ずっと安全に暮らす方法はなさそうだ。

おそらくこの現状を個人が変えるのは無理でしょう。
おそらく。

民主党は取り調べ室を24時間カメラで撮影して残すということを政策の一つとして謳っているらしいのだけど、それが今回の小沢さんの秘書の逮捕につながっているとすれば、本当にもうだめなのかもしれない。今度政権をとりそうな政党が自分達に不利な政策をかかげたら、そいつらを逮捕してしまうということならば、もう本当にこの国のこの間違ったシステムは変わることができないのかもしれない。

がんばってほしいなぁ。民主党。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

職権乱用 / 松任谷 正隆

ユーミンのだんなさんの松任谷正隆さんの本。

このところのオーディオ(と言っていいのか?)趣味で、色んな人のブログを拝見させてもらっていて、もちろんみなさんオーディオだけが趣味って人ばかりじゃなく、いろんなことについて日々ブログを書かれていて、その中で、この本の感想と見つけた。カングーについても書かれているらしい。読んでみた。

なんか、この人のこと、けっこう好きになりました。
高級な外車乗り回して、えらそうに「評論」なんてしちゃってる人ってだけで、ちょっと、イヤな印象があったのですが、最初の昔の外車屋のおやじのくだりを読んだだけで、なんかいい感じ。

正直、逆立ちしても手が届きそうもない車についての文章はナナメ読みしました。ふだん、どんな文章もナナメ読みってしないんだけど。

で、面白くって、そして、本当に欲しくなったのが、プジョーの1007と、やっぱりカングー(ヨーロッパではついに新しいデカイやつがデビューらしい。残念!)と、そして、ムルティプラ。
まぁ、要するに、この本を読む前から気になっていた3台が、やっぱりこの本を読んでも一番楽しそうで、そして、やっぱり欲しい3台だったってことだ。

子供が2人になった時点でムルティプラは消えたとして、やっぱりカングーいいなぁ。そして松任谷正隆さんが実際に買ってしまったプジョー1007も、すごく気になった。

プジョー1007は、見た目が小さいから、ひょっとしてウチの駐車スペースにも合うのかもって思って横幅を調べてみたら、カングーよりもずっと横幅が大きかった。
残念。

ってことは、やっぱり、今のカングーが、本当に本当に、今のうちに手に入れたいなぁって気になってしまいますよ。

とはいえ、ラパンに10年乗ると誓った身ではあるのですが…。

このご時世に車買い換えている場合じゃないか。場合じゃないよなぁ。。。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ラジ&ピース / 絲山 秋子

またまた絲山さんの本。

これはけっこう最近の本のよう。
今、著者の絲山さんが住んでいる群馬が舞台で、そして、絲山さんは、舞台となっているFM群馬で番組を担当している、らしい。

うーん、しかし、この主人公…。僕はあんまり好きになれなかったなぁ。
ここまで頑なに自分以外の世界を拒絶しなくてもいいんじゃないだろうか。
もちろん、彼女が抱えるコンプレックスによるものなのだけども。

一番いやだなって思ったところは、僕自身が小学6年生ぐらいから、けっこうラジオ大好きで生きてきているから、こんなパーソナリティーのやっているラジオ番組なんて死んでも聴きたくないと思ったところだ。
ラジオのテレビとちがう良いところは、やっぱりパーソナリティーが、包み隠さず自分をさらけ出してくれているところなんだと思っている。それに、ラジオというのは、どうしたってそうせざるを得ないメディアなのだと思っているのだ。
だから、こんな、番組の間だけ、本当の自分とは全然ちがうキャラクターを作って、思ってもいないようなことをペラペラしゃべるなんて出来るわけがないし、仮に出来たとしても、そんな番組にファンが付くわけがないと信じているからだ。

「吉田照美のてるてるワイド」に始まり、「コサキン」(コサラビだったころもちょっとだけ聞いているかも)、そして、大学受験のころオールナイトニッポンの2部で伊集院光に出会った。伊集院光は、たしか最初は「なぞのオペラ歌手」とか言っていた。声しか聞いていないから、本当に「このオペラ歌手の人、話がめちゃくちゃ面白いなぁ」って思って聞いていた。
面白かった、ほんと。

今でもラジオを信じているし、最近また、久しぶりにラジオに戻ってきた。

だから、こんな態度の主人公はちょっと許せない。
それだけで、全然話に入っていけなかった。

だんだんと、地元に溶け込み、だんだんと心を開いていくんだけど、うーん。。。


もう一編のほうも、男に対する見方がさぁ、そりゃないよ、と。

この著者は、やっぱりムラが激しい気がするなぁ。
代表作から順番に読んでしまったからかもしれないけど、なんか段々この人の書く本がつまらなく感じてきたみたい。

おしまい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ニート / 絲山秋子

「ニート」、その続編みたいな「2+1」、この2作の間に小休止のように1作、引越しする友人の家に行く「ベル・エポック」、そして、大阪へ行く新幹線に乗る男の話「へたれ」、最後がスカトロ小説「愛なんていらねー」。

ニート、2+1は、なんとなく「袋小路の男」につながっていくような作品。登場人物はちがうけど、ちゃんと働いている女が、働かない男、なんらかの理由でほとんど収入もない男、だけど、少なくとも自分にとって魅力のある男、そういう男との距離感みたいなものが。
人は、仕事を得て、結婚して、そして子供を持って、立派に育てて、それで一人前、みたいな社会常識、世の中全体がそういう雰囲気でそうじゃない人を追い詰めていくような世の中に何かものすごく違和感がある人なんだろうなぁこの人。

ベル・エポックも、最後の最後で「なるほど」と思わせる。
人と人との距離。あーなるほど。

へたれはねぇ、これまた最後の最後に本当にこいつへタレなんだっていうのがわかる仕組みになってるんだよなぁ。
ダメじゃんそれじゃ。やっぱヘタレですなぁ。

で、問題は「愛なんかいらねー」ですよ。
スチャダラパー好きの僕にとっては、絲山秋子がスカトロ小説を書くってこと以上に問題作ですよ。

ネット上のインタビューで絲山さんは、
「文芸誌に掲載した『愛なんかいらねー』。実は隠しテーマで、スチャダラパーを聴きながらセリーヌを読んだら何が書けるか、という実験をしたんです。3か月くらい、スチャダラパーばっかり聴いていました」
と言っていたのですよ。
セリーヌなんて人のことは知らないけど、これは楽しみだぞと思っていましたよ。
で、スカトロですよ。
スチャダラでスカトロ。
こういう実験をするぐらいだから絲山さんはもちろんスチャダラ好きなんだと思うんですけど、でもなぁ、小説に出さなくてもいいじゃないですか、スチャダラパーという言葉を。
なんかさぁ、スチャダラを楽しく聞けなくなっちゃったじゃないですか。
まぁ、しばらくの間だと思うんだけどさ。

うーん。

うーむむむむ。

どうしましょう。

という本でした。

おしまい。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ