黄金のバンタムが間近になった日

 今から28年前の今日、80年6月11日は東洋バンタム級王者の村田
英次郎がWBC世界バンタム級王者のルペ・ピントール相手に引き分
けた日である。
 村田は不利の予想を覆し、前半からスピード溢れるフットワークを
駆使して左アッパーや右ストレートのカウンターを決めスロースターター
のピントールを圧倒。
 8Rぐらいからピントールがジワジワと出てきてプレッシャーをかけ始め、
ストレートのような左ジャブが村田にヒットする。
 10R過ぎにはピントールのペースになり、14Rには目をカットされドクター
チェックを受ける始末。
 しかし最終の15Rに猛反撃し場内大歓声の中、終了のゴング。
 放送席の採点も郡司信夫氏が‘2ポイント村田の勝ち’白井義男氏は
‘3ポイント ピントールの勝ち’だったが、結局三者三様の引き分けだった。

 ‘黄金のバンタム’という異名があるぐらい80年当時のバンタム級の
レベルは高く、日本人の手が届きにくい階級だった。
 68年2月にファイティング原田が、ライオネル・ローズに敗れて以来 東京
五輪の金メダリスト・桜井孝雄や東洋王者の金沢和良がバンタム級王座を
奪回するべく挑んだが、いずれも敗れ奪回ならず。
 75年の10月には10位の沼田久美がロドルフォ・マルチネスに挑戦する
が、マルチネスのプレッシャーで動き回るだけで終わる。 

 さらに村田のライバルと言われた磯上修一が一足早く、2ヶ月前の
4月にWBA王者のホルへ・ルハンに挑戦したものの全くいい所がなく、打ち
まくられて9Rにストップされている。
‘ピントールはルハンよりも強い’と言われていたので、村田の不利という
予想は間違いではなかった。 

 それが予想を裏切る善戦で引き分けたので、村田はWBCだけでなく
WBAでも1位にランクされ‘世界に最も近い男’と言われた。
 ところが翌81年の4月にルハンの2代後の王者ジェフ・チャンドラーに挑戦
するが1Rに右カウンターでロープに吹っ飛ばしたものの、以降は長い
リーチやクリンチワークに阻まれ またしても引き分け。

 8ヵ月後の12月にはアトランティックシティに乗り込んで再戦したが、 13R
でTKO負けし83年9月に3度目のチャンドラー挑戦も10Rで倒され届かな
かった。

  日本人の世界バンタム級王者は87年3月に‘エンドレスファイター’ の
異名を持つ六車卓也が決定戦でアサエル・モランを4RでKOするまで、村田
引退から3年半かかった。

 そして90年代に入り六車の後輩である辰吉丈一郎や名古屋の薬師寺
保栄がWBCバンタム級王者となり、現在はファイティング原田の4回を
上回る5度の防衛をして守り続けている日本ボクシング界のエース・長谷川
穂積がいる。 

 28年もの月日の流れを感じてしまう。  

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