栽弘義監督を悼む

 昨日PCを開くと‘栽弘義氏死去’という記事が目に入り
愕然とした。まだ65歳ではないか!早すぎる。
 思えば本格的に高校野球を見始めた小6の75年春に沖縄
代表として豊見城高校が出場した。
 夏優勝する習志野を3-0で破りQファイナルでは原辰徳、
津末英明ら超高校級の打者を擁する東海大相模を9回2アウ
トランナー無しから1-2と逆転サヨナラ負けを喫したもの
の、もの凄いインパクトを与えてくれた。
 その豊見城を率いていたのが栽弘義氏だったのだ。
 翌年から豊見城は3年連続6季連続出場し夏は3年連続ベス
ト8という偉業を成し遂げた。
 そして80年代に入ると沖縄水産に移り86年夏にベスト8に
入っている。
 それでも1大会2勝までしかできなかったのだが、88年夏に
遂に3勝はおろか4勝(Qファイナルでは9回に逆転サヨナラ勝
ち)して68年の興南以来のベスト4に進出。
 そして90年、91年に2年連続でファイナリストになったのだ。
 特に90年は台風接近のため浜風とは逆の風が吹いていたので
0-1の9回2アウト3塁で打った打球が押し戻されてフェンス手
前で好捕され優勝を逃している。
 実は86年に福岡での修行中に慰安旅行で沖縄旅行に行った時
宿泊先の万座ビーチホテルから電話番号を調べて電話した事が
あった。
 全く見識のない1ファンからかかって来たにも拘わらず快く
話してくれて2時間近く話し込んだものだ。
 上気して部屋に戻ると先輩から‘まさか栽監督の所に電話し
てきたとか?’と信じられないといった表情で呆れられた。
 その後手紙を書いたりして年賀状が届くようになったが、90
年春の九州大会や秋の国体で沖水の試合を観戦した時に直接話
をする事ができた。
 初対面が90年春だったが試合後のインタビューを終えた監督
が私を見て‘こーじさんでしょう?、いつも手紙などでの激励
ありがとうございます’と声をかけてくれた。
 これは後にオフ会の時に実際体験する事になるのだが、その
人の持つ雰囲気で分るものだ。
 栽監督と直に話したネタは長くなるのでボチボチアップした
いと思うが、ここでは86年に尋ねた時の最初の質問を。
「池田のパワー野球こそ先生が目指された野球ではないです
か?」と聞くと「実は蔦監督とは親交があってお互いにウェー
トトレーニングの情報を交換しあっていたのですよ。82年に初
優勝した時に祝福の電話をかけると蔦さんから真っ先に‘キミ
の理論をワシが独り占めにしたみたいで悪かったな’と言われ
まして」と応えられたのが凄く印象に残った。
 小柄な選手が多かった豊見城のバッターが太い腕っ節から強烈
な打球を飛ばしていたわけがよく分った。
 聞くところによると無類の酒好きだったようだ。
 少し早いけどあの世で池田の蔦文也さんや津久見の小嶋仁八
郎さんと酒を酌み交わしているのではないだろうか。
 謹んで故人のご冥福をお祈りします。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
ご無沙汰です。 (さくらい)
2007-05-13 15:48:26
65歳とは早過ぎますね。
最近の沖縄勢の活躍も栽監督が土台を作った
賜物ですね。色々な関わりがあったんですね。
確かに酒好きな顔でした。
ご冥福をお祈りします。
 
 
 
そうでしょう (こーじ)
2007-05-14 00:07:22
>さくらい様
 わりと老け顔でしたからね、せめて蔦さんぐらいまでは
生きていて欲しかったです。
 話していても、もの凄いオーラがありました。
 
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