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うどん★大作戦 blog

うどん好き人の日記。岡山・讃岐のうまいうどん屋を食べ歩き、いつかうどんやを開きたいな~♪

金毘羅往来(第4話)

2007-01-22 20:41:40 | ◇岡山観光学習

笹ヶ瀬川を渡り備中の国へ。
相生橋北西隅にはかつて「道標」があったと米倉在住のご老人から情報を頂き、早速移転先を探しに行きました。
現在は、国道2号線バイパスの高架と県道児島線がクロスする米倉交差点東の公会堂裏に
「右 お、のやま むねただ宮」「左 琴比ら宮 ゆうが宮」と刻まれた道標を確認することができました!

笹ヶ瀬川を渡り、相生橋北西詰に戻り水門から小道を行くとマンション横に石碑があります。

初代の相生橋(木製)が架けられたのは明治24年(1891)でその時の記念碑です。
ということは200年以上の長い期間、「米倉渡し」が活躍したことになります。
備前側の船着場は確認できましたが備中側の船着場の痕跡は分らず。想像するに水門辺りが船着場かな?
記念碑のある細い道は県道児島線を横切って行くと思われ、大福十字路南の「題目石」付近に続いていたのではないだろうか。

大福から南西へと続く道はかつての防潮堤として築かれた土手であったようで、かつては松並木が何百本も植えられていたそうだ。
『わたくしたちの福田村』参考
200mほど進むと右手に石柱があり道の奥には「鴨池八幡宮」が奉られています。


さらに進み、橋のところを左折したらまた右折すると西へ続く道が現れます。ここからはしばらくの間、直線の区間が続きます。
途中、大福郵便局辺りに「題目石」があるということでしたが、探してみても見つかりませんでした。
さらに進むと右手に「吉田医院」という古い家があり、その横に「題目石」を見ることができます。


程無く十字路が現れ左折。 200m南下し今度は右折し直進すると、県道倉敷妹尾線の三叉路が見えます。
ここを左折していくと「備中妹尾」の町へ入っていきます。妹尾は「庭瀬藩」から分家し陣屋を開いた町。
「妹尾駅」前の直線へ差し掛かる場所には「戸川陣屋井戸」が残っています。


奥の山には「妹尾戸川家陣屋跡」がある。陣屋跡だけになにも残っていないが、陣屋にあった「長屋門」は笠岡に移築されているらしい。
さらにさかのぼること平安時代「平家物語」にも登場する「妹尾太郎兼康」の拠点だと言われ「妹尾住田遺跡」も残る歴史ある場所です。
妹尾の街道沿いには今も古い屋敷と仏閣が残っています。右手に「盛隆寺」慶長10年(1605)鎮座、少し進むと「御前神社」(鎮座不明)

寛政10年(1798)年に描かれたという「児島湾漁撈回漕図 」が見たくて寄り道。
当時の妹尾の干潟状態や漁の風景が細かに描かれています。
今でいう「潟スキー」で漁をしている絵からは、うなぎやシャコや鯛に貝類と豊富な漁場であったことがうかがわれ、
ちょうど「有明海」のようだったとご説明いただきました。
そして「吉備津彦命」関わる伝説や「きびだんご」の由来が妹尾であったなど数々のお話をお聞かせいただき大変有意義な時間となりました。
「御前神社」後にして妹尾郵便局の交差点北に大正3年8月の道標があります。ふと考えてみると、「金毘羅往来」沿いには郵便局が多いな~。


これは「相生橋」の北西隅にあったものより新しい感じがします。
「右 すぐにわせ いなり はやしま くらしき」「左 せのお おかやま」と記されており、
「鴨方往来」の撫川の街角にも「金毘羅往来」の道しるべが残っていることからも、この場所が分岐点の1つであるとわかる。
往来はこの場所から県道妹尾倉敷線より分れスーパー前の道へと方向を変えて進む。
100mほど行くと「妹尾川(興除用水)」にかかる「清戸橋」を渡り妹尾の町を後にする。

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