草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」中10

2020-02-24 16:29:32 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中10
大久保屋の大奥様⑩
夢見る少女


「何だね、猫の自慢話かい。好きあって所帯を持とうって者同士が、他に何か話すこともありそうなものだがね」
 太助とお仲はついタマの話に夢中になり、大奥様のお帰りも気がつかなかった。二人は年が明けると祝言を挙げることになっていた。

「申し訳ございません。つい話しに夢中になりまして。お奉行所のほうはいかかでございましたか」
 お仲が、頬を赤らめながら大奥様に尋ねた。奉行所から呼び出しの掛かったおなつに付き添って、大奥様もお奉行所に行っていたのだ。
「なに心配することでもなかったよ。道理の通らないことを言っているのは向このkほうだからね。この際だから伊勢屋の方を叱りおいて下さるそうだよ。それからね、凶悪犯の召し取りに功労があったてんで、タマとその買い主のおなつに褒美をもらったよ。まったく今度の南町のお奉行様はずいぶんとお情け深いよ」
タマの褒美はかつお節で、木箱に入って赤い水引がかかっていた。おなつの褒美は反物で常盤屋の新柄だった。

「お仲すまないが、お前仕立ててやっておくれないかい」
「はい、かしこまりました。まあ可愛い、きっとおなっちゃんによく似合いますよ」
 お仲は嬉しそうに微笑むと、反物を手にとって太助に広げて見せた。
「うん、おいらよくは分からないけど、お仲ちゃんが言うのなら間違いないだろう。長屋のおとっつぁんやおっかさんに知らせておくよ、お仲ちゃんが仕立てるんだって」
「そんな太助さん、わたしのことは言わなくっていいわよ」
「何んだねぇ、お前たちは。おなつが目のやり場に困っているじゃないかい」
おなつは大奥様の後ろで恥ずかしそうに下を向いていた。

「お奉行所の帰りにね、ちょいとおなつの家に寄ってきたんだよ。あんな騒動の後じゃ、おとっつぁんやおっかさんが心配しているだろうって思ってね」
「おっかさん、喜んだだろう」
「おっかさんまた太っていた」
「それを言うなよ、本人も気にしているんだから」
 家族や長屋のようすは太助からいつも聞いてはいるが、それでも久しぶりに親や姉弟に会って嬉しいはずだ。ところがどうもおなつは照れ屋で困る。嬉しいとなぜか怒ったような顔になるのはおなつの癖だ。喋り方も極端に声を下げて、ぼそぼそと抑揚にない一本調子になる。まるで娘らしさなど自分には無縁のものと、始めから諦めているような口調だ。「もう少し愛嬌があればいのに」太助は時々そう思うのだった。

 ところが大奥様に言わせると、おなつのそこがチャラチャラしていなくていいそうだ。そこいらの若い娘の突き上げるようなキンキン声は、何を言っているのか分からないし。聞いていると耳が痛くなる。そこへ行くと、おなつの喋り声は低くてよく聞こえる。おまけにきちんと順序立てて話すので、分かりやすいのだと言う。
 
 照れ屋のところはおとっつぁんに似たのだろうか。がっちりとした肉付きのよい体つきはおっかさん譲りだ。性格はおっかさんで、体型はおとっつぁんなら申し分ないのだが。などとつい余計ことを太助は思ったりもする。
 
 ところがおなつの妹のおみつはこの反対だ。おみつは今、娘義太夫の師匠の家に住み込みで弟子入りしている。当節この師匠が旗揚げした娘義太夫の一座が、お江戸の街では知らない者がいないほどの大人気だ。
一座の娘たちがそろいの肩衣と袴をつけ、舞台の上のひな壇に並んで順番に義太夫節を一節ずつ語っていくのだが、合間に客の合いの手が入り舞台を盛り上げる。娘たちの席は人気番付によって決まる。舞台中央が一番人気の娘の席で、そこに座ったものが山場の部分を語るようになっている。

 当初若い男たちの間での人気だったのが、いつの間にか娘やその母親たちにまで飛び火してしまった。この頃では行儀見習いの奉公に出ていい縁談にありつくよりも、師匠に弟子入りして娘義太夫の舞台に立ちたいと言い出す娘たちが後を絶たないそうで、おいそれとは弟子入りも出来なくなった。
 
 そんな狭き門をくぐりぬけておみつの弟子入りが決まったのが半年ほど前だった。「もうじき舞台に立てるようだ」と、母親のお松が自慢げに話していた。
「ついでに大家さんにも挨拶してきたよ。いい人じゃないかい。おなつのおっかさんたちもいるし、あそこならお仲をやったって心配ないよ」
「あの大家をひと目見ただけでいい人だって分かるなんて、さすが大奥様だ」
確かに大家は顔が怖いのだが、根はいい人だった。ただ口うるさいのが玉に瑕(きず)で、重箱の隅を突くという言葉がピタリと当てはまるような性格だ。どうでもいいような、細かなことにまで口を出す。おまけに嫌味と当てこすりが激しく、もっともなことを言っているのに、言われたほうは腹がたつ。

 しかしよく考えてみればおなつの父親が怪我をしたときも、娘のおなつの奉公先から母親のお松の洗い張りの内職の世話までしてくれた。おなつ一家が曲がりなりにもこうして暮らしていけるのも、大家がいてくれたからだった。
長屋の連中だって似たようなものだ。多かれ少なかれ大家のおかげで、なんとか暮らしているようなものだった。
太助は大家を煙たがるのを止めようと思った。

「ただねぇ、あの唇の色だけは何とかならないかね」
「本当ですね、久しぶりに会ったらますます黒くなっていましたよ。わたしも子どものときは大家さんの唇の色が怖くて仕方なかったですよ。本当はいい人なのですけどね」
 めったに人の話に口を挟むこと無いおなつが、口を挟んできた。

「おなっちゃん、大家さんの唇ってそんなに黒いの」
横でお仲が心配そうに聞いてきた。

「そうだ太助、明日鯛を届けておくれ。わたしとしたことが、大家の唇の色なんてどうだっていいんだよ」
 大奥様は急に思い出しように太助に言った。言われた太助は太助で、近頃特に黒くなった大家の唇の色を思い出していた。
「へい、承知いたしました。お遣い物でしょうか」
だから返事がちょっと遅れてしまった。
「いやね、店のほうの騒動もだいぶ収まってきたからね、目黒の旦那様のところに行ってこようかと思ってね。お仲お前も一緒に行って、潮汁を作っておくれ。それからタマとおなつも連れて行くからね」
「かしこまりました。そういえばタマが目黒に行かしてくれませんでしたからね。」
「あの時のマムシだってお紺の仕業だろう。目黒になんど行っていたら、連中の思いのつぼだったよ。途中で殺されるか留守の間に押し込みに入られるかのどっちかだよ。お紺に取っちゃわたしが目の上のたん瘤だったろうよ。タマはこの一年の間わたしを守ってくれていたのだよ、不思議な猫だよ、まったく。」
「そういえば、おなっちゃん目黒初めてですよね」
大奥様の言葉に頷きながら、はたと思いついたようにお仲が言い出だした。
「ああ、おなつは目黒どころかお奉行所のある八丁堀だって始めてだって、キョロキョロしていたよ。無理も無いよ、九つの時から奉公に出ているのだからね。」
「おなっちゃん、目黒の大旦那様の寮はね,坂の上にあってね、目の前に田んぼが広がっていて富士のお山がすぐ近くに見えるのよ。近くには公方様のお狩場があってね、山鳥や雉が時々遊びにくるのよ。大旦那様の畑にはいろんな野菜が沢山植わっていてね、周りには柿や栗の木があるのよ、裏庭には水の湧き出る井戸があって、そこの水で入れたお茶がとっても美味しいのよ」
「そりゃいいや。はばかりながらこの一心太助、用心棒代わりの明日はご一緒させていただきます」
「おや、助かるよ。おなつとタマもしばらく向こうにいるからね、帰りはお仲を送ってやっておくれ、遅くなってもいいからね。ついでにお不動さんでもお参りするといいよ」
「ありがとうございます。なんだか照れちゃいますね」
太助は照れ笑いを浮かべ、お仲は隣で赤くなっている。そのようすをおなつが笑いながら見ている。
「でも大奥様、タマがいないとお店のほうが無用心じゃないですか」
お仲が心配そうに言った。

 タマこの頃では泥棒よけ猫として名を上げて、遠くからわざわざ見物に訪れる大店の主人もいるほどだ。泥棒に入られないようにと、タマを拝んで帰る人もいる。
「ああ、そのことなら心配ないよ。どれ、おなつ出してごらん」
 大奥様に言われ、おなつが手に持った風呂敷包みを開けた。
「おや、甚六さんの作ですね」
おなつが風呂敷包みから出したのは木彫りの置物だった。猫が丸くなって寝ている。よく見ればタマに似ている、長い尻尾や片方の耳が少し切れているところまで同じだった。
 
 おなつの父親の甚六は普請場で足の骨を折る事故に遭ってしばらく大工仕事が出来ない日があった。休んでいる間に腕が鈍らないようにと、木彫りを始めたのがきっかけだった。もともと手先が器用で、木切れを拾って来ては、いつも何か彫っていたので見る間に腕が上達した。この頃では木彫りの腕を見込まれて、名指しで注文が入るようになった。
「番頭さんに、これを帳場の隅にでも置くように言っておくれ。泥棒よけになるんじゃないかい」

 おなつはその夜嬉しくてなかなか眠れなかった。枕元には小さな風呂敷包みが置かれている。あれこれと持っていく物を風呂敷に包んでいたら大荷物になってしまった。「それじゃ泥棒と間違えられるよ、とりあえず要るものだけでいいんだから」といってお仲は笑いながら荷物を減らして、最後にかき餅の包みを入れてくれた。
新しい櫛と貸本も枕もとに置いて寝た。櫛は太助がお仲とそろいで買ってくれたものだった。明日挿して行こうと思っていた。貸し本はお仲に返してもらうことになっている。

 本は「里見八犬伝」だ。人気のある本でなかなか借りられない。運よく借りられたら、納戸にこっそりと行灯をつけて、小声でお仲に読んで聞かせる。本当は使用人が勝手に行行灯なんか使っちゃいけないのだけど…。そういえばお紺も寝たふりをして聞いていた。面白い場面になると、お紺の布団が揺れていたのを思い出す。

―怖い人だと思っていたが……。あの時甘酒の中に砂糖や酒じゃなくて、他の物も入れようと思えば入れられたんじゃないのだろうか。

 タマは体に染みついた臭いが気になるらしく、火の落とされた竈の前で毛繕いをしている。夜更けて月の光が炊事場の明り取りから差し込んで、竈の前のタマを明るく照らした。その頃やっと眠りについたおなつは夢を見ていた。夢の中でお狩場に続く坂道を、白い馬に乗ったお武家さまが駆け抜けて行った。