草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」中9

2020-02-25 16:16:48 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中9
大久保屋の大奥様⑨
もののけ

 『木枯らしの宇平一味御用。その影に猫の恩返し』の見出しのついた早刷りの瓦版が出たのはその日の夕刻だった。瓦版には、頭の宇平と引き込み役のお紺の似顔絵が載り、押し込みの手口から過去に押し入ったお店の名前まで挙げられていた。いずれも大店ばかりで、中にはその後つぶれてしまったお店も少なからずあった。
 
 なかでも、お紺のマムシを使った所業は人々の度肝を抜いた。お紺の放ったマムシを退治し、大久保屋どころかその人柄を知る者にとっては、心のよりどころのような大奥様を守った猫のことも取り上げられ、判官ひいきの江戸の庶民の話題になった。その後お大久保屋のタマの名は叩く間に広まった。まではよかったのだが……

「毎度、魚屋でございます」
 太助が大久保屋の炊事場に声を掛けると、タマが飛び出してきた。
「おやタマお前たしか、一昨日伊勢谷さんに行ったんじゃないのかい」
「伊勢屋さんからお払い箱になって、今朝返されてきたのよ」
タマに代わって答えたにはお仲だった。
「あれだけ大騒動してタマを掻っ攫(かっさら)っておきながら、たった三日でお払い箱とはね。うん、タマお前、臭うよ」 
「分かる。今朝おなっちゃんとお湯で拭いてやったんだけど、まだ臭うでしょう」

 ことの起こりは瓦版の隅に小さく載ったタマの出生にまつわる話だった。親にはぐれたのか捨てられたのか、乳離れもしていない小さな仔猫が雨に濡れていた。それを拾って育てたのが、大久保屋のした働きの女中おなつと書かれてしまったのだ。
 
 タマの名とともに育ての親のおなつの名前まで瞬く間に広まり、大久保屋にも多くの客が訪れるようになった。売り上げも伸びてそれはそれでいいことなのだが、困ったことにタマは自分の家からさらわれた猫だと言い出す者が現れたのだ。大概はそんな難癖をつけて、何がしかの小金をせしめようと小悪党だったが、中には証人を立てて奉行所に訴え出た者がいた。それが伊勢屋の夫婦だった。
 
 伊勢屋はこのところ急にのし上がって来た材木屋で、平たく言えば火事のたびに焼け太った成り上がりだ。木場のはずれにあった小さな材木問屋を居抜きで買いとって、商売を始めたのが十年ほど前だった。元は木曾の修験者だったとか、秩父の霊媒師だったとか胡散臭い噂がささやかれていが、定かではない。新しく立て替えた屋敷は木曾の総檜つくりだとも言われている。その檜つくりの新居で、趣味の悪い壷や皿に囲まれて暮らしている、絵にかいたような成金だ。
 
 何でもタマは一人娘が飼っていた猫の子どもだというのだ。娘の踊りの師匠だったというやけに艶っぽい女を証人にして、おなつを猫のかどわかしで訴えたのだ。奉行所からはおなつとタマに呼び出しがかかった。どうやらお白砂の上で決着をつけるようだ。
 
 最初のうち無視を決め込んでいた大久保屋は、これには驚いた。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだった。奉行所もいったい何を考えているのだろうか、そんな訴えを真に受けるなんて。出るところに出て、白黒つけるのも面白いかもしれない。しかしおなつを奉行所のお白砂の上に上げるのもしのびない。 
「タマに本当の飼い主を決めさせようじゃないかい」大奥様はそう言って、タマを伊勢屋に渡したのが、一昨日だった。
 
 伊勢屋の夫婦は大喜びでタマを自慢の屋敷連れ帰り、これが仔猫のときにさらわれた猫だと親戚にお披露目までした。ところがタマは伊勢屋に来た早々自慢の屋敷の床柱で爪をとぐわ、鍋に蓋を開けて煮あがったばかりの煮しめに口をつける有様だった。おまけに鼠などには見向きもせずに池の中の錦鯉や、鳥かごの中の十姉妹を狙い始めた。
 
 腹に据えかねた伊勢屋の主人が、「タマお前さん、鼠捕りの名人だって聞いたが、あれはハッタリだったのかい」といった。するとタマがプイと表に飛び出して行き、夜になっても帰ってこなかった。慌てて店の若いものに探させたか見つからなかった。

「今夜は特別冷え込む、もうあんな猫ほっといて早く寝よう」と伊勢屋の亭主と女房が布団に入り、やっと温まったときだった。襖の向こうで小さな動物が走り回っているような音がする。猫の鳴き声も聞こえたのでてっきりタマが帰ってきたのだろうと亭主は思ったそうだ。

 放っておいて寝ようと思ったが、ガタガタとうるさく走りまわって寝られない。タマのやついい加減にしろと、亭主が部屋の襖を開けたときだった。黒い塊のようなものが部屋に飛び込んできた。てっきりタマだろうと思い、亭主が思い切り蹴飛ばしてやった…。

「じゃぁ、この臭いはイタチだったのかい」
 太助は改めてタマの臭いを嗅いで見た。自分も魚臭いといわれたら身も蓋もないが、ずいぶんと嫌な臭いだ。今までに嗅いだことのないような臭いだった。

 さて皆さまその途轍も無く嫌な臭い。どんな匂いだかご存知でしょうか。まああの時代に「わきが」なんてあったかどうかは知りませんが。あれのひどい奴だと思って下さい。もう皆さま、顔をしかめられたのではありませんか。

「タマなんてかすめただけだから、まだいいそうよ。伊勢屋さん夫婦はまともに食らっちゃって、この寒空に井戸の水で行水したそうよ。それでもまだ臭いが取れないらしくって、これから襖や畳の張替えをするそうよ」
 伊勢屋夫婦が震えながら行水をするところを想像して、太助は思わず噴出してしまった。

「お前の飼い主はおなつに決まっているじゃないか」
足元で毛繕いを続けているタマに話かけた。

「気の毒なのは番頭さんよ。タマけっこうに臭っているでしょう、でも途中で逃げたら大変だってしっかり抱いて返しにきてくれたのよ。御主人の尻拭いをさせられちゃって。なんだか疲れきった顔していたわ。でも本当にタマにそっくりだったみたいよその仔猫。奥様の思い込みが激しくってね、いくら言ってもあのときの仔猫だって聞かないらしいの」
「しかしよ、お仲ちゃん。別に伊勢屋の肩を持つ訳じゃないが、タマに似た猫けっこう見かけないかい。おいら早馬に蹴られて死んだ猫見て、てっきりタマだとおもった思よ」
 タマはまだ臭いが気になるらしく話しこむ二人の間に座ると、毛繕いに余念が無い。

「あらそれならわたしもこの間、乾物屋さんから干し鱈咥えて飛び出してきた猫見て、思わず『こらタマ』って言っちゃった。でもタマくらい毛並みが綺麗な猫いないわよ」
「おいらもそう思うよ。この腹のところの白い毛なんて、透き通っているじゃないかい」
「そう、それに背中の黒と灰色のしま模様がまた綺麗で、朝日に当ると銀色に光って見えるのよ」