草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」中12

2020-02-22 16:50:04 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中12
大久保屋の大奥様⑫
鈴乃屋善右衛門1
   ご隠居は前にちょっとした風邪をこじらせて寝付いた時に、大奥様から届いたマムシで元気になったことがあった粉末にしたマムシの粉を朝晩に薬代りに飲ませていたら、お粥はもう飽いたので蕎麦が食いたいと言い出したのが三日後だった。十日後には刺身が、二十日後には鰻が食べたいと言い出した。ひと月もすると全快し、大久保屋の大奥様の誕生日にはご祝儀と一緒にタマにお礼だといって、かつお節を手土産にやってきた。
 
 前よりも元気になったと評判で、あれ以来風邪ひとつ引かなくなったと本人が言う。ただマムシとの縁は切れず、未だに朝夕欠かさず飲んでいるそうだ。この頃ではこれが切れると手足の先が冷たくなるという。少し度がすぎるのではと、岡田屋の息子夫婦は心配している。
 
 ご隠居が連れてきた男は、上野池之端鈴乃屋善右衛門と名乗った。岡田屋さんとは親の代からの付き合いで、特にご隠居とは親子ほど年が違うが不思議と馬が合うそうだ。鈴乃屋は岡田屋のご隠居に引き合わされると、自分の商売の話を始めた。何か頼みごとでもあるのだろうか。
 
 鈴乃屋は幕府の御用商人で、お城への出入も許されていた。ただ取り扱う商品が少し変わっていて、犬や猫、小鳥や鈴虫にいたるまでの生き物一切合財である。これらの生き物は大奥からのご注文が多い。つい先ごろの月見の宴には選りすぐりの鈴虫百匹を大奥の中庭一面に放し、奥女中たちを大いに喜ばした。一点の曇りも無いすみ渡ったようなその音色は、満月に照らし出された庭一面に響きわたった。流行り病で母上を亡くし、このところ塞ぎがちだった若様に笑顔が戻り、上様もことのほか喜ばれたと、大奥総取締役の秋月の局様よりお褒めいただいた。
 
 鈴乃屋は大奥だけではなくお蔵方にも出入りをしている。お蔵方に納めているのは主に猫であるが、ただ可愛がるだけの大奥の猫と違ってお蔵方の猫には鼠退治という重大な任務がある。だからと言って猫なら何でもいい訳ではない。もちろん一番大切なことは鼠を捕るのが上手いことだが、器量や毛並みの良さも重要である。その上に猫の品格も求められる。

 なにしろ上様がお口にする米や、先君より伝えられた御書物のほかにも、有事の際に備えて常備している武器弾薬はもとより、兜甲冑の類にいたるまで納められたお蔵の中に入るのだから。その中で粗相でもしたら大変なことになる。
「このタマだって、そんじょそこらの猫ではありませんよ」
 大奥様は別にタマの自慢をしたくて話の腰を折ったわけではない。タマが顔見知りの岡田屋のご隠居の声を聞きつけてやってきたからだ。

「やぁ、こんにちは。お邪魔していますよ」
鈴乃屋はお茶を運んできたお関の後ろから顔を覗かせるタマに話しかけた。小太りで背が低く人のよさそうな顔をしているが、相手を見る目つきが何処か抜け目の無いところが鼻に付く。ところがそんな男が面白いことに、猫を前にすると感じがまったく変わって見える。

「こちらの鈴乃屋さんはね、猫好きが高じて今の商売を始めたのですよ」
 ご隠居の話によれば、名のある両替商の跡取り息子だのだが、十八の年に猫を追いかけて行ったまま、行方不明になったことがあった。けっきょく追いかけまわした猫はつかまらなかった。半年ほど経って帰ってみると腹違いの妹に婿を取り、本人は勘当扱いの届が出されていた。
「これじゃまるでわたしが若旦那を追い出したようだ」と継母はずいぶんと気に病んでいた。ところが若旦那のほうはいたって気にする様子も無く、父親を半分恐喝するようにして今の商売の元手を出させ、上野に小さな生き物屋を開いた。それが今の鈴乃屋の始まりだった。

 商売のほうは天下泰平のご時勢のおかげでずいぶんと繁盛して、鈴乃屋の身代も大きくなった。しかし未だに猫を求めての放浪癖は抜けず、時折行き方知れずになってしまう。「おかげで未だに嫁がいなくて」と岡田屋のご隠居が嘆いた。そんな話の後だからだろうか、猫に話しかけるやり手の商売人は何処か浮世離れした学者や俳人のようにも見えた。

「おや、まだちょっと緊張しているのかい」
鈴乃屋が近づくと、タマはその分後に下がる。
「なんだか嫌われちゃったかな」
鈴乃屋の問いかけにタマは小声で一声鳴いて、その場に座って毛繕いを始めた。
「おや、猫たらしの鈴乃屋さんにしは珍しいですな。お前さんがひと声かけると猫はみんなゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄って来るのですがね。タマこっちにおいで」
 岡田屋のご隠居がタマに声を掛ると膝をぽんと叩いた。するとタマはご隠居の膝の上に乗って、羽織の紐に着いた房で遊び始めた。
「うーん実に美しい猫ですな。足から腹の辺りの白い毛が抜けるようにまっ白だ。おまけ頭から背中にかけての黒と灰色のサバ縞が美しい。」
「おやうちの女中が同じようなことを言っていましたよ、何でも日に当ると銀色に光るって。似た猫はいっぱいいるけどタマほど美しい猫はいないってね」
 タマのこととなると大奥様も目じりがさがる。

   猫好きが高じて今の商売を始めた鈴乃屋は、大奥様としばらく猫談義に花を咲かせていた。十八の時に鈴乃屋が追いかけて行った猫はタマのような毛並みをしていたという。それが月の光を受けると銀色に輝いて見えたという。