パナマ日記の続き →クリック
パナマ運河 ミラフローレス閘門にて 大型船がすれすれでゆっくりと牽引車に引かれながら進んで行くところ@先月
パナマ運河のクルージングのとき、船上で
運河の授業をさせていただいた私なのだけど、
そのとき、パナマ運河開削工事に日本人として唯一携わった
技師の青山士(あきら)さんのお話をさせていただいた。
彼の話は同じ日本人として誇りだし、お客さんたちも
とても興味をもってくださって、その場でネットをつなげたお客さんは
彼を検索し、「こんな本がありますよ!」とか、
「そういえばこの前新聞に出ていた・・・」とか、
女性のお客さんは「なんだか恋しそう」
と、盛り上がってくださっていた。
帰国後、わたしも本を買った。
*
1903(明治36)年、当時26歳の青山さんは、
東京帝国大学土木工学科卒業、アメリカがパナマ運河建設の技術者を募集していることを知り、
単身渡米。(と、簡単に書くけど、船で太平洋を渡っていくだけでも大変な時代)
その船からパナマにただ一人、上陸した日本人。
未知の国。パナマ・・・
そこで彼は難工事に挑んでいくの。
初めは 末端測量員(ポール持ち)として。
熱帯ジャングルの中でマラリアに罹患し
死にそうになりながらもチャグ レス川周辺の測量を続けたそう。
熱帯病にワニもいる、サソリもいる、たくさんの人がなくなる、で、
地獄のようだったと思う。そのときの苦労は彼自身も
アメリカの詩人ジエームズ・スタンレー・ギルバートという人の
「チャグレス川の果て」という詩を引用して書いている。
・・・略
それは死につながる
黄熱病が蔓延し
マラリアの毒が燒結を極める道
熱帯雨林の果てには
ワニが口を開けて待っている
悪魔の館が待っている
悪魔が独り住んでいる土地
・・・略
孤独も相当だったみたい。
椰子の生い茂るパナマで、故郷の友人から
書き送られた島崎藤村の詩「椰子の実」を読んだときこみ上げるものがあり・・・と。
あの熱帯の国から、太平洋の向こうの故郷ニッポンをどんな気持ちで想っていただろう・・・
きっと、
「なんでこんなとこに来たんじゃろー」とか
「なにやっとんや俺は」とか
「いや、でも負けちゃいけん」
「負けんけえの、わしは」
と自分を奮い立たせたりとか、
挫折を感じつつも、まじめに一生懸命がんばったんだと思われる。(広島弁で・・ではなかったろうが)
彼は、実際、とても有能だったので、短期間の内に昇進を続け
最終的に設計技師、工事区長になる。
これはパナマ運河鉄道の列車の窓からの眺め。湖も人工。
1914年に全長80kmのパナマ運河は完成。
青山さんは1912年に帰国して内務省技官に。パナマ運河は8割が完成していたときのこと。
1915年、荒川放水路の岩淵水門工事主任になったの。
きたーーーーーーーーーー
わたし、近所なのよ。
あの水門!
水門設計においては周囲の反対もいくつか押し切って
青山さんの案にそって造られ、関東大震災や
戦後の地盤沈下にも耐えたそう。
ここでも犠牲者も出たりしたけど、彼は労働者の方々をよく
ねぎらい、大切にしたそう。自分も一緒に労働したとか。
その後、太平洋戦争がはじまる。
大日本帝国海軍のパナマ運河攻撃計画というものが存在した。
結局はアメリカ本土への攻撃が優先されたため、運河攻撃は『検討されたのみ』で終わった。
このとき青山さんは日本軍に設計図などを提出するように言われるも
「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と答えたそう
壊されなくてよかったよ
*
昨日、4/17。いいお天気だったので、川ぞいを歩いて
彼が工事主任として携わった旧岩淵水門を見にいってみた。
これまでも見てたけど、そんなに詳しく知らなかったので
今回は、じっくり感慨をもって、見に行った。
今は使われていないけど赤水門と呼ばれている。
この水門の設計施工は放水路の設計・建設の中でも最重要かつ最難関だったみたい。(100年前よ)
今では東京の中でも散策スポットのひとつとされているみたい。
こうして改めて近くから見ると、彼の熱意がまだこの金属部分の赤にも
感じられる。
彼のモットーは言葉は忘れてしまったけど
「後世に、自分が生まれたときよりもいいものを残したい」
だったそう。
赤水門は今は使われていなくて
すぐそばに新しい水門が見える。
赤水門から見た新岩淵水門(青水門) この先、荒川は隅田川になる。
また、近くには荒川治水資料館があるけど、今はコロナで閉館。
その前にある石碑なんだけど、最高責任者で功労者である青山士さんの名前はない。
工事の犠牲になった方々を弔うもので、これは関係者全員の気持ちであるから、という彼の精神。
彼の大好きな富士山の転石が使われ、このあたりを埋め尽くしていたサクラソウの花が彫られているの。
周囲は八重桜が咲いていた。
すーさんには距離があるので、途中なんどか水飲んだり
休んでいた。笑
桜が終わるとうちの近所、いつも街路樹がハナミズキで美しい。ちょうど咲き始めていてとってもカラフルなの。
偶然なんだけど青山さんが愛した花だそうよ。
これは2018年の桜の時期に、子供たちを連れて朝練で歩いたとき。クリック↓
春休み 早朝トレ2018年3月
このときは、早朝の空気の清んでるとこや、朝日や、桜や、スカイツリーとかのほうに気を取られていた。小生意気な子供たちとね
なので、今回はとても新しい気持ちで
旧岩淵水門を見たの。
これも、
パナマ運河からの旅のつづきだったわけ。
パナマ運河 ミラフローレス閘門にて 大型船がすれすれでゆっくりと牽引車に引かれながら進んで行くところ@先月
パナマ運河のクルージングのとき、船上で
運河の授業をさせていただいた私なのだけど、
そのとき、パナマ運河開削工事に日本人として唯一携わった
技師の青山士(あきら)さんのお話をさせていただいた。
彼の話は同じ日本人として誇りだし、お客さんたちも
とても興味をもってくださって、その場でネットをつなげたお客さんは
彼を検索し、「こんな本がありますよ!」とか、
「そういえばこの前新聞に出ていた・・・」とか、
女性のお客さんは「なんだか恋しそう」
と、盛り上がってくださっていた。
帰国後、わたしも本を買った。
*
1903(明治36)年、当時26歳の青山さんは、
東京帝国大学土木工学科卒業、アメリカがパナマ運河建設の技術者を募集していることを知り、
単身渡米。(と、簡単に書くけど、船で太平洋を渡っていくだけでも大変な時代)
その船からパナマにただ一人、上陸した日本人。
未知の国。パナマ・・・
そこで彼は難工事に挑んでいくの。
初めは 末端測量員(ポール持ち)として。
熱帯ジャングルの中でマラリアに罹患し
死にそうになりながらもチャグ レス川周辺の測量を続けたそう。
熱帯病にワニもいる、サソリもいる、たくさんの人がなくなる、で、
地獄のようだったと思う。そのときの苦労は彼自身も
アメリカの詩人ジエームズ・スタンレー・ギルバートという人の
「チャグレス川の果て」という詩を引用して書いている。
・・・略
それは死につながる
黄熱病が蔓延し
マラリアの毒が燒結を極める道
熱帯雨林の果てには
ワニが口を開けて待っている
悪魔の館が待っている
悪魔が独り住んでいる土地
・・・略
孤独も相当だったみたい。
椰子の生い茂るパナマで、故郷の友人から
書き送られた島崎藤村の詩「椰子の実」を読んだときこみ上げるものがあり・・・と。
あの熱帯の国から、太平洋の向こうの故郷ニッポンをどんな気持ちで想っていただろう・・・
きっと、
「なんでこんなとこに来たんじゃろー」とか
「なにやっとんや俺は」とか
「いや、でも負けちゃいけん」
「負けんけえの、わしは」
と自分を奮い立たせたりとか、
挫折を感じつつも、まじめに一生懸命がんばったんだと思われる。(広島弁で・・ではなかったろうが)
彼は、実際、とても有能だったので、短期間の内に昇進を続け
最終的に設計技師、工事区長になる。
これはパナマ運河鉄道の列車の窓からの眺め。湖も人工。
1914年に全長80kmのパナマ運河は完成。
青山さんは1912年に帰国して内務省技官に。パナマ運河は8割が完成していたときのこと。
1915年、荒川放水路の岩淵水門工事主任になったの。
きたーーーーーーーーーー
わたし、近所なのよ。
あの水門!
水門設計においては周囲の反対もいくつか押し切って
青山さんの案にそって造られ、関東大震災や
戦後の地盤沈下にも耐えたそう。
ここでも犠牲者も出たりしたけど、彼は労働者の方々をよく
ねぎらい、大切にしたそう。自分も一緒に労働したとか。
その後、太平洋戦争がはじまる。
大日本帝国海軍のパナマ運河攻撃計画というものが存在した。
結局はアメリカ本土への攻撃が優先されたため、運河攻撃は『検討されたのみ』で終わった。
このとき青山さんは日本軍に設計図などを提出するように言われるも
「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と答えたそう
壊されなくてよかったよ
*
昨日、4/17。いいお天気だったので、川ぞいを歩いて
彼が工事主任として携わった旧岩淵水門を見にいってみた。
これまでも見てたけど、そんなに詳しく知らなかったので
今回は、じっくり感慨をもって、見に行った。
今は使われていないけど赤水門と呼ばれている。
この水門の設計施工は放水路の設計・建設の中でも最重要かつ最難関だったみたい。(100年前よ)
今では東京の中でも散策スポットのひとつとされているみたい。
こうして改めて近くから見ると、彼の熱意がまだこの金属部分の赤にも
感じられる。
彼のモットーは言葉は忘れてしまったけど
「後世に、自分が生まれたときよりもいいものを残したい」
だったそう。
赤水門は今は使われていなくて
すぐそばに新しい水門が見える。
赤水門から見た新岩淵水門(青水門) この先、荒川は隅田川になる。
また、近くには荒川治水資料館があるけど、今はコロナで閉館。
その前にある石碑なんだけど、最高責任者で功労者である青山士さんの名前はない。
工事の犠牲になった方々を弔うもので、これは関係者全員の気持ちであるから、という彼の精神。
彼の大好きな富士山の転石が使われ、このあたりを埋め尽くしていたサクラソウの花が彫られているの。
周囲は八重桜が咲いていた。
すーさんには距離があるので、途中なんどか水飲んだり
休んでいた。笑
桜が終わるとうちの近所、いつも街路樹がハナミズキで美しい。ちょうど咲き始めていてとってもカラフルなの。
偶然なんだけど青山さんが愛した花だそうよ。
これは2018年の桜の時期に、子供たちを連れて朝練で歩いたとき。クリック↓
春休み 早朝トレ2018年3月
このときは、早朝の空気の清んでるとこや、朝日や、桜や、スカイツリーとかのほうに気を取られていた。小生意気な子供たちとね
なので、今回はとても新しい気持ちで
旧岩淵水門を見たの。
これも、
パナマ運河からの旅のつづきだったわけ。