ジョルジュ=バタイユの最古の執筆作品が「ランスのノートル・ダム大聖堂」である。ランス大聖堂は2006年にフランスへ行った際に訪れた場所である。もっとも、パッケージ旅行のオプショナルツアーで「シャンパンの本場に飲みに行こう」というコースで「ついでに」見てこようという感じだったが、実際に行ってみると、シャンパンどころではなくなったくらい、その巨大さと美しさに圧倒される。先のバタイユの文章の中には、つぎのような1文がある。
そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。(酒井健 訳『ランスの大聖堂』ちくま学芸文庫 2005)
全く仕事に恵まれていなかった私は、2006年末まで勤めた会社でその「不幸」が極まったように感じられた。自分を活かす訳でもなく、ただ、居ててこなすだけの毎日。その年末、私は会社を辞した。これほど、仕事に不満を持って辞めた事はかつてない。
それから、しばらく仕事を探す日々が続いたが、失業保険給付が終わる頃、ある会社の正社員に決まった。「マーケティング」の会社ではあったが、結局のところ、電話口の質問を繰り返す「コールセンター」である。私が電話をかけるのではない、その管理を行い、先々クライアントとの交渉や営業を行うというもの。面接も二回あるはずが、面接日に行くと、担当者が居なくて、出て来たのはその会社の若い「会長」。たかだか30分ばかりしゃべって、次の日に内定が出た。
しかし・・・
正直言って、自分の中にある「コード」ではない。自分の中で引っかかるものがある。すぐに働けるにも関わらず、入社まで一ヶ月も待たされ、その間に不安だけが倍増していった
さて、入社日当日。それまで私はせいぜい多くて50人の会社で働いていたが、しかし、その大半は正社員と契約社員くらいであった。都度、派遣社員を若干入れていたというところか。
だが、その会社は派遣だけで60人以上いて、それを10名に満たない正社員がコントロールする会社であった。これは普通なのかも知れない。でも私の中では「普通」ではない。
5月の半ばに入ったが、6月の初めまでいる「派遣さん」を教育する。人間は出たり入ったりするわけである。少なくとも私はこちらがわの人間ではなく、あちら側の人間、すなわち派遣社員の方だった。人の出入りが激しいと、やはり心は荒んでくる。それは以前の就業先で知った事だった。私は他人から見てそのように見えないのだが、その日パニックを起こし、胃が痛かった。これだけの症状が初日の午前中だけで起こったのである。次の日、私は会社を辞した。
そこから貯金を食いつぶす時間が始まる。次の仕事はなかなか決まらない。
やる気のない社長とか、廊下の蛍光灯がチカチカ点滅しているとか、隣の人事担当者とボソボソ喋りながら、時々、独り言を言っているのかわからないような口調で質問してくる専務。カタコトの日本語を喋る機会商社の社長・・・・実に『変な』面接や会社を受けた。こうした会社はみんなハローワークで見つけたものだが。
だんだんとやる気の方が後退していった。ひどい事に、マーケティング会社に内定した頃からかかっていた鬱病にも似た症状が悪化しはじめていた。しかし、病院にも行けない。バカ高い国民健康保険を払い続けてまで、保険証を持つ事が嫌だったからだ。大体、前職で渡されていた保険証を2年間に行使したのは一回だけ、軽いカゼのときである。配偶者や小さな子どもがいるならともかく、私ひとりでは必要ない。
夏が過ぎて、秋になり、私は楽に死ねる方法を考えた。
結局、この近畿では望む仕事が見つからず、東京へ行く事も考えた。私はあれほど忌避していた外国語校正の仕事を行う会社の面接をうける約束を取り付け、東京へ行くバスを予約したのは、10月の中頃。時間だけは沢山あった。
10月17日、この日は一年で一日だけ奈良の興福寺にある南円堂が開かれる。中には国宝 不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)が安置される。偶然にもこのことを知り、何かに動かされるように、わたしはそこへ向かった。
正直いって、仏像に関する知識など何も無い、ましてそれは美しいのかどうなのかということは全くわからない。でも「これほどやさしい顔はない」という強い衝撃を得た。東京は、「何のために呼んだんだろう」という感想を持つだけに終わった。
そして私は奈良に帰り、目減りして行く貯金をセーブすべく、バイトを探した。
そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。(酒井健 訳『ランスの大聖堂』ちくま学芸文庫 2005)
全く仕事に恵まれていなかった私は、2006年末まで勤めた会社でその「不幸」が極まったように感じられた。自分を活かす訳でもなく、ただ、居ててこなすだけの毎日。その年末、私は会社を辞した。これほど、仕事に不満を持って辞めた事はかつてない。
それから、しばらく仕事を探す日々が続いたが、失業保険給付が終わる頃、ある会社の正社員に決まった。「マーケティング」の会社ではあったが、結局のところ、電話口の質問を繰り返す「コールセンター」である。私が電話をかけるのではない、その管理を行い、先々クライアントとの交渉や営業を行うというもの。面接も二回あるはずが、面接日に行くと、担当者が居なくて、出て来たのはその会社の若い「会長」。たかだか30分ばかりしゃべって、次の日に内定が出た。
しかし・・・
正直言って、自分の中にある「コード」ではない。自分の中で引っかかるものがある。すぐに働けるにも関わらず、入社まで一ヶ月も待たされ、その間に不安だけが倍増していった
さて、入社日当日。それまで私はせいぜい多くて50人の会社で働いていたが、しかし、その大半は正社員と契約社員くらいであった。都度、派遣社員を若干入れていたというところか。
だが、その会社は派遣だけで60人以上いて、それを10名に満たない正社員がコントロールする会社であった。これは普通なのかも知れない。でも私の中では「普通」ではない。
5月の半ばに入ったが、6月の初めまでいる「派遣さん」を教育する。人間は出たり入ったりするわけである。少なくとも私はこちらがわの人間ではなく、あちら側の人間、すなわち派遣社員の方だった。人の出入りが激しいと、やはり心は荒んでくる。それは以前の就業先で知った事だった。私は他人から見てそのように見えないのだが、その日パニックを起こし、胃が痛かった。これだけの症状が初日の午前中だけで起こったのである。次の日、私は会社を辞した。
そこから貯金を食いつぶす時間が始まる。次の仕事はなかなか決まらない。
やる気のない社長とか、廊下の蛍光灯がチカチカ点滅しているとか、隣の人事担当者とボソボソ喋りながら、時々、独り言を言っているのかわからないような口調で質問してくる専務。カタコトの日本語を喋る機会商社の社長・・・・実に『変な』面接や会社を受けた。こうした会社はみんなハローワークで見つけたものだが。
だんだんとやる気の方が後退していった。ひどい事に、マーケティング会社に内定した頃からかかっていた鬱病にも似た症状が悪化しはじめていた。しかし、病院にも行けない。バカ高い国民健康保険を払い続けてまで、保険証を持つ事が嫌だったからだ。大体、前職で渡されていた保険証を2年間に行使したのは一回だけ、軽いカゼのときである。配偶者や小さな子どもがいるならともかく、私ひとりでは必要ない。
夏が過ぎて、秋になり、私は楽に死ねる方法を考えた。
結局、この近畿では望む仕事が見つからず、東京へ行く事も考えた。私はあれほど忌避していた外国語校正の仕事を行う会社の面接をうける約束を取り付け、東京へ行くバスを予約したのは、10月の中頃。時間だけは沢山あった。
10月17日、この日は一年で一日だけ奈良の興福寺にある南円堂が開かれる。中には国宝 不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)が安置される。偶然にもこのことを知り、何かに動かされるように、わたしはそこへ向かった。
正直いって、仏像に関する知識など何も無い、ましてそれは美しいのかどうなのかということは全くわからない。でも「これほどやさしい顔はない」という強い衝撃を得た。東京は、「何のために呼んだんだろう」という感想を持つだけに終わった。
そして私は奈良に帰り、目減りして行く貯金をセーブすべく、バイトを探した。