猛暑が来たかと思ったら、一転して寒気が入ってきて、肌寒いくらいですね。
私はこの「暑さの後の寒さ」が大好きで、とても気持ちがいいです。秋が好きですし、晩秋に、冬を思わせる風が立った瞬間なども大好きです。
これはちょっとした幸福感とも言えます。
寒さそのものが好きだというわけではないらしく、春にぶり返しの寒さが続いたりすると、いいかげんにせい、と癇癪が起こったりします。いい気なものです(笑い)。
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ソースがはっきりしないのですが、ある生理学者の研究によると、
「人間の生理的感覚のうち80%以上は、不快なものである」
とのことです。
実際、先だって自分で“実験”してみましたが、確かにその通りのようでした。
実験というのは、「他に心を奪われていない状態で、起こってくる生理的感覚を丹念に拾っていく」という作業です。
生理的感覚にはいろいろなものがあります。眠気、だるさ、皮膚の接触感、かゆみ、痛み、肉体そのものの重さ、内臓感覚、そして外界刺激――風、温度、音、臭い、光などへの反応感覚……
ほとんどが、“不快”です。ニュートラルな、つまり快ではないが不快でもない、というのもないではありませんが、それほど多くはありません。“快”はめったに起こりません。
われわれは日常生活で、仕事をしたり、何かを見たり、人と話したりしている間は、こうした感覚にほとんど注意を向けません。シャットアウトしているわけです。
けれども時には、こうした不快感が閉じた蓋の隙間からにじみ出して、正常な行動を歪めることもあります。たとえば、変な臭いや騒音のある飲食店で歓談していると、いつも楽しく会話している相手なのに、妙に苛立った感じになったりすることがあります。眠かったり腹が減っていたりすると不機嫌になる場合もあります。
精神が活発に動いていれば、“不快”を寄せ付けない状態になりますけれども、不活発になれば、“不快”は頭をもたげ、増殖します。心身の不調があれば、これはもっとひどく暴れ出します。
生理的“快”というのは何でしょうか。
おいしいものを口にした時の快感、セックスの快感や人の体や膚に触れた時の悦楽、温泉につかった時の解放感、眠りに落ちる直前の恍惚感……
疲労感は不快の場合も快の場合もあるような気がします。達成感が伴っていれば快、空虚感だったら不快、でしょうか。これは不思議ですね。ひょっとしたら疲労感は基本的には快で、余計な思いや感情が加わるから不快と錯誤するのかもしれません。
満腹感というのは、しばしば不快です(特に歳を取ってくるとかなり不快になるように思います)。逆に空腹感は必ずしも不快ではありません。かの内田百大先生は「人生の中で最もよい感覚は空腹感である」とのたまっておられました。でも時には腹が減っていらいらすることもありますが。
音楽や美術も、生理的快の部分があります。ただこれはそれだけではないわけで、難しいからちょっと置いておきます。
でも、いずれにしても、“快”というのは、そうしばしばあるものではない。そしてあっても持続しない。再現しようとしても必ず成功するわけでもない。温泉につかった時の至福は、最初だけですよね。美味でも、いつも感動できるかと言えばそうでもない。
気まぐれで、なかなか手に入らず、予測もコントロールもできず、そして移ろいやすい。
心理学者のV・E・フランクルは、「生理的な快感を幸福と混同してはいけない」と言いました。
おっしゃる通りで、生理的な感覚の大半は不快であり、快はめったに訪れず、しかも刹那的に過ぎ去っていくものだから、それを幸福と取り違えたら、人生は悲惨なものになります。
でも、生理的な快感は、しばしば、それも強烈に、「幸福感」をもたらすことも事実です。私なども昔は相当快楽主義者だったので、生理的な快感の至福感に包まれた時は、「ああ、このまま死にたい」と思ったことも何度もあります(笑)。あほですが、このあほを背負わされているのが人間というもので……(いや、確かにそんなことを思わない賢人もいるでしょうが)
フランクル先生は、「幸福というのはお駄賃、時々ついてくるおまけみたいなもので、それ自体を求めてはいけない、というより不可能だ」とおっしゃっていますが、それはそうなのですが、わかっちゃいるけどやめられないのが人間のさがなのでしょう。
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生理的感覚は、ほとんどが不快。だがごく時たま得られる快は、時に強烈な幸福感をもたらす。これが人の人生を歪めるもとになる。
で、一部の賢い人たちは、徹底した禁欲主義に突き進んだ。これ、禁欲主義というよりも、「生理的快」を徹底して排除したというべきなのかもしれません。生理的快を断固として排除すれば、人生を歪める幸福感の追求も排除できる。そうやっていけば、欲望をコントロールでき、さらには欲望自体が消滅する……かどうか。消滅することはないような気もしますが、私は徹底した禁欲修行をやったことがないので、わかりません。
でも、徹底して「快」を排除しても、「不快」は残ります。これは間違いないところで、人間が肉体を持っている以上、不快自体はなくならないはずです。
ただ、生理的不快感に対して、人はけっこう耐性を持っているようです。
不快が常態なのですから、当然と言えば当然かもしれません。
じっと観察すれば確かに不快を感じているのはわかるけれども、普通に生きていれば、それほど気にならない。精神が活発に活動していれば、ほとんど自動的に消え去る。
こわいのは、生理的不快感を強く感じていながら、それをはっきりと意識しないでいるために、通常の行動が歪められることでしょう。
眠かったために、腹が減っていたために、つい親しい人に当たり散らしてしまったり。あるいはある人の声とか臭いとかが生理的不快であるために、ついその人そのものを嫌ってしまったり。
生理的不快を感じている時に、それを意識しないと心の感情状態が悪くなる、意識すると(不快自体はなくならないけれども)感情状態は安定を取り戻す。これは「感情モニタリング」という心理技法の中心概念の一つですけれども、人間の心の深い真実を衝いているように思います。
生理的快・不快を感じている自分を「意識化」すると、それとは別の自分、そちらが本当の自分である自分が、顕われてくる。そうやってトレーニングしていくと、生理的快・不快に揺らがない自分ができてくる。(さらにこれを進めていくと、時々の思いや感情に揺らがない自分が顕われてくるようになるわけですが、これはまた奥の深い話なので今はやめておきます。)
病の床で、あるいは死の床で、苦痛・不快・不安に揺り動かされてわめき散らす人もいます。そういうものを感じつつも、周囲への思いやりを失わず、毅然としている人もいます。願わくは後者になりたいものです。
何の話かわからなくなりましたので、このあたりでやめますけど、まあ最後に言っておけば、
(肉体を持って)生きているということは、基本的には不快なのだよ。