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【人生の苦悩】(1) 肉体という牢獄

2010-10-23 00:22:09 | 高森光季>人生の苦悩

 人間にとって一番の苦労は、肉体という牢獄に閉じ込められていることでしょう。

 「私は、いかにして〔霊という〕この大いなる富が〔肉体という〕この貧困の中に住むに至ったかに驚嘆している。」(『トマスによる福音書』29)

 「地上の普通の不可知論者の考えているような土くれの肉体の中に住むことなどは、われわれからみればまさに死せる状態としか思われないからである。」(『不滅への道』序文)

 「地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それゆえにまた暗黒の勢力の奴隷でもある。」(『不滅への道』第三章)

 「あなた方はいわば囚人のようなものです。肉体という牢に入れられて、物質という壁で仕切られて、小さな鉄格子の窓から外をのぞいているだけです。」(『シルバー・バーチの霊訓』第4巻、144頁)

 人間の肉体は、何兆個という細胞が見事に「協働」して一個の生命体を作り出しているという点では、驚異的な、素晴らしいものですけれども、それでもその中で生きるというのは、なかなか不便・不条理があるものです。
 そもそも、食べなければならない。まあ、カロリーだとか栄養素だとかいう話は、本当に本当なのか、かなり疑いが生じるところではありますけれども、ごくごく稀な例を除いては、人間、食べなければならないことは間違いない。そして、食べるものを得るためには、どういうわけか、基本的には苦労して働かなければならない。これだけ科学が発達しても、人類のほとんどは、食べるために一所懸命に働かないといけない。どうもそういうふうにこの世は作られているらしい。平和で搾取のない世界ができて、誰もが衣食住の心配をしなくてすむようになる、というのは人類の夢であるけれども、それは現在の人類のレベルでは無理だろうし、ひょっとしたらそうでないほうが人類の霊的成長にはふさわしいとされているのかもしれないし。
 旧約聖書の創世記で、神ヤハウェは禁を破って知恵の実を食べたアダムたちをエデンの園から追い出し、「お前らは一生、苦しんで地から食物を取る」と宣告した。(小学生の頃、『天地創造』という映画でこの場面を見て、えらく憂鬱になったことを覚えているw)
 毎日毎日三食(肉体労働をしなければ二食か二食半くらいでだいじょうぶかも)食べなければならないというのは、本当に鬱陶しい。ちょっと主婦の愚痴みたいだけれども。

 そのほかにも、排泄欲求、睡眠欲求、寒さ暑さを逃れたい欲求、生理的不快を避けたい欲求、さらにエッチな欲求……。まあ欲求のほかにも、肉体は手入れをしないと汚いし臭いし、手間がかかる。
 つくづく、肉体というのは荒馬のようで、乗りこなすのは大変なことでしょう。押さえつけようとしても暴れる。

 霊信によると、魂が肉体に完全に「入る」のは、10代後半のようです。受胎の瞬間から、魂は肉体と徐々に結びついていき、小学生くらいになると、かなりしっかり結合してくる。それでもまだ不安定さが残って、最終的に霊魂と肉体が合一するのは青年期後半らしい。だから、子供たちはよく霊を見るし、思春期に霊的体験をする人も多い。子供たちが意味もなく走り回ったり、大声を上げたりするのは、支配力を獲得し始めた肉体の操作が面白くて仕方がないのでしょう。前世の記憶を覚えているのが子供に多く、それも成長すると薄れていくというのも、このあたりに原因があるのでしょう。
 この間に、うまく魂と肉体との結びつきがつけられないと病気になったりする。また、肉体に付随する「亜人格」と霊魂との間の齟齬に苦しむ場合もあるとの説もあります。
 ともあれ、霊魂が肉体に宿るというプロセス自体も、なかなか大変なようです。

 壮年期はだいたい肉体を駆使して盛んに活動するので、多くの人はそれほどの問題も感じないでしょうけれども(性欲という大敵は別としてw)、老年期に入ると、またまた肉体の問題が迫り出してきますね。肉体の衰えは、これもなかなかつらいものがあります。
 衰えならまだしも、さらに老化が進み、大病などをすると、行動不全、脳機能不全などが起こる。これはつらいを超えて、こわいものがありますね。
 近年、安楽死や尊厳死の問題もぽつりぽつり言われるようになって、2ちゃんねるなどでも「安楽死を認めろ」という主張が多くなっていますが、もともと「ポックリ逝くこと」への願いは前からあるものでしょう。このあたりははっきりしたことはわかりませんが、「死ぬことへの恐怖」よりも、「苦しみながら死ねないという恐怖」の方が、一般的には大きいのかもしれません。まあ、医学技術の驚異的な発展の負の側面として、「とにかく生存が善」という考え方が強まり過ぎて、それに対する反発として、チューブにつながれて身動きすらできない生存なら、いっそすっきり逝ったほうがいい、という意見が出るのは、自然な感覚かもしれません。
 私なども、正直言えば、余計な延命医療はしてもらいたくないと思います。脳梗塞や心筋梗塞で倒れたところを病院に担ぎ込まれて不随意な入院生活を送るよりは、そのまま放置してもらいたいとも。今年の猛暑で、お年寄りが農作業中に熱中症で亡くなったというニュースがありまして、おおごとのように報道していましたけれども、自然の中でいつもの作業をしていて、ふっと意識が遠のいて死んでいくのなら、へたに病院で苦しい治療を続けた後に死ぬよりも、むしろよい死に方ではないかとも思いました。
 「孤独死」などとテレビでは大事のように報道していますが、独りで死んで何が悪いのでしょうか。死体の発見が遅れて、周囲に迷惑がかかるという問題はありますけれども、どうせ病院だって、死にそうになったら医者や看護士がばたばたマッサージしたりして、人との別れなどろくにできないのだから、大して変わりはないのではないでしょうか。
 苦しみや痛みを感じず、家族たちの温かい愛情に見守られて大往生するというのは、理想かもしれませんが、万人ができるものでもないでしょう。何をそんなに贅沢を求めているのでしょうか。
 霊信によると、老化は徐々に魂と肉体が離れていくことであり、その過程はゆっくりとしたものが望ましい。あまり急激な霊肉分離はショックが強いからよろしくないとのことです。痴呆症などもそのプロセスとしてはやむを得ないのかもしれませんが、半端な分離状態が何年も続くのは、さすがにごめんこうむりたいと思っても仕方がないでしょう。

 肉体を持つということは普通でさえ大変なものなのに、先天的・後天的に肉体の障害を持ってしまった場合の苦労は、並大抵のものではないでしょう。こういうことは当事者にしかわからないし、はたから何かを言えるものではないので、沈黙する以外ありません。

 肉体で一番いやなのは、「痛み」かもしれませんね。もちろん痛みというものは、肉体の異常を知らせる重要な役割を持っているわけですけれども、このシステムにはどうも不備があるようで、爪や歯に関しては必要以上に大きな痛みを感じる(拷問に使われるほど)なのに、一部の病気では痛みのシグナルがないものもある。末期ガンのように、もうシグナルの必要がなくても、無意味に続く。
 しかし、痛みというものは、病気のシグナルのほかに、人間を生に引き留める働きもあるのかもしれません。「痛みって必要以上なんじゃない?」といったテーマの掲示板の書き込みに、「痛みへの恐怖がなかったら、人間はもっと簡単にぽこぽこ死んでるんじゃない?」というものがありました。そう言われると確かに、「死への恐怖」の中には、自己の消滅への恐怖もあるでしょうが、死んでいく際の「痛み」への恐怖も含まれているのかもしれません(実際にはそういう「断末魔の異様な苦しみ」とういものはないようです。その前に魂は肉体から離れるというのです)。

      *      *      *

 こういう厄介なものだから、カタリ派のように「肉体は悪」とする思想が出るのは当然のことでしょう。前にも書きましたが、カタリ派の世界観では、人間の魂は、悪である「物質世界の創造者」によってこの世に拉致されたものであって、肉体を厭離し、叡智を得、しかるべき導師による救済儀式を受ければ、死後は再び天界に戻ることができるとするものでした。
 また、仏教やその前のウパニシャッドでも、魂が人界や天界をも含む実在界を輪廻するのは「無明」のゆえであって、「叡智」を得れば輪廻から解脱すると説いたわけで、やはり肉体は「悪」であるということになりそうです。

 ではどうするか。死んでしまえばいい。肉体におさらばすればいい。――ところが、カタリ派でも仏教でも、それは解決にはならない。なぜなら、生まれ変わって続くから。生まれ変わりというのは、ある見方をすれば希望だけれども、別の見方をすれば、「苦の継続」ということにもなるわけで、面白いですね。

 で、結局のところ、いくつかの宗教では、「肉体の感覚や欲望をコントロールできる(滅しられる)ようになればよい」という解決法ができた。それは苦からの解放であるし、欲望を離れられるから叡智を得ることにつながるとも考えられた(本当?)。
 そのために、断食を始めとする様々な苦行がなされたわけです。お釈迦さんも「自分ほど苦行をした人間はいない」と自慢?していますが、想像を絶する苦行によって、あの悟りに至ったとされているわけですね(彼自身はその後、苦行は必要ないと言ったようですが)。

 だけど、本当に苦行をしていけば、肉体の感覚や欲望はコントロールできるようになるのでしょうか。もうかなり進歩を遂げている魂は可能になるのかもしれませんが、まあ私のような下根の者はその手前で挫折するわけで……。
 それに、何十年かして死ねば、誰もが肉体の感覚や欲望に囚われない状態(かつ生きている)になるわけだから、別に今やらなくてもいいのではない? みたいな考え方もあるわけで。
 もちろん、感覚や欲望に巻き込まれてぐちゃぐちゃにならないような「しっかりとした自分」を作ることは大切でしょうけれども、感覚や欲望を全否定してしまうと、この世に生きる意味も否定することになりはしませんか、と。

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 スピリチュアリズムでは、「肉体は悪」とは言いません。この物質の世界、肉体という牢獄に閉じ込められて苦闘する世界は、不自由で、「ケチでちっぽけな世界」で、「荒々しい雑な世界」であるとは言いますが、それは悪なのではなく、「未成熟な魂が成長するにはふさわしい世界」だというのです。だから、肉体をもって生きることの喜びも味わいなさい、と。
 「なんか慰められているというよりは、落とされている感じ」と言う方もいるでしょう。確かに未熟だと言われるのは、不愉快だしがっかりしますね。でも、しょうがないものはしょうがない。成長していけるのだとポジティブに考えることもできるわけで。

 肉体を生きる喜び――肉体労働したり、セックスしたり、スポーツをしたり、自他の肉体美を享受したり――は、しっかりと味わいなさい、そして肉体の苦しみも魂の成長の糧として甘受しなさい。これが高級霊のメッセージのようです。派手な訴求力を持たない、穏当でむしろ凡庸にすら感じる意見ですけれども、これが真実なのだろうなと思います。
 魂の実在や永遠性を自覚したところで、肉体の苦悩はなくなるわけではありませんね。ただ、私という魂の成長のために、「生命の神秘を司る大いなるもの」からお借りした「乗り物」だと思って、その驚異に驚き、不便さに文句を言い、そしてありがたく愛おしみつつ「お付き合い」する気持ちでいれば、多少、余裕は出てくるのではないでしょうか。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-08-30 18:38:47
徳川光圀の人生論
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Unknown (Unknown)
2017-12-26 23:51:52
内容がバカ
思考が稚拙
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