Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

優位性

2005-08-15 12:47:37 | ひとから学ぶ
 人は人と対峙する際に、相対する人とどちらが優位かというところで、話しぶりがずいぶん異なるものである。そういう意識を必ずしもすべての人が持つわけではないだろうが、認識しないうちに、それが出ることもある。あるAという人がいる。ふだん自分と話している時の口調、態度がそのAという人の姿、イメージだと捉えていたとしても、そのAという人が、Bという人と話す姿、イメージが、わたしと相対している時のままとは限らない。とくにその優位性を明らかに持つ場合は、いつものAという人とはかけ離れることもよくある。こういうケースは、目上の場合か否かによっても、かなり異なる。会社でいえば上司に対する口調、態度、そして部下に対する口調、態度が明らかに異なる人がいる。二重人格といわれてしまえばそれまでであるが、人格が二重なのではなく、無意識のうちに出る優位性の判断から生まれるものである。できれば同じ顔を持ちたいものであるが、自ら不利な状況に陥れば、なんとかその場を逃れたいと思うのは当たり前のことで、そうした葛藤の連続かもしれない。
 人は、家庭が安定していれば、まず「幸せ」という条件がそろってくる。家という一組織のなが、それぞれが自らの人生を持ち、そして安定すれば、相乗効果で家庭は安定する。しかし、たとえば一人暮らしのような人は、そうした安定を持てないため、外に対して何らかの優位になるものを自ら持たないと、一人で暮らすという心の持ちようが安定しなくなってしまう。だからこそ、人に何を言われようと、それを返すことができるだけの自負を持とうとする。そうしたそれぞれの人生を尊重できる心を持ちたいが、常の暮らしに追われていると、つい目先の事物に集中し、口をついて興味本位な言葉が出てしまう。そんなまちがいの繰り返しであるが、そうした間違いさえ気がつかなくなったこのごろの社会である。
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2005-08-14 00:35:25 | 農村環境
 なんという偶然だろうか。本日の信濃毎日新聞の斜面(1面の最下欄)に「お蚕さま」のことが触れられていた。この記事を書いた記者も中条村の飼育セットを購入して育てたという。そして、人工餌を使いながら、桑を食べない一生ではかわいそうと、最後の方で桑を与えたという。わたしの家でも、すでに18の繭が作られていたが、最後の二匹に桑を与えてやった。最初から桑を与えると、桑しか食べないということで、桑が不足するとせっかくの20匹もかわいそうである。そこで、もうそれほど桑を食べなくなってから、桑の葉を与えてやったということである。すでにみんな繭になった。中条村独自といわれる黄色の繭が半分くらい混ざっている。
 この記事を書いた記者も、説明書に従って、繭で人形やシルクフラワーを作るという。家でも同じような話をしているが、思案中である。中条村ではこのようなセットを扱っているので、養蚕農家がまだ何件か残っているかと思いきや、3戸ほどという。ぜひこのセットの販売を続けてほしい。
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戦争

2005-08-12 23:59:35 | 農村環境
 今日の長野県地方新聞である信濃毎日新聞に、憲法県民調査の結果が掲載されていた。調査方法は、20歳以上の男女1000人を無作為抽出で郵送で行なったものという。562人が回答というから、56%の回答ということになる。無作為だから回答の無いものはいいろ理由もあるのだろうが、いわゆる「わからない」「回答の必要もない」というものであれば、無関心であるということになる。質問にあった「憲法9条を見直す必要をどう思うか」の回答は、「必要がある」33%、「必要がない」46%というもので、このうち、必要があると答えた理由に、「自衛権と戦力の保持」と答えた人が50%あった。いっぽうで、「自衛隊の役割や補強に歯止めとなる規定を設けるべきだ」と答えた人も59%と高く、見直し=自衛力の保持というわけではないことがわかる。しかし、いずれにしても、戦後60年ということで、テレビでさまざまな企画ものが放映されるが、不戦の誓いは低下していることはいうまでもない。
 また、日本の社会のあり方について、「実力や成果が報われる競争的社会」について望ましいと答えた人が33%、望ましくないと答えた人が29%、「国家や企業の安定を重んじる規律的社会」を望ましいと答えた人が41%、望ましくないと答えた人が21%、「愛国心を憲法や教育の場で育てる社会」を望ましいと答えた人が36%、望ましくないと答えた人が23%であった。なんとも奥の深い内容となっているが、全体的に社会主義的な雰囲気がそこにはある。国家のために何をすべきか、そんな部分をこれまでの戦後ではあまり口にしてこなかったことは確かである。それに触れるだけでかつての「戦争」をイメージさせるからである。しかし、いっぽうで、さまざまな世界の混乱を目の当たりにしながら、国が安定しないといざというときに大変なことになる、という不安な要素が国民が認識するようになったからだろう。しかしである。このごろ思うのは、かつて常識であったことが、そうではない動きや、言動を聞くことが多い。自衛力のために憲法を改正する、そんなイメージは、わたしの成長のなかでは身近であまり聞くことはなかった。意識が高いといえばそういうことになるが、いっぽうで人がどうであれ、身を守るという意識が常になりつつある。日常の暮らしがそうだからこそ、普段ではない世界に対しても、同様のイメージをもつ。おそらく、戦争はしたくない、といえば、それは逃げてはないか、と指摘されるのだろう。にもかかわらず、人々は、常の暮らしからさまざまな部分で逃げている。世代が同居すればよいのに、わざわざ別居する。悪事を指摘すればよいのに見ぬふりをする。自ら解決すればよい喧嘩を、解決できずに長引かせる。果てには「出るところに出る」と脅す。
 いずれこの国は、子どもたちに戦争に行け、ということになるだろう。いやなるかもしれない。世界も、日本も映画のような英雄が現れないものか。
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土手の草刈

2005-08-11 19:52:56 | 農村環境
 先日捻挫したのは、草刈後の草片づけをしていた際にしたものである。この土手、高さで5メートル以上あり、その土手の上の水田水張面積は、3枚でせいぜい1反歩(1000㎡)程度である。普段は土手が大きすぎるため、畦の上と上から届く程度を刈るだけで、土手のほとんどは草ボーボー状態である。それでも年に1度程度は大きな土手を刈ることにしている。傾斜地だから土手が大きなのは仕方がないことだが、周りの水田をみても、これほど土手ばかり持っている家はそうはない。この土手の下の方で、昔から湧水が出ているところがあって、昔は小さな池になっていた。この水を近所の人が汲みにきて利用していた。今でもそこからパイプで家まで導水し、雑用水として利用しているようである。他人がうちの土手にパイプを敷いているわけだが、何年も前に土手が崩落して、パイプが露出したことがあるという。パイプは、土手の表土下に埋設されているもので、そのために崩落したのではないかということである。このうちの人は、なかなか難しいことをいう人で、法律をちらつかせて強いことをいうので、パイプを傷つけないように気を使って草を刈ることになる。古いパイプなので、傷でもつけると、今では補修できないようで、また何を言われるかわからない。したがって、一部露出している場所は、1年に1度の草刈のときも、刈らずに残しておく。人の土地に年貢も払わずに管を埋設しているのに、難しいことばかりいうとはなんぞや、という感じで、なんでこっちが気をつかわなくてはならないんだ、といつも愚痴をこぼしている。
 さて、土手の草を刈るのはまだ楽だが、刈った草を片付けるのがまた大変である。それは、随時刈っていれば、草の丈が短いので、茎の太い草などないのだが、時折しか刈らないため、木のように太い草がある。したがって、片付けるといってもなかなか量があって、すぐできるというしろものではない。草を片付けながら、こんな作業じゃ年寄りじゃ無理だと思った。まして、こんな大きな土手ばかり持っているという現実を体感し、最近農村の景観を大事にしようなんていっているが、言うのは簡単だが、口ばかりのお役人にこういう現実を一生やってみろ、と言いたくなる。
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喧嘩両成敗

2005-08-10 08:23:37 | ひとから学ぶ
 衆議院が郵政民営化解散となった。参院で否決されたのに衆院の解散権を行使した首相も、民営化首相を旗印にここまできたのに否決する反対派もどちらもどちら、という見方がある。両者が喧嘩をしてそのつけが税金にやってくるという形であるが、どちらもどちらなら両成敗でどうだ・・・とはいかない。たとえが悪かったが、最近この両成敗という言葉を聞かない。どちらかに白黒はっきりする、したい、という傾向が強い。
 このごろ身近で大人の喧嘩があった。確かに片や手を出した、いっぽうはそのこぶしを受けて怪我をした。その過去には、両者の間でもみ合いがあった。片や「殴られた」といい、片や「つかんだだけ」という。かつての子どもの喧嘩なら両成敗というところだろうが、最近の子どもたちの周辺は違う。どちらが悪かったかが大人たちによって追求され、必ず手を出した側が敗者となる。そこにいたった背景は、あまり重要視されない。ましてや大人の喧嘩となると、ちょっともめれば傷害事件沙汰である。ことに飲んだうえの喧嘩となれば、翌日何も無かったように振舞えとはいわないが、修復すべくなんらかのアプローチをするのがこれまでのように思う。時が不景気で、誰を蹴落としても自らの首が安定しないのなら、落ちていく人間が多ければそれにこしたことはない。そう思えば、ふとした喧嘩であっても、遺恨を残せば命取りともなる。こんな時代だからこそ、自分に自信を持つことも大事だが、いっぽうで「本当に自分は良かったのだろうか」と自問自答する謙虚さもほしい。何がそうさせたのか、と。
 わたしも今までに何度も手をだした。しかし、自分の若いころは(結構近年も手を出したことはあるが)、若気のいたりだから、と許してくれる雰囲気があった。それを繰り返しながら、自らを問うてきたように思う。そのときはとても後悔するものだが、そうした経験があとにつながる。自分の息子を見ていて思うのは、慎重すぎて、危険な橋を渡らない傾向がある。しかし、経験しないとその危険さ、あるいは度合いというものは理解できないはずである。そういう意味で、このごろの子どもたちは、同じことを繰り返すことは得意だが、新たな流れに乗ることが不器用である。
 さて、怪我をした者が強いことはわかる。しかし、喧嘩なのだから、よく知った仲なのだから、白黒つけることを優先するのではなく、両者に何があったのかというところをくみ取ってもらいたい。
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捻挫

2005-08-09 08:19:21 | つぶやき
 足を挫いた。捻挫という言い方をあまりしなかったが、挫いた=捻挫だという。草刈り後の刈った草を片付けていて、ちょっとしたことで足を捻ってしまった。捻る、挫くで捻挫だから字のごとくといわれればそのとおりである。妻は、若い頃に捻挫をして、接骨院でさらに捻られて、いまだに足首が痛いという。加えて、わたしの運転していた車に車がぶつかって、むち打ちをしてから、体の調子は常に悪い。したがって、接骨院から外科から整体と、いろいろはしごしているから、その手の医者には詳しい。しかし、いろいろはしごしたが、結果的に最良なところを見つけていない。飯田によい整体があったが、本人が病で、一般患者を受けなくなって、それからというもの、あちこち歩いている。今は、駒ヶ根市にある接骨院に日々通っている。
 さて、わたしがどこへ行けばよいかと聞いたが、そんな状況だから明確なことはいえなかった。捻挫なら一度で治す、と豪語していた地元の整体にも妻は行ったことがあり、そこはどうかといった。ただし、そこは保険はきかない。ほかにもたくさん接骨院などあるが、どことはいえない。近所に聞いてみたら、○○接骨院がよいという話になったが、そこと、豪語した整体とどちらに行くか悩んだが、二週間後に息子と富士山に登る、ということにもなっていたので、一回で治ると豪語する整体へ行くことにした。ところが、そこへ行ってみて、入ったとたんに怪しいと感じた。しかし、怪しくてもなんとかなったらもうけものと思い、治療まで待った。しかしである。やはり、怪しかった。妻も来たことがあるんだから、この怪しさは察知しただろうに、妻の場合は捻挫ではなかったため、「捻挫なら一度で治る」という言葉は怪しいものの、信用してみることも一つの手と思ったようである。結局、帰宅してから、再度妻や子どもが治療に行っている接骨院に行くことにした。あまりに整体が怪しかったため、その後行った接骨院が、すごく立派に見えた。
 世の中、あまたの同様の治療機関がある。昔から「○○がよい」なんて噂を聞きながら、あちこち行く話を聞くが、人によってあうあわないがある。病も怪我もそうであるが、いざとなれば、頼るのは医者やそうした治療院である。なかにはそうした場所でも治らないといえば、祈祷師や神頼みとなる。人の弱みに対しての頼りの綱は、考えようによっては信仰の世界である。帰ってきて整体の診察券をみれば、「診察券」とは書いてない。「会員券」なのである。先ごろ岐阜の方で怪しい事件があったが、つまるところ、信用してそこを訪れるわけだから、信仰なのである。
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養蚕は待ったなし

2005-08-08 00:03:24 | 民俗学
 養蚕は現金収入を得る手立てとして、大正から昭和初期の最盛期に向かい、ところによっては水田にも桑が植えられていった。「お蚕さま」と「お」をつけるように、大切にされたものだ。
 生まれて3日ぐらいで一眠に入る。眠とは脱皮の準備で、一日半くらい桑を食べずにじっとしていて脱皮する。この一回目の脱皮までを一齢という。脱皮後は二齢となる。二齢も3日くらい食べると1日半休み三齢となる。三齢も3日くらい食べて1日半休み、四齢では四日くらい食べて2日ほど休んでいよいよ五齢である。この段階で4cmくらいになる。五齢期になると桑をたくさん食べるようになり、体長8cmくらい、7日から8日でオスガキである。マブシに入れてやると、自ら繭を作る場所を探す。体内の水部を小便として出し、いよいよ繭作りに入る。繭を作り始めて一週間くらいでさなぎとなり、さらに一週間で脱皮して蛾となる。蛾は繭を食い破って外に出る。雌雄が交尾して卵を産んで一生を終わる。この期間が約50日くらいである。
 さて、家にやってきた蚕であるが、ここ2日ほどで半分が繭状態になった。一生が50日という短さであるから、成長が早いのはあたりまえだが、どんどん繭になっていく。
 こうした養蚕が盛んであったころは、成長が早く生き物ということもあったし、現金になるということで、養蚕中心に農業がまわっていた。そのため、オヤトイの際は大変手がいったため、そうした時期に重なる農作業は後回しにされた。下伊那郡上村下栗で聞いた話では、麦とコンニャクが一つの畑で一年に採れたという。これは麦を収穫したあとに自然にコンニャクの芽が出てきて、そのコンニャクを育てて収穫した。お茶も作っていて、少し前の八十八夜過ぎには茶摘がある。お茶は乾いていないと摘めないため、天候に左右される。さらに春蚕の時期で5月30日にハイサンになり、6月20日にオヤトイとなる。ほとんど手作業であり、かつては運搬器具もなくそれぞれの仕事が数日かかることは当たり前だった。したがって、天候に左右されていると、時期を逃すこともあったという。優先されるものは時期をずらすことのできない仕事で、蚕やお茶を優先したという。そのため、麦刈りが遅れ、コンニャクの芽が出てしまうということがあったようである。
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お蚕さま

2005-08-07 09:33:28 | 農村環境
 信州中条「まゆっこ」を購入した。蚕20匹である。わたしの家ではかつて蚕を飼っていた。わたしの家だけではない。かつては養蚕が盛んで、一時代を築いたものである。子どものころ上座敷と下座敷に蚕を飼っていたもので、上座敷の隣が寝室であったことから、夏蚕のころは、戸で隔たることもなかったので、ほとんど蚕と一緒に寝ていたようなものである。桑を食べる音が賑やかで、今でも忘れられるものではない。そうした養蚕も、昭和40年代ころからいっきに衰退し、現在でも養蚕を行なう農家は、たとえば伊那谷の下伊那郡でも数えるくらいという。
 もう何年もじかに見たことはなかった蚕であるが、久しぶりに見た蚕は、昔の蚕と同様かわいい姿であった。中条村ではこの蚕のセットを販売していて、それを購入したものである。毎年こうして販売しているようである。送られてきた蚕は4~5齢の幼虫といい、7月10日に孵化したものという。飼いはじめて10日ほどであるが、オヤトイをした。もう3匹繭になっている。餌になる桑は、探してくれば今でもあるが、安定した桑を手にいれるには手がかかる。このセットには人工飼料がセットされていて、それを与えるとちょうどオヤトイ(上ぞく)までの間に合う。オヤトイに近くなると、頭をあげ繭をつくり出す格好をする。この蚕をオスガキと呼んだ。体の青みが取れて、透き通るような体になる。家で飼っていたころは、マブシというものがあって、その中に1匹1匹拾ってやとい込んだ。いまどきそのようなものも無いので、近い形にダンボールで作ってみたが、枠が大きすぎるのか、気持ちよく入ってくれない。夏蚕は飼い易いといわれる。陽気がよく、成長も早い。
 蚕の糸の長さは800mから1000mくらいという。繭になりかけると、一日というと、外から見えなくなる。5日もたつとさなぎになる。考えてみると不思議な生き物であるが、蚕の姿ほど心を和ませるものはない。もう少し、蚕の時期が長ければペットにもなるかもしれない。それほど見ていて飽きないのである。
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六道地蔵尊

2005-08-06 11:05:50 | 民俗学
 8月6日といえば、広島に原爆が落とされたことでしられているが、最近では、その日と知らない人も多いという。
 同じ日、長野県伊那市の天竜川左岸の段丘上にある六道の辻には、霊迎え(精霊迎え)の人たちが集う。かつては原っぱの中にあった六道の辻は、現在は水田地帯の中に森がぽつんと目立つ。その森の中に六道地蔵尊がまつられている。6日未明から霊迎えに近在から訪れる。昔は北は塩尻、南は飯田あたりからも霊迎えに訪れたといわれるが、現在は北は辰野、南は駒ヶ根あたりまでの範囲という。とくに新盆の家では必ず六道へお参りし、仏様を迎えたものという。昔は新盆から3年間は六道へお参りしたというが、今は1年だけという人がほとんどのようである。そして、六道の森の松の枝をおしょり(折って)、この松の枝に仏様を乗せて家へ迎えたという。現在では、松の木が大きくなってしまい、枝を折るような松がなくなってしまったが、お札と松の枝に白紙を巻いたものを売っていて、それを買い求めていく。ほぼ午前中には参拝者はなくなるが、昔は一日中賑わったもので、夕方になると、若い衆が集まり、境内で盆踊りが行われたという。このときうたわれた唄がエーヨー節というもので、「たむらからきて ありゃこのさわぎ おゆるしください おむらかた サ ヨーイソレ」「たむら若ししゅう よくきてくれた さぞやぬれつら エーヨー まめの葉で」というものであった。
 同じようにとくに新盆の際、精霊迎えに特別な寺を訪れる風習は各地にある。穂高町牧にある満願寺も8月9日に精霊迎えが行われ、近在から宗派、檀家という枠を超えて人々が集まる。六道の辻といえば、もっとも知られているのは、京都六波羅の六道さんである。正式には珍皇寺のことで、このお寺は六波羅密寺の近くにある。ふだん訪れても人影はなく、京都にあっては大変さびしい寺であるが、8月8日から10日の六道参りには、大勢の人が訪れるという(わたしは六道参りの時期に訪れたことはなく、ふだんのさびしい寺しか知らない)。この六道参りには、京都市内はもとより、京都以外の地域からも先祖を迎える人々が訪れるという。訪れる人々は、高野槇の葉を買い求め、次に本堂前で水塔婆と呼ばれる塔婆を買い、そこに迎える先祖の名を記入してもらう。そして本堂横にある迎え鐘をつき、水塔婆を石地蔵前の水の入った木箱に納め、上から高野槇で水を注ぐ。これを水回向といい、この高野槇を持って家へ帰るもので、高野槇に先祖が乗って家へ帰るという。伊那市六道地蔵尊の松の枝と同じ意味を持つ。
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毎日の繰り返し

2005-08-04 20:55:46 | ひとから学ぶ
 わたしは今の事務所にきて、一年余である。毎日午前中の早い時間に、臨時の女性職員が「今日はお弁当とりますか」と聞いてくれる。わたしは毎日弁当を自宅から持参のため、まずこの問いかけに対して、「○○の弁当をとってください」という返事をすることはない。「いりません」という返答を毎日しているのである。
 いまどき女性にお茶を入れさせるのも問題ありかもしれないが、こうして弁当の注文を聞くのも、この事務所に来て初めて経験した。問題あり、という指摘をうければそれまでたが、わたしはそんな是非を問うわけではない。ふつうなら、「こんなこと自分でしろ」といわれるものをしていただいているのはわたしたちにはありがたいのだが(その理由に彼女たちも弁当をとるついでということもあるが)、ほかの事務所で働いた時には、弁当持参で毎日「いりません」を繰り返していると、この人には聞く必要はない、と知らない間に聞かれることはなくなった。ところが、一年も「いりません」を繰り返していても、必ず聞いてくれるのである。こういうのが、ある意味平等性だとおもうのだが、どうだろう。くだらないことといわれてしまえばそれまでだが、一言「もうわたしには聞かないでいいです」といってしまえば、それで済むかもしれない。でもいつかは頼むこともあるのかもしれない。そのへんの微妙な世界で、あくまで、否定されようが問い掛ける、そういうあたりまえのようであたりまえでない繰り返しが、今の世の中から失われているような気がする。
 最近では、みなさん知恵がついて、自ら不合理と思えば合理的に変化させていく。しかし、どこかそれをできない部分もある。しかし、不合理であろうが、人とひとのかかわり中には、その不合理がつながりを持たせてくれたりするものである。「もう聞かなくていい」という言葉を発していない自分、そして、そうはいっても毎日聞かなくては、と思う問い掛ける側、そうしたなんでもない、そう深くは考える必要のないものであっても、あらためてその空間につながりを見出したとき、ほっとすることもあるはずである。
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2005-08-03 21:55:23 | 農村環境
 盆といってもなかなか季節を感じる風情はなくなった。なにより暑すぎる。暑すぎれば家を締め切って冷房を入れることになり、外とのつながりはなくなる。家の中の音はしないし、人の気配すらなくなる。農村であれば野に出て働く人が見られるが、町場にいたっては、どこも家は閉められて、家々の空気のつながりはなくなる。盆の風情などなくなるのはあたりまえである。
 このあたりでは13日の朝に盆棚をつくる。13日から16日が盆である、という認識は、この盆棚のありなしにもよるだろう。しかし、最近は盆棚も作らず、ふだんの仏壇のまま盆を迎える家も多いという。盆棚にはマコモなどで編んだゴザか敷かれ、その先端は、畳に垂れるようにする。ここから仏様が盆棚にのぼるものだという。盆棚には、仏壇から位牌が移され、オミナエシやキキョウが盆花として飾られるが、なければその花にこだわることはない。仏壇は扉が閉められ、盆の間は盆棚に仏様は移る。水鉢の水にミソハギを添えて供え、毎朝この水を仏様にかける。15日には胡瓜で馬を、茄子で牛をこしらえて供える。いよいよ仏様の旅立ちの準備である。馬、牛の尻尾にはキビの毛が使われ、手綱としてうどんを背中にかける。
 仏様は16日の朝なるべく早く送る。かつてはほとんどの家が川や、近くを流れる用水路などに流して送った。衛生上好ましくないといわれ、もう30年以上前から、農村部でも川へ流すことを控えるようになった。仏様のおみやげとして供えた果物などがゴザにくるまれて流されたもので、このおみやげ欲しさに子どもたちは競ったともいう。わたしは、家の近くに大きな河川があったため、その川へ行って仏を送った。大きな川ではあったが、夏場の水量は少なく、かわべりの砂の上において、線香をたむけて送ったものである。仏様を迎えるころには、いよいよ盆だという気持ちで、子どもたちはうれしさを覚え(おじさんたちが帰ってくる)、仏様を送ると、急に寂しさを覚えたものである。それは、盆の終わりととともに、夏休みが終わったからでもある。最近は農村部でも夏休みが長くなったが、かつては盆が終わると、本当に夏休みも終わりであった。そして、旧に涼しくなり、夏の終わりを感じたわけである。下伊那郡阿南町新野の盆踊りでは、16日から17日にかけて一晩中踊った後、太陽があがるころ、踊り神送りの行列が寺へ向かって終わりとなるが、この際に若者たちが、行列が進むのを阻止しようとする。行く夏を行かせないようにという、心の持ちようである。寺で送られたのち、秋唄を唄って帰るわけで、いよいよ、実りの秋の到来なのである。このような、季節、行事、自分の生活というものが、微妙につながり、気持ちを左右させる、そんな盆がなかなか味わえないこのごろである。
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貧困の国

2005-08-02 18:13:19 | 農村環境
 今日の朝日新聞の「思潮」に日本の貧困について記事がある。OECDが発表した日本の貧困率は15.3%であり、世界で5番目に貧困率が高い。そのうち、先進国の中では3番目に高い。もちろんこの上位国にアメリカも入っている。アメリカは貧富の差があたりまえの国であるから、さほど珍しくもないが、日本が貧困率が高いことに、多くの人は気にはならないだろう。それほど貧困率が高いといわれても、実感するまでたどりつかないのだ。それは、いわゆる一億総中流時代の名残りなのであろう、なかなかその現実を認めたくない国民性もある。誰が飛び出るでもなく、平均的であった時代は、平和であったからである。しかし、これほど事件、事故が多くなろうとも、また、課題が次ぎから次へと出てきても、それほど身近な現実とは捉えようとしていない。
 貧困率とは、平均所得の50%以下の世帯の比率だという。その中には生活保護世帯も当然入るけであるが、この生活保護世帯というのが、現在わたしの家のまわりにあるかどうかはわからない。好き好んで生活保護を受けています、なんていえるものではない。かつて自分が子どものころ(30年ほど前)、友達に生活保護を受けている世帯があった。父親は働いていないわけではなかったが、農村地帯にもかかわらず農地はなく、石屋をしていたが、高齢であったこともあってすでにそれほど働くことはできなかったようである。当時は田舎に働き場というのはそれほど多くはなく、職人が最も一般的な働き口であった。そして、多くは、農閑期などの農業の補完的な意味で金銭を求めて働きに出ていた時代である。したがって、職人だけで食べるとなると、一人前にはたらけないと苦しい。もちろん、当時は片親の家庭はそれほど多くはなかったが、母親世帯には同様に生活保護を受けている友達がほかにもいたように記憶する。それにくらべれば、今の方が環境は整っているように思うが、実は、生活保護の敷居が意外に低いのである。
 生活保護は、最低生活費よりも収入が低いと受ける対象になるようで、この最低生活費というのが、農村の生活費からみるとけっこう高いのである。身のまわりにも正規社員ではない人たちが働いているし、そうした人たちの中には親の面倒を見ている独身者もけっこういる。そうした人たちにとっては、おそらく、生活保護の対象になってもおかしくない人たちがけっこういるように思う。にもかかわらず、必ずしも生活保護を受けているわけではない。それは、生活保護への抵抗というものがあるだろう。かつて、友達の家について、まわりの家の者が「生活保護を受けているくせに」という言葉を裏で話すことを耳にしたことがあった。いかに保護を受けるということが恥かしいかということが、うかがわれる。だからといって生活保護を受けやすい社会にしよう、なんていうのも聞こえが良くないし、社会状態として正常ではない。いっぽうで、扶養控除が改正されていき、ようは夫婦共働きをしなさい、という社会になりつつある。にもかかわらず、雇用状態はよくなく、ますます低賃金で働け、ということにつながる。そして、子どもが少ないから産めるような環境を作ろうなんていう。悪循環は土壷にはまっていく。貧富の差があるんだから、金持ちが子どもをいっぱい産めばいい。ニュースなんかで、子どもを産んでいてもおかしくないような女性キャスターが、いつまでも金を稼ぐんじゃなくて、ちゃんと結婚して、子どもをたくさん産んでからえらそうなことを言え、なんて思う時がよくある。こんなことを言うと、差別だとか言われるのだろうが、冷静に考えて身のおきどころを判断したいものである。
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月曜の朝

2005-08-01 19:18:13 | つぶやき
 わたしは月曜の朝、長野へ向かって国道19号を走る。これはわたしがウィークデーは長野で仕事をしているためで、週末には家に帰る。この生活を始めて1年少しであるが、昨年の今ごろから、時間帯は少し異なるが、データをとっている。何のデータかというと、いわゆる道路通過時刻を記録しているもので、道路時刻表のようなものである。
 月曜の朝、午前6時過ぎ、東筑摩郡明科町の川西から長野市川口(旧大岡村)まで走ると、速いときで20分、遅いと25分かかる。この時間帯に走るようになったのは、今年の1月からであるが、そのころはもう少し遅く6時半ころの通過であった。冬場でも20分と少しという区間時間であったが、6時に近くなると、むしろ時間がかかるようになる。普通なら、夜に近いほど早くなるような気がするのだが、逆なのである。ちなみにこの時間帯に走る車は、通勤者が多い。
 もう少し具体的な話をしよう。金曜日にはこれを逆に松本に向かって走る。通過時刻は、夕方のやはり6時過ぎころである。この時間帯は、やはり通勤者が多いが、朝に比較すれば車の台数は多い。このときの通過時間は、一定していて、22分か23分である。早いと20分くらいの時はあるが、それは珍しいことである。
 両者を比較して何を言いたいかであるが、①車の台数は朝より夕方の方が多いのに、少し時間がかかり、日によって差が激しい。②この間には信号機はいくつかあるが、赤色に変わる可能性のある信号は、二つしかなく、それもめったに赤色に出くわすことはなく、遭遇したとしても片方だけである。ということは比較的一定した速度で走れるはずなのに、なぜこんなに差が出るのか。といったことがいえる。この間は、平均速度65km程度で走ると、約20分で走れる。制限速度を少しオーバーしているが、20分で走りたければ、平均65kmである。なぜこういうことになるかといえば、極度に遅い車が、必ず朝の時間帯に走っているからだ。この間は、すべて追い越し禁止区間であるため、違反しなければ抜くことはできない。したがって、国道19号の松本長野間には、ところどころゆずりゾーンなるものがあって、「おそい車はゆずりましょう」という看板がある。にもかかわらずこの極度に遅い車は、まず譲らない。○○運送会社の車で、名前もわかるので苦情があったのか、最近、しばらく走ったのち、時折譲ることがあるが、すぐにはゆずらない。時には、トンネルに入ったりすると、後続の大型車でせっかちなやつが、クラクションをがんがん鳴らしたりするが、おかまいなしだ。正直この車を見たら、みんなあきらめたようにゆっくり走る。車間を空けていたりするので、後続の車も遅い車だなーなんて思っていると、時折譲ったりすると、見違えるようにスピードを出したりする。スピードの出しすぎもいけないが、遅くて人々をいらだたせるのも事故のもとである。
 わたしはこの道を何百回と走っているが、なかなか楽しい(?)事件が何度かあった。いずれにしても、信号が少ないため、普段なら快適なのに、この車を見たとたんにがっかりする。ウィークデーの真っ先にがっかりすることほど、先々暗いことはいうまでもない。
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