「行って参ります」の言葉には、行く世界と参る(帰る)世界があるという(真宗大谷派善勝寺報2005/8/1より)。行く世界は外向きの世界で、気を引き締めていないと何があるかわらない。いっぽう参る世界は、安らぎの世界になる。人は毎日これを繰り返す。だから家を出る際に発するこの言葉は、その両者の世界を隔てる区切りの言葉となるもので、玄関の扉のようなものである。しかし、参る世界、いわゆる帰ってくる世界に安らぎがないと、両者の均衡は保てない。これは、現代社会の外とのかかわりが多い世界には納得できる言葉であるが、では、自家で仕事をしていれば外向きの世界はないのだろうか。いや、そんなことはない、隣近所とのつきあいがある。しかし、いずれにしても外と内という境界が、かつての暮らしには頻繁に現れることもなかったし、外の世界にそれほど危険があったわけではない。そこへいくと、今は、よりいっそう外の世界を意識せざるを得ないし、また、さまざまな情報があって、その情報に耳を傾けずにはおられない現実がある。外向きの顔と、プライベートな顔と、どちらも自らであるということを認識しながら、それぞれの世界を行き来していたことになる。
ところが、人々は慣れてきたのだろうか、両者の世界をそれほど意識しない人々が多くなったような気がする。例えば、身内であっても必ずしも面倒を見るのは、自らとは限らないし、最近よくいわれる子育て支援のように、自分の子どもであっても、子育てを自ら行なうとは限らない姿が見えてきた。世の中が働く人々を支援し、健全な社会を形成しようという社会福祉という制度の充実というように捉えられるが、本当に健全といえるのだろうか。年よりも子どもも、もしかしたら参る世界を失い、行く世界で常に身を横たえることとなってしまう。それはそれでよいかもれないが、「行って参ります」の世界は失ってしまう。失って何か問題があるかといわれれば、その問題を具体的には指摘できないが、それは心の問題であり、自らが生を受けた以上、自らは何をするべきかという自責の問題である。外も内もないのなら、外で起きた事故も、内で起きた事故も、どちらも人の責任であるということが言えてしまうかもしれない。
これは極端なのかもしれないが、自らが外に出る必要が生まれた段階で、自らがどんな事故に巻き込まれようと、それは人のせいではなく、自らの引き起こした運命だと思わざるをえない。自分の子どもが、もし通り魔に襲われようと、この社会を形成してきたのは誰というわけではなく、人それぞれなのだから、それを誰の責任とも言い難いところがある。確かに犯罪を犯す側の責任は大きいが、それだけではないはずである。結局は運命であり、そこでさまざまに心めぐらしても、何も元通りにはならないのである。
訂正 かつての暮らしは外にそれほど危険があったわけではないといったが、外にはなくともさまざまな危険があったことは触れておかなくてはならない。戦争や病気というものもあった。かつて子どもをたくさん産んでもその子ども全てが成人するとは限らなかった。いかにものの考え方が今とは異なっていたかということを、子どもたちにも、また大人たちにも認識してほしい。
ところが、人々は慣れてきたのだろうか、両者の世界をそれほど意識しない人々が多くなったような気がする。例えば、身内であっても必ずしも面倒を見るのは、自らとは限らないし、最近よくいわれる子育て支援のように、自分の子どもであっても、子育てを自ら行なうとは限らない姿が見えてきた。世の中が働く人々を支援し、健全な社会を形成しようという社会福祉という制度の充実というように捉えられるが、本当に健全といえるのだろうか。年よりも子どもも、もしかしたら参る世界を失い、行く世界で常に身を横たえることとなってしまう。それはそれでよいかもれないが、「行って参ります」の世界は失ってしまう。失って何か問題があるかといわれれば、その問題を具体的には指摘できないが、それは心の問題であり、自らが生を受けた以上、自らは何をするべきかという自責の問題である。外も内もないのなら、外で起きた事故も、内で起きた事故も、どちらも人の責任であるということが言えてしまうかもしれない。
これは極端なのかもしれないが、自らが外に出る必要が生まれた段階で、自らがどんな事故に巻き込まれようと、それは人のせいではなく、自らの引き起こした運命だと思わざるをえない。自分の子どもが、もし通り魔に襲われようと、この社会を形成してきたのは誰というわけではなく、人それぞれなのだから、それを誰の責任とも言い難いところがある。確かに犯罪を犯す側の責任は大きいが、それだけではないはずである。結局は運命であり、そこでさまざまに心めぐらしても、何も元通りにはならないのである。
訂正 かつての暮らしは外にそれほど危険があったわけではないといったが、外にはなくともさまざまな危険があったことは触れておかなくてはならない。戦争や病気というものもあった。かつて子どもをたくさん産んでもその子ども全てが成人するとは限らなかった。いかにものの考え方が今とは異なっていたかということを、子どもたちにも、また大人たちにも認識してほしい。