Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

養蚕は待ったなし

2005-08-08 00:03:24 | 民俗学
 養蚕は現金収入を得る手立てとして、大正から昭和初期の最盛期に向かい、ところによっては水田にも桑が植えられていった。「お蚕さま」と「お」をつけるように、大切にされたものだ。
 生まれて3日ぐらいで一眠に入る。眠とは脱皮の準備で、一日半くらい桑を食べずにじっとしていて脱皮する。この一回目の脱皮までを一齢という。脱皮後は二齢となる。二齢も3日くらい食べると1日半休み三齢となる。三齢も3日くらい食べて1日半休み、四齢では四日くらい食べて2日ほど休んでいよいよ五齢である。この段階で4cmくらいになる。五齢期になると桑をたくさん食べるようになり、体長8cmくらい、7日から8日でオスガキである。マブシに入れてやると、自ら繭を作る場所を探す。体内の水部を小便として出し、いよいよ繭作りに入る。繭を作り始めて一週間くらいでさなぎとなり、さらに一週間で脱皮して蛾となる。蛾は繭を食い破って外に出る。雌雄が交尾して卵を産んで一生を終わる。この期間が約50日くらいである。
 さて、家にやってきた蚕であるが、ここ2日ほどで半分が繭状態になった。一生が50日という短さであるから、成長が早いのはあたりまえだが、どんどん繭になっていく。
 こうした養蚕が盛んであったころは、成長が早く生き物ということもあったし、現金になるということで、養蚕中心に農業がまわっていた。そのため、オヤトイの際は大変手がいったため、そうした時期に重なる農作業は後回しにされた。下伊那郡上村下栗で聞いた話では、麦とコンニャクが一つの畑で一年に採れたという。これは麦を収穫したあとに自然にコンニャクの芽が出てきて、そのコンニャクを育てて収穫した。お茶も作っていて、少し前の八十八夜過ぎには茶摘がある。お茶は乾いていないと摘めないため、天候に左右される。さらに春蚕の時期で5月30日にハイサンになり、6月20日にオヤトイとなる。ほとんど手作業であり、かつては運搬器具もなくそれぞれの仕事が数日かかることは当たり前だった。したがって、天候に左右されていると、時期を逃すこともあったという。優先されるものは時期をずらすことのできない仕事で、蚕やお茶を優先したという。そのため、麦刈りが遅れ、コンニャクの芽が出てしまうということがあったようである。
コメント    この記事についてブログを書く
« お蚕さま | トップ | 捻挫 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事