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農村振興における民俗学の可能性

2005-08-28 12:21:02 | 民俗学

はじめに
 「日本民俗学」最新号(243)が届いた。目次をみて、民俗学が農業農村問題にアプローチしている論文がそこにあった。かねてから、民俗学が枠の中だけで論じられていて、現実の問題には寄与しないような風潮があって、期待していた分野なのに、その力のなさに憤慨していた。そうしたなかでの今回の論文に、日本民俗学がどうこのことにかかわっていくのか、これからをみていきたい気持ちにもなった。

1.山下論文
 その論文、山下裕作氏の「農村振興における民俗学の可能性」では、食料農業農村基本法が制定され、そのなかで農業農村の多面的機能があげられ、それに応じた施策が行われてはいるものの、「文化」という面では希薄で、現実的な行政の範疇では理解されていないと述べている。しかし、それは民俗学が実践の場に立ってこうした農業農村の多面的機能に対して積極的な提言をしてこなかったためともいう。山下氏は中国地方で自ら実践した事例を紹介している。荒廃農地をどう利用するかで悩んでいた地域に調査に入り、かつて行われていた小麦の生産を提案した。そして販売面の問題は、かつての小麦栽培が、生産から消費まで生産地の中で完結していたことから、地域(直売所)で販売するという方法で解決した。詳細を省いているので、単純な流れで、一般的な感じはするが、この地域で「小麦」にかかわるさまざまな聞き取り事例から、地域にとって小麦がどうイメージされ、位置づけられていたかが、調査することでわかり、地域で共感が持て、さらに協働できる作物というところで、小麦がその候補としてあがってきたわけである。「民俗学は地域住民と伝承を対象とする学問であるがゆえに、住民との共感と協働が可能であることを実感している」と山下氏はいう。

2.合意形成の目的
 地域はさまざまで、かならずしも山下氏の事例の通りにはいかない。山下氏も述べているが、食料農業農村基本法の制定後、それまで農村の持つさまざまな機能を重視しなかった多くの施策が、一変して住民意向調査などを行ったり、あるいは合意形成のためにワークショップを行ったりするようになった。短絡的にいってしまえば、農民が多かった時代には、農村地帯で事業を行うにも、農民の意向で行う事業だからみんな必要だと認識している、という前提があった。しかし、農民が減少し、にもかかわらず農業にかかわる事業を補助金で行うことの意味がどこにあるか、それを理解してもらうがうえの「多面的機能」であったといっても過言ではない。そうしないと、農村地帯が生きていけなかったからである。また、農村地帯であっても、農民以外の住民が増え、景観重視で住み着いた後から来た人々にとっては、その景観をいじることじたいが納得できないこともある。こうした開発行為を農民だけではなく、部外者にも合意形成に加わってもらうことにより、免罪符をもらうというような意味もある。こうした流れがよいのかどうかは、実際こうした事業にかかわっているわたしには異論もある。それは後述するとして、もともと山下氏のいうような文化面は、多面的機能では重要視されていなかったはずである。だからこそ、ワークショップでは「集落点検」なることが行われ、参加した人々に集落を歩いてもらい、良いところ、悪いところを確認してもらい、それを整理することで、集落として何をするべきか(この場合整備するものとして優先するものは何か、と問うことが多い。それは、もともと事業を起こすにあたって、こうした合意形成をしろという前提があるから、結果的にはそういうことになってしまう)を認識してもらったのである。したがって、点検マップには、文化財、あるいは民俗的事象がふくまれることはあっても、それが後の事業化の中では重要視されないのである。

3.合意形成と現実の施策
 こうした合意を得ることで、事業が認知されると、環境調査として行われるものは、ほぼ生態系に限られている。それは、最近とくに絶滅危惧という言葉が当たり前のように聞かれるように、希少な動植物をなくしてはならないという観点による。しかし、ご存知のように外来種にも希少種がある。日本へ古い時代に移入した植物も多い。そうした中には、希少になったものもある。もちろん植物にいたっては、原生のものは少なく、人々が土手の草刈、あるいは里山を管理していたことによって植生というものが成り立ってきた。したがってそうした背景をどう取り扱うかというところも大事で、そういう面には民俗の視点も必要とされる。しかし、現実的には、希少なものをなくさないようにというところに視点がいき、結果的には希少なものにだけに目が奪われたり、「ホタルを復活しよう」のように、他地域の優良事例にはまって、どこでも同じことをしたり、よそのDNAを移入してしまうことも多い。開発側が自らの立場を保全するためにおこなっているから、つまるところこういうことになってしまう。もちろん、山下氏も指摘しているが、他地域の優良事例に惑わされることなく、その地域の「村がら」を住民に認識してもらったうえで先を見据えなくてはならないだろう。

4.民俗の視点の必要性
 わたしはこうした現在行われているワークショップは意味がないと思っている。もともとワークショップに反映される意見、視点、そして参加した人の認識という部分で、地域全体というよりも個人、それも一部に限られている。本来の問題をどう解決していったらよいか、そういうワークショップは現実的に少ない。裏(事業化の免罪符)があるからそういうことになってしまう。真摯に地域問題にかかわるなら、山下氏のいうような共感、協働作業が民俗学の視点で必要だろう。第51回地方史協議会大会(平成12年)で、「ほ場整備による生活と意識の変化」と題して発表させてもらったことがある。大規模整備のなかで何が失われたかその事例をあげてみた。その事例は、かつての合意形成が行われない時代、高度成長時のものであるがため、多くの景観変化があった。しかし、それによってすべてが失われたわけではなく、その後の暮らしに継続されたものもあったはずである。この事例で紹介した地域は、まさしく今になってさまざまな問題を抱えている。その中で地域がどう続いていくか、そんな部分では山下氏の言う行動は必ず必要になるはずである。

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