Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続・住まう環境

2018-07-15 23:13:00 | 自然から学ぶ

住まう環境」より

 長野県内において、昭和57、58年といったころに災害が多発したことは何度も記した。わたしの長い生業人生の中でも、昭和58年は特別だった。会社の先輩たちに言わせると昭和36年の通称“サブロクサイ”と言われた災害が最も記憶に残るものだったようだが、すでにわたしが経験値として最長になっている我が社の現状の中でも、やはり昭和58年災害が最も大きなもの。その後の災害で記憶に残るものは、地域限定的で、災害発生エリアで働いていたならば「大きかった」と言えるようなもので、誰もが共通して「大きかった」とはなかなか言わない。そうした中、直近で大きな災害だったもののひとつに、平成18年7月豪雨災害がある。先ごろの西日本の災害も7月豪雨災害となったわけであるが、広範であって長野県内でも避難指示情報が発令されたほどだったが、幸いにも人命にかかわるものはもちろん、公共的な部分においても、それほど災害が多発したわけではなく、小規模なものだったと言える。

 平成18年7月豪雨では、岡谷市湊地区7名、川岸東地区1名、辰野町飯沼1名、辰野町小横川1名の死者を出した。死者10名以上という災害は数えてもそう多くはない。それら災害は山腹崩壊による土石流や崩壊による直接的災害だった。今回の西日本の災害にも同じような事例を見ている。「どこが違う」でも触れたが、今回の総雨量は、ところによって平成18年7月豪雨並の雨量を記録している。中学生の亡くなった辰野町小横川の総雨量は、当時365mmだった。また、7人の命が奪われた岡谷市湊では400mm以上を観測した。当時は上伊那エリアにおいて、400mm以上を記録したところが多かった。そしてその通り、上伊那では災害が多発したのだ。災害後、わたしがたびたび現場に入った伊那市西春近でも434mmを記録している。今回の豪雨とこのときの経験値からわかることは、400mm以上の累積雨量は危険域とも捉えられる。

 平成18年からすでに10年以上を経過している。昭和57、58年ころは毎年大きな災害が発生していて、とりわけ千曲川流域では浸水被害が繰り返された。長野県は急峻な山を背後に置いているため、西日本とは比較にならないほど、災害リスクは高いと考えられる。住む場所として「住まう環境」でも記したように、「ここで良いのか」と思うような場所に家を構えている人たちも少なくない。したがって「どこが違う」で記したように、同じ情報の中でも差異が明らかに住民にはわかる。今回の災害でも、細かい情報が必要ではなかったかという声を聞く。たとえば全域避難指示となった場合、どこへ避難をするのか。そもそも全域とはどういう意味なのか、それほど全域危険域なのか、そうした情報を丁寧に説明するべきではないだろうか。さもなければ、「全域」という発令方法は考えるべき。やたら避難情報が連発されると、住民の危険意識は下がるばかりなのだ。

 わたしの暮らしている土地も、地面を掘ると平べったい石が東に向かって重なるように埋没していることがある。これは大昔、西山が崩れて流れ出した土砂が埋まったものとも言われ、西から東に流れたため、東に向かって重なっている。山裾からは数百メール離れているから実感はわかないが、災害に想定外はないと言えそう。とはいえ、要因があるから発生するものであって、自らの住んでいる場所がどういうリスクを負っているのか、どういう状況だと災害を被るのか、自ら認識しなければならないこと。とりわけわたしは、新たに住まう場所を選択する際に、断層上、あるいは浸水エリアは回避した。


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